第42話 マスクについた口紅は、決して相手のマスクには移らない

Mission:知り合いにバレないようにイチャつけ!





「暑いな……」


 夏のマスクは蒸れる。冬のマスクは冷たい空気が入ってこなくていいが、夏のマスクはただただ空気が籠もって暑い。

 ――夏ではないか。残暑の季節か。


 学校に私服で来るなんて当然初めてのことでそわそわしてしまう。だから一分に五回ぐらい腕時計を確認してしまう。

 ——時計は遅々として進まない。


 別に秋夜さんとのお出かけに未だにドキドキしているわけじゃない。そう言い訳してもう一度、腕時計に目を降ろす。

 現在時刻は九時半。集合時刻の三十分も前だ。


 顔を上げると、ふと向こうからやってくる人の波の中にマスクをしている女性がいて、秋夜さんかと心が躍った――が、コーデの気合いの入れ方が半端じゃないから別人だと判別する。

 本人の前で言えば殺されるが、秋夜さんは元が可愛いのに甘えて、お洒落に対して無頓着だったりする。別に文句を言っているつもりではない。


「にしてもなぁ……」


 自分のことはさておき、こんな暑い日にマスクをしているなんて不思議な人だな、と首を傾げた。


 ため息を吐いて木陰の色の濃い方へ一歩下がって数十秒後、ちょんちょんと横から肩をつつかれた。

 見れば、美女がいる。というか、さっき秋夜さんと見間違えた人だ。――なんだか、顔のパーツが秋夜さんに似てなくもない。どこかのアイドルだろうか。


「なんですか?」


 デニムのキャップから垂れる髪の毛はパーマが当てられているのか、ふんわりした曲線を描いている。薄く引かれたアイシャドウが目元をぱっちりさせ、くりくりと可愛らしく動く瞳を引き立てる。


 秋夜さん相手じゃないのにドキッとしてしまった。一瞬、心が揺れてしまった。――僕はサイテーな男なのかもしれない。


 彼女はニコリと笑い、詩を読むように言った。


「お月様お月様、秋の夜はすぐそこですよ?」

「へ? ど、どういうことですか?」

「ん、これでも分かんなかったからお仕置き」


 聞き馴染みのある声音が耳に響いたと同時、僕は彼女に両手首を掴まれて、壁に押さえ付けられていた。

 突然のことに理解が追い着かず、身体が固まる。


 コツンと、額と額が合わさる。焦点が合わなくなって視界がぼやける。

 ふわりと香る匂いが、秋夜さんと同じものだった。細めた目の形が、秋夜さんと全く同じだった。というか、秋夜さんだった。

 心臓の跳ね具合が一瞬にして最高潮に達する。


「マスク二枚越しぃ~」


 その意地悪な声はやはり秋夜さんだった。

 直後、固いマスクの布越しに得たマスクの布の感触、そしてそのさらに奥に、柔らかな感触を得た。押せば沈み、引けばもっちりとくっついて離してくれない『肉』の感触。


 すぐには離れない。まるで何かを教え込むように、刷り込むように、強く長く押し付けられる。


 ドキリと心臓が疼く。秋夜さんの閉じたまぶたが、見開いた目の網膜に映った。それがゆっくり開いて、僕の瞳を覗き込んだ。焦点の合わない視線がその境界をあやふやにして絡み合う。


 息が苦しくなってきて思考が朦朧としてきたとき、ようやく秋夜さんは離れた。彼女は少し荒くなった息を整え、それから形の歪んだマスクの両端を引っ張って、再びニコリと笑う。


