第38話 イライラ療法




「秋夜さん素晴らしいわね!」

「秋夜すげぇ~!」

「うぉぉぉっ、凄い!」


 僕の隣の彼女がこんなに褒め称えられるということは、書道の授業である。——いや、聖女モードの秋夜さんはいつでもちやほやされてるか。


 さてこの学校、何故か書道室なるものがあって、初老の書道の先生に聞けば学校設立時に造らせたそうな。――そういえば聞いたことがある。この書道の先生は理事長の義理の妹だとか、なんとか……。


 薄暗い学校の裏側を見た気がして頭を横にフリフリ、皆が褒め称える秋夜さんの文字を見る。いつも通りの角の立った綺麗な文字だ。

 正直見慣れてしまって真新しい感想は出てこない。

 ちなみに書いてあるのは『月見』の二文字。一瞬目があうと、秋夜さんはニヤリと聖女の仮面の隙間から小悪魔な笑みを見せた。


 ――バカ、と感想を小さく口から漏らした。


 秋夜さんは頭を掻いて少しだけ甘い声を出す。


「えへへ、みんなありがとっ。書道だけは得意なんだ~」

「すっごいよ柚菜ちゃん! ……可愛過ぎて憎めないよぉ……」

「マジですげぇな! ……やっべ好きだ。めっちゃ好きだ」


 秋夜さんは聖女の仮面を被ってニコニコ笑い、席に座る。

 だが、群がる生徒たちは帰る様子がなく、秋夜さんの文字にわんさか集まってきていた。

 当然、隣の席の僕も生徒たちに囲まれるわけで、机が揺らされて落ち着いて文字を書くこともできない。加え、いくらこの学校唯一の最新クーラー完備の書道室とはいえ、人が寄れば暑苦しくなる。


 少し、イライラしていた。——暑さのせいか、意味もなく群がってくる生徒のせいか。違う。


 秋夜さんが取られたみたいで、悔しくて寂しくて、嫉妬している。秋夜さんは物じゃないのにそんなことを考える自分を認めたくなくて、ストーカーのような気持ち悪い感情を抱く自分を許したくなくて、唇を噛む。


 なんだよ。秋夜さん聖女ぶるなよ。そしたら僕だけが秋夜さんを見るのに。秋夜さんのクズでゲスな本性だって、僕だけが好きになるのに。

 マグマみたいに湧き上がってくるメンヘラのような感情を押し殺す。こんなことを考えている自分が嫌いだ。


 夏休みの間ずっと秋夜さんとべったりだったからか、そのリバウンドで僕の心は少し病んでいた。


「ちょっとアンタ見えないからどいて!」

「おいなんだよ押すなって」

「アンタが先に押してきたんでしょっ!」

「おい押すなよっ――!」


 ――我に返ったのは、誰かが僕の机にぶつかり、椅子の脚を蹴り、身体が傾いた瞬間。世界中の時計の秒針が突然、その動きを遅くする。


 すずりにあった墨汁が宙に跳ね、文鎮が落体の法則ガリレオの法則を無視したように一足先に床にぶつかって固い音を鳴らし、未だ宙を舞う半紙の上に筆が落ちる。


 走馬灯は一瞬だった。時計の針がその鼓動を再会する。

 椅子から転げ落ちる間に出来たことは、頭を守るために腕を上げたことだけ。

 固い感触に備えて歯を食いしばった――が、いつまで経っても衝撃は来なかった。代わりに僕を支える柔肌、引き寄せられる動き、そのまま抱き止められる感触を得る。


 目を開ければ、秋夜さんが僕を胸の前で受け止めていた。

 その顔は恍惚と緩んでいて、目が合うと優しく微笑んで僕の頭を一撫で。直後、彼女は顔を上げて周囲を威嚇するように睨んだ。


「怪我させたら殺す……」


 彼女の唇は動かなかった。だが、明らかに彼女から漏れたであろう低い声が足下に響き広がる。恐怖で背筋がゾクッと震えた。

 場の空気が凍り、誰も何も発せなくなる。


 このままだと――まずい。

 秋夜さんの本性の問題とか、この色々と柔らかいものが当たってる状況とか、いろいろ。

 立ち上がろうとして、秋夜さんに捕まえられて、仕方なく、抱きとめられたまま、情けなく僕は口を開いた。


「っ――……あ、秋夜さんありがと! えとっ――その、みんな怪我してないから、万事オッケーでね? うん、時間ないからっ、みんな自分の文字書いた方がいいと――……思います……」

「そ、そうね! みなさん席に戻ってね。えぇ、ほら、ね?」


 僕の尻すぼみな発言に乗ってくれたのは先生で、ぶち壊れた雰囲気にぞろぞろと生徒達が去って行き、後には僕と秋夜さん、そして倒れた机と床に散らばった墨汁やら文鎮やらが残された。



 *



 イライラに任せてテキトウに文字を書いて提出した後。


「ったく……はぁ……」


 ようやく一段落ついたところで先ほどのことを思いだし、再燃したイライラにため息を一つ。


「イライラしてるわね」

「そりゃそうだよ。ほんと、イライラするに決まってるじゃん」


 結局、掃除を手伝ってくれたのは秋夜さんと誠実くん第五話参照だけだった。――別に片付けを手伝って欲しかったわけではない。声を掛けて欲しかったわけでもない。それでも、何かイライラする。


