第33話 喋る猫は月を目指した
漫画に集中できるわけもなく、かといって『にゃー』としか答えない猫に何かを言えば、もっと恥ずかしい目に遭いそうで、僕は宙に視線を滑らせて黙って時が過ぎるのを待っていた。
だが、僕が何もしないからといって、猫が何もしないかというとそうでもない。猫は時々寝返りを打つようにして僕の方に顔を向ける。
すると目が合う。空間が四次元的に捻れたように視線が絡み合う。ふわふわと緩い視線の重なりの筈なのに、絶対に目を離せなくなってしまう。
「にゃー」
彼女は鳴き、漫画を床に置いてもう一度寝返りを打った。
――僕のお腹に顔を向ける。そのまま腕を腰に回し、がっちりとホールドする。僕が逃げられないようする。そして、猫は僕のお腹に顔を強く押し付けた。
ハッとその状況に気付いた瞬間には、秋夜さんの策謀は始まっていた。
秋夜さんの顔をシャツ越しに感じる。少し高めの鼻と、柔らかい頬。丸い額と、その上に乗る髪の毛のさらさらな感触。
ティーシャツをフィルターのようにして、秋夜さんの熱い息が布の目を通り抜けてお腹にかかる。そこを熱源に、体全体に熱いのが広がる。
秋夜さんの息は乱れたように荒くて肩が上下に揺れていた。
「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」
彼女が深呼吸をする度に、僕の体に熱が生まれる。
秋夜さんの火に煽られた理性は不安定に揺れるだけで、この状況を打開しようとするまでに思考が及ばない。
猫だ。秋夜さんは猫だ。だから、これは仕方がない行為だ。
そんな、状況を肯定する言葉ばかりが胸の中に生まれ続けてしまう。この状況を受け入れようとしてしまう。
ぎゅーっと秋夜さんはホールドを強くし、猫のように丸まって先ほどよりも強く顔を押し付ける。そのまま動きを止めて、大きく息を吸って吐くだけ。
何度かそうしたあと、秋夜さんは一瞬だけ体を強ばらせ、ゆったりと弛緩させた。まるで、押し寄せる大波が地に落ちて引いた後のように、穏やかに。
腰のホールドが緩み、逃げ出せると思った瞬間、秋夜さんの顔が視界に入る。
目はジェルのように蕩けきって、溶けて合わなくなった焦点で僕を見つめ、だらしなく幸せそうに笑う。その沼のような瞳は、一度見てしまえば抜け出すことは不可能で、奥へ奥へと引き摺り込まれる。
「秋夜、さん……」
喉から絞り出すようにして出た音は、彼女の名となって空気を弱々しく揺らした。
「にゃー……」
彼女は揺れた声で鳴き、顔を僕の方に戻す。
先ほどの秋夜さんの顔の感触が蘇り、体が硬直した。――直後、ぺらりとティーシャツがたくられる。
秋夜さんの息で暖められたところが空気に当たって冷える。
今度は、秋夜さんの顔が直にお腹に触れた。
「んんっ……ちゅっ……」
突然、秋夜さんは舐める。まるで犬が怪我人の傷口を舐めるように淡々と。
舌先でくすぐられると、
「んぁっ――……ぁ~んっ、んじゅっ……」
ゆっくり、焦らすようにゆっくり、秋夜さんは舌全体を僕のお腹にべったり這わせ、首から上全体を使って舐める。
じっとりと湿ったざらざらな舌の感触が、お腹の上を蠢く。ねっとりした唾液がナメクジの足跡のように残り、熱を与えてから今度は気化熱を奪っていく。
朝お風呂に入って正解だったとか、綺麗好きで良かったとか、そんなことを考えている僕は、既にこの状況を受け入れていた。と言っても、恥ずかしくないわけじゃない。
周りにどう見られているか不安で顔を上げることも出来ず、ただ漫画を開いて顔を隠し、秋夜さんの赤い耳を見下ろすことしかできない。
僕はすっかり秋夜さんに
「ひぅっ――んっ、んん。っ――」
秋夜さんのホールドが僕の服の中に入ってきて、その冷たさに声が出てしまう。そこから堰が切れたように声が我慢できなくなって、秋夜さんの舌の動きに合わせて呼吸のリズムが乱れる。
慌てて口を噤み、喉から
羞恥プレイなんて、公開プレイなんて趣味じゃない。
お腹だって性感帯じゃ――
「っ――……」
ぐじゅっ、ぐじゅっ、と小さな穴を舌先でほじくるような、どこか卑猥な小さな水音が舌から聞こえてくる。
それと同時に、
耳の奥で心音が大きく響いて僕の集中力を削ぎ落とし、積み木のように不安定に積まれていた思考が秋夜さんの愛撫で崩され、
そこで秋夜さんがようやく顔を離し、ドロドロに溶けたその瞳の奥に赤い炎をチラチラ燃やしながら、僕を見上げた。
口を開け、ちろりとピンク色の舌を見せ、蠱惑に笑う。
「ふふっ……」
「あ、秋夜さん――……」
「もっと、してほしい?」
彼女が聞く前から頷きかけた首は、止まった。
思考を閉じ込めていた檻が壊れる。
――秋夜さんは猫じゃない。人の言葉を喋る。
その当たり前の事実がねじ曲げられていたことに気がつき、僕の理性を閉じ込めていた牢屋の壁が崩れ落ちた。