「月弥、おはよ。待たせたわね」

「っ――い、い、今の……」

「私って分かってくれなかったもの。お仕置きよ」

「そ、それは雰囲気が別人だしお洒落だしっ――ってそうじゃなくてっ!」

「今日はいつもの百倍本気を出したから。それにどう? 初のナチュラルメイクよ。私可愛い?」

「その、い、い、いつものひゃ、百倍――っ! な、なんでもない! だからそうじゃなくてっ、今の——」

「ふふ、ありがと。ね、月弥」


 自分の発言に気がついて慌てて否定すると、秋夜さんは嬉しそうにはにかんで、僕の名前を呼んだ。

 彼女の声が鼓膜を震わせ、シグナルとなって体を駆ける。脳にその信号が達するよりも先に脊髄が反応して、体の、そして声を出すために震えていた声帯の動きを止める。


 その直後、再び唇に感じるその感触は、今度は一瞬だった。

 彼女は僕のマスクの上に指を置いた。


「マスク、裏表が逆よ」

「っ――と、とと、トイレ……」


 意味を為し得ないただの名詞をドモリながら呟いて、秋夜さんを置いて校門近くのトイレへと走った。


「あぎゅっ……バカ、ばかばかばか……私のばかっ。何やってるのよっ、ばかっ……。

 ふへ、きす。きもちぃいかった。ん〜すきぃ……」


 後には、その場にしゃがみ込んで頭をポコスカ殴り、それから一転、とろんと表情を溶かす少女の姿があった。



 *



「結局マスク外すのかよ」

「っ……カッコいい……」

「は?」


 トイレから出てきた秋夜さんはマスクをしてなかった。逆に目立つ、というのを言い分に口紅がマスクにつくのを嫌ったようだ。——マスクをつけろというのは誰の案だというのか。

 そんな意味を込めて秋夜さんを睨めば、彼女は胸を押さえてふらついたように後退り、そう呟いた。


 振り返るが、壁である。『カッコいい』って……僕?


「つ、月弥もう一回睨んで。マスクと睥睨で五割り増しよ」

「はぁ?」

「あぅっ……か、カッコいい……」


 意味がわからなくてもう一度睨めば、秋夜さんは顔を押さえて指の隙間から目を覗かせた。

 バカにされている気がしてマスクを外すと、秋夜さんは残念そうな顔をした。僕はため息を一つ、ベーっと舌を出してマスクをポッケに仕舞った。


 校門でもらったパンフレットを眺め、少し唸る。


「んで、どうしよっか。ステージ公演までは時間あるし……お化け屋敷、混んでそうだけど並んでみる?」

「そうしましょ。お昼からは余計に人が増えそうだから」

「ん、りょーかい」


 お化け屋敷の教室の前は予想通り長蛇の列が出来ていた。これに並ぶのかと気分が萎えたが、整理券を配っているとのことなのでもらうことにした。


「ただいまこちら謎解きの迷宮やってま〜す! 待ち時間はゼロ分で〜す」


 お化け屋敷の隣の教室の、プライドもへったくれもない客引きの宣伝を聞き、顔を見合わせる。

 まぁ入ってみるかと、どちらからともなく頷いた。


 客引き文句通り待ち時間ゼロ分で間仕切りと段ボールで作られた小部屋通されて、中にいた生徒——もとい館の主からルール説明を受け、そこで第一の試練を受けることになった。

 ——謎解きなのか試練なのか、設定がぐちゃぐちゃである。


「んぁ、失敗した。秋夜さん交代」

「任せなさい。――ところで月弥、お昼はどうする?」


  第一の試練は手作り感満載のパチンコ台を傾けてゴールにピンポン球を持って行くというもので、意外と難易度が高くて興が乗った。

 秋夜さんとお喋りしつつ、交代制で何度かチャレンジする。


「ん~……食堂とかは混むかなぁ……」

「あ、お昼なら校庭の屋台がオススメですよ」


 ルール説明をしてくれた生徒、もとい館の主が高めの声でそう口を開いた。

 ——おい、さっきの試練の説明の時もっと物々しい口調だったよな? てかさっきから思ってたけどなんで第一の試練から館の主が出てくるんだし。あと館の主が狐のお面と魔法少女のステッキって、どんな組み合わせだよ。適当かよ。