 背もたれに身体を預けると、横から秋夜さんが僕の肩を叩いた。


「月弥、顔に墨汁がついてるわ。ほら、拭ってあげるからこっち来て」

「いいよ自分でやるから……。話しかけないでよイラついてるんだから……」

「月弥、私に対していじけるのはお門違いよ」

「――……はぁぁぁ……好きにすれば?」


 秋夜さんのド正論で火に油を注がれ、大きなため息が漏れる。

 それでも彼女に嫌われるのは嫌で、渋々顔を顰めつつ秋夜さんに顔を近づければ、秋夜さんは軽く席から腰を上げて――


 頬に柔らかい感触を得る。

 秋夜さんがにっこり笑って僕から離れた。


「えっ――」

「ウソよ。顔に墨汁はないわ」

「そ、そんなことよりも今何をっ――」

「ほっぺにちゅーしたの。周りには見られてないから安心して。どう? イライラは収まった?」

「な、なんでこんなこと……」

「イライラは収まった? 収まるまでちゅーしてあげるわ」

「お、収まったからもういいっ……け、けどなんでっ!」


 ドキドキする心臓に手を当てて聞けば、秋夜さんは腕を組んで怒った顔をした。ぷくっと頬が膨れているのを見れば、作り物の怒り顔だと分かる。


「月弥がイライラしてるから私も楽しくなかったのよ。他意はないわ。——……サービスよ、ただのサービス。イライラしてる人にはほっぺにちゅーするのが一番よ」

「っ……そ、そっか……そうだよね……」

「逆になんだと思ったの?」


 告白かと、僕のことが恋愛的に好きなのかと期待してしまった分、落胆は大きい。

 そのせいで、根本的に間違った秋夜さんの理論に気づくことはできなかった。——そもそも『イライラにキス』なんて療法はないのである。


 彼女の意見とは別なところで同意の相槌を零せば、声のトーンが下がっていたせいか、秋夜さんは首を傾げた。ずいっと迫ってくる彼女の顔に心臓は再び早鐘を打ち始める。


「……い、いや。なんでもない……」

「そ」


 そこで話は終わってしまった。そのタイミングで秋夜さんから顔を背けて大きく息をし、赤くなりそうだった顔を叩く。

 バカ。何を期待してたんだ僕は。


 自分を叱りつつそそくさと片付けを始めると、隣で秋夜さんが何かを始めた。見れば、筆を執って何かを書いている。

 既に彼女は提出を済ませたはずだ。何を書いているのだろうか。覗き込もうとすれば、秋夜さんは体で文字を隠し、しっしと手で僕を追い払った。


 気になったが、覗いたら罰と称して何をされるのか分からないので好奇心を宥めて片付けを再開する。


 一筆入魂で、真剣な顔つきで彼女は筆を降ろす。滑らかな動きで筆が半紙を上を滑り、そこに筆の軌跡を残していく。

 書き終えた秋夜さんは筆を置き、自分の書いた文字を見て、首を横に振り、半紙をグチャグチャに丸めてしまう。

 そして新しい半紙の上に筆を執る。


 能筆達筆家には能筆家の基準があるのか、自分の文字に納得がいかない様子の彼女はなんども半紙をくしゃくしゃに丸めて筆を執り続けた。

 そうこうするうちに僕の片付けが全て終わって、授業終了、つまり昼休み開始のチャイムが鳴って、教室から生徒が抜けていく。


 なんとなく、僕は秋夜さんの隣に座ってぼーっとしていた。


「いいのよ、戻っても。食堂混むでしょう?」

「いいよ待つ待つ。どうせ一緒に食べるんだし。何書いてるのかは……教えてくれないよね」

「えぇ、教えない……あぁっ、もうっ!」


 失敗が続くことにイライラし始めた秋夜さんは、それにあわせて失敗する間隔が短くなり、更にイライラして――と、悪循環に陥る。


 教室にはもう数人ほどしかいない。誰も僕らを見ていない。


「ねぇ秋夜さん、イライラしてる?」


 分かり切ったことを、秋夜さんが半紙を丸めた際に聞く。

 分かっているくせに聞くな、と秋夜さんは視線で訴えながら鷹揚に頷いた。彼女の汚れ一つない綺麗な顔に怒りの皺が寄っているのは頂けない。ゲスでエグい本性の彼女は、デレて少し赤くなった顔ではにかむのが一番可愛いのである。


 何を血迷ったのか、妄想と現実を取り違えたのか、こうできたらいいなと、実現不可能な希望を抱いた僕は、それを叶えるべく行動に移った。


「ねぇ、顔に墨ついてる。取ってあげるよ」

「いいわよ自分で――」

「いいからいいから」


 世界は相変わらず、いつも通り同じ間隔で秒針を回した。


 言って、彼女の顔に顔を寄せて、触れて、我に返った。

 ゲームのようにセーブとロードやり直しが効く妄想とは違い、現実は一つ一つ全ての行動に取り返しがつかない。


 至近距離で感じる秋夜さんの甘い香りにビックリして、慌てて後じさる。椅子がひっくり返った、大きな音が立った。

 ぱちくり、と秋夜さんが瞬いたまたたいた


「そ、その――い、イライラ、消えたらいいよねっ」


 訳の分からないことを言って、僕は書道セットを抱えて教室から逃げた。


 それから数分後、赤い顔を押さえつつ食堂の券売機の長蛇の列に並び始めると、数秒もしないうちに僕の後ろに誰かが立った。

 あれだけの時間ずっと書き直しを続けていたのに、僕が出て行ってから数秒で納得のいく文字が書けたのか、嬉しそうな美少女の姿があった。






PS:案の定、作者という名の神の力をもってしてもくっつく様子はない。

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