秋夜さんの肩を掴んで体を起こさせ、気化熱を奪っていく秋夜さんの唾液をティーシャツで乱暴に拭い、欲求不満そうな、不完全燃焼を訴えるような顔をする秋夜さんに向き合う。
「秋夜さんのバカ」
理由も根拠もなく、口癖のように言葉が零れ出た。
何か仕返しをしたくて、キスとか耳舐めとか気持ちの悪い案が出てきて、でもそんなことをする度胸はなくて――
「人の舐めといて穢れるとか言うなよ?」
思ってもみなかった乱暴な命令口調が口から飛び出した。
その勢いも借りて、ワンショルダーのトップスの、その白い肩に、顔を近づけて――
「せいぜいこれで照れろっ、バカっ」
相打ち――というよりも『骨を断たせて肌を掻く』程度の自爆攻撃をして、僕はトイレに行くべく立ち上がった。
誰がどう見たって真っ赤であろう顔を両手で隠して、僕はトイレを探した。
*
「――……さっきはどうかしてたわ……」
「うん……気をつけて。秋夜さん時々おかしいから」
どうかしてた、なんてレベルじゃないけれど。心の中で自分にツッコミ、私は項垂れてそう零す。すると月弥は頬をぽりぽり掻きながら、そっぽ向いて返事してくれた。
――まぁ、月弥がそれで騙されてくれるならなんでもいい。意識的にあんなことしてたとさえバレなければ、私の心が動揺することはない。
肩の上で蘇り、その存在を強く主張するあのカサついた感触を無視して、私は頭を横に振る。あんなので私は動揺したりなんてしない。ドキドキしたりなんてしない。――強がりだとは、意地でも認める気はなかった。
場所は先ほどと変わって、壁に沿って設置されたソファーの上。私は月弥の左に座っていた。このソファーは高級品なのかとてもふかふかしていて、そのスプリングのせいで心が跳ねる。
——別に、月弥が隣にいるから、心が跳ねてるわけじゃない。
ここなら明かりもあって人目にもつきやすく、私が突拍子もない行動にでることはない。そう月弥は考えているようだ。彼の思考はだいたい単純なのでなんとなくわかる。
確かに、ここまで人目につきやすい場所で月弥に悪戯をするのは少し無理がある。自重しよう。そう考えて、少し月弥から距離を取った位置に座って漫画を開いた。
――別に、意識なんてしていない。
そんなことを考えてチラチラ月弥の方を見ていたからだろうか。月弥が突然私の側頭部に手を伸ばし、自分の方へと私を引き寄せる。こてん、と体が倒され、頭が月弥の膝の上に乗った。
突然のことに心拍数が跳ね上がり、視界がくらむ。
「その……さっき右足だけに乗られて、バランス悪いから、左足にも、重しが欲しい……」
「なっ――な、なんで急に……」
「——……別に、さっきの秋夜さんが可愛かったわけじゃないし。それでもう一回見たくなったわけじゃないから……」
本音が隠しきれてないツンデレかと思ったが、本音を直接言うのが恥ずかしくて照れ隠ししたのだと思い直す。
顔を向けようとすると、アイアンクローを真正面に食らった。
「ぜ、絶対にこっち向かないでねっ? ほんと、マジで……」
「わ、わかったから離しなさいっ……」
「ご、ごめん……」
私の頭を押さえつけてそう言う月弥は、絶対に顔を見させてくれそうになかった。でも、きっと真っ赤だ。真っ赤だから見せたくないんだ。
――私の顔ですら赤いんだから、月弥はもっと真っ赤に違いない。そう考えることで心拍数を落とそうとする。でも無理だった。
寝ようとする。無理だった。よくラブコメの膝枕で寝るヒロインはきっと寝不足なんだろう。好きな人の膝枕なんてドキドキで寝ることなんてできるわけがない。
結局、月弥の膝に頭を乗せたまま、漫画に集中することも出来ず、時間を潰してしまった。
そして気がついたら——部屋が暗くなっていて、肩の上に、月弥の匂いのするジャンパーがかかっていた。反射でそれをかき集めて顔に押し当てて深呼吸していた。
数秒後、我に返ってから見上げると、うつらうつら船を漕いでいる月弥がいる。
なんだか嬉しくなって、胸が弾んだ。寝ている私を起こさずに待って、肩にジャンパーをかけてくれたのだ。何て優しいのだろう。
私は月弥を起こさないようにそぉっと寝返りを打って、彼を真正面に見上げた。
「好き……よ」
今なら言えるのに。月弥が寝ている間なら、言えるのに。意味ないよね。馬鹿馬鹿しい。
ため息を吐き、私は頭を持ち上げた。そのまま月弥の頬に唇を寄せて……
「んんっ——……」
「っ——」
突然に月弥が顔を揺らして、私の唇は着陸地点を間違えて——
カサついた感触を得た。
PS:ショボかったら、ごめんなさい。自分でハードル上げすぎたかも。あと、これから数日休みます。ごめんなさい。
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