 口の中で渋滞していたツッコミを心の中に一気に吐き出したあと、開いていたパンフレットを閉じる。


 館の主は僕らを完全に他校の来場者だと思っているようで、親切に教えてくれた。どうやらこれもサービスの一部のようだ。

 どこかの展示物を間仕切りに張って終わりにしているクラスとは格が違う。――そもそも僕らは仕事を放棄したので物を言う資格はないが。


「運動部の伝統芸で、サッカー部は焼きそば、野球部はお好み焼きって感じで各部毎年決まっててクオリティも高いですよ。テイクアウト式なんでお昼じゃなければそこまで混んでません。

 それにうちの体育科、この文化祭のために調理師免許もとってたりするんで、衛生観念もバッチリです」

「へぇ、そうなのね。ありがとう。じゃあ月弥、後で行きましょう……っと。よし、入ったわ」

「秋夜さん上手~。ぱちぱちぱち」

「——ほぅ、この試練を突破したか。ではこちらの扉を通るがいい」


 素直に拍手すると秋夜さんはえっへんと胸を張った。――服の突っ張りが強調されて、目が吸われそうになるのを慌てて逸らした。


 館の主の突然のキャラ変に戸惑いつつ、案内される方向の段ボールで作られた扉を開く。

 目の前に大きな眼球のオブジェクトがあって、それに気を取られていると、目の前にいた秋夜さんの身体が沈んだ。


「わっ……っと、ビックリしたわ」

「大丈夫? あぁ、スポンジか」

「えぇ、手が込んでるわね」


 見下ろせば、床にはスポンジが敷き詰められてあった。

 どうやらこの眼球のオブジェクトをミスディレクションにしたドッキリ要素のようだった。


「なるほど、良く思いついたわね、私ならこのまま次の区画への通路にしてしまうところよ」

「工夫次第で何でも面白くなるわけだ。すごいね」


 やはり、どこかの展示だけで終わらせるクラスとは格が違う。


 その先は狭い通路になっていて、カラーテープがレーザーを模してたようにランダムに張られていて、行く手を阻んでいた。

 秋夜さんがそれを潜ろうくぐろうと屈んで――デニムジーンズ生地のタイトスカートにくっきりとお尻の形に張り、その下にあるパンツの影が浮かび上がる。

 いつの間にか口の中に溜まった唾を飲み込んだ。


「あ、秋夜さんストップ」

「ん? 何かしら?」

「ぼ、僕が前に行くよ。というか行きたい」

「この狭い通路でどうやって順番を入れ替えるのよ。却下、『オレが先に行きた〜い』なんてガキみたいな思考は捨てなさい」


 別に子供っぽい理由じゃなくてむしろ――と続けかけた時には既に秋夜さんは腰を屈めていて、慌てて視線を天井に逃がした。

 こんな盗撮じみたラッキースケベは道理に反する。パンチラは狙って見るんじゃなくて、偶然見えるから素晴らしいんだ。


 頭の中で延々と勝手な持論を繰り広げて欲望をかき消しているうちに秋夜さんはカラーテープを潜りくぐり終えていた。

 そこでこれはパンチラではない、パンツの形が見えてるだけだと、何故見なかったのか後悔した。


 僕が潜り終えるのを見ていた秋夜さんは次のブースへの扉に後ろ手を掛けながらニヤッと笑う。


「ねぇ、パンツの形、見えたでしょ?」

「なっ――わ、分かってて先に行ったわけ!?」

「そ。タイトスカートだから危ないなって寸前で思ったの。でも月弥しか見てないから、いいかなって。ちなみに今日は水玉のパンツよ」

「っ――……ど、どうでもいい情報ありがとう」

「ふふ、想像したわね。変態」


 パンツの柄伝える方が変態だよ、と返すには彼女の言葉が図星だったせいで、少々難があった。

 秋夜さんは自分で言ってて照れたのか、僕の胸を叩いてべーっと舌を出した。






PS:ファッションなぞ興味のない同志諸君へ。

 タイトスカートは女性が正装(スーツ)で履いてる短くて『おまそれどうやって歩くん? 歩幅めっちゃ狭くならん?』って言いたくなるようなスカートの形のことです。多分、知らんけど。

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