第32話 我輩は猫である。名前は秋夜




 長すぎる夏休みに、秋夜さんに会えない日々に、飽き飽きしていた。そんな日の朝。


 ラップの掛けられたサンドイッチをむさぼり、シャワーを浴び、テレビの前で柔軟をする。

 体育の宿題だ。やらずにチェックシートを埋めればいい話だが、やることもないので、順に軟をすることにした。——ラップだけに。


「韻踏んでるつもり? 文脈離れすぎ。あとダジャレもだっさ」

「起きておはようもなしに悪口言うな」

「おはよ。で、だっさ」

「やーいキララボキャブラリー低すぎ〜」

「その呼び方殺す!」

「あぎゃっ、こ、降参! 謝るから許して!」

「ん、許す。このサンドイッチはアタシの分?」

「じゃない? 知らないけど」


 柔軟中に彼女に踏まれて痛めた腰をさすりながら起き上がり、目的もなくテレビを付ける。

 彼女こと我が姉の名はキララ――ではなく、遠空星文ほしみである。ニックネームの由来は有名な童謡『キラキラ星』だが、それは同時に自殺用の魔法の呪文でもある。


「で、星文。暇なんだけど、なんか遊ぶことない?」

ふぁいふぇないねふぉふぉしは今年はりょほうの旅行のほていふぉふぁいひ予定もないし

「口に含んだまま喋るなよ。そうだなぁ……」


 呼び捨てされたのが不満なのか、星文が僕の足を蹴ってくるので逃げつつ、テレビに目をやった。『行き先不明! 全国目隠し旅行』なんて小さなタイトルが右上に見えた。

 サブタイトルには『ロケ中にあの有名人と偶然!?』とある。


 街を歩けば、秋夜さんに会えるかも。

 ――なんてあわい期待を抱き、僕は立ち上がった。



 *



 で、猫カフェか。

 漫画から顔を上げ、窮屈で暑苦しい現状に顔を顰める。

 流石に目隠しはしなかったが、当てもなく街を歩いていると、猫カフェなるものを見つけて、やってきたわけだ。


 薄暗い部屋の隅っこで段差に腰掛けて漫画を読んでいた僕は、周囲の視線になんとなく首をすくめて謝罪のポーズをした。


 周囲にはイチ、ニ、サン、シ、ゴ匹の猫。この部屋には全体で二十匹ぐらいいるわけだから、その四分の一を僕が独占しているわけだ。


 僕と壁の隙間に二匹。膝の上に一匹。肘掛けに使ってた椅子の上に一匹。脹脛ふくらはぎ蹴込み板段差の壁の隙間に一匹。


 子供達は部屋の中央を走り回って猫を追いかけている。カップルは部屋が暗いからと少しイチャつきながら、子供達から避難してきた猫を撫でている。

 ——こんなところでも手を繋ぐんだ。イチャつくことへの関心がすごいな……。


 この店は『猫と戯れながら漫画を読める』をウリとしているからか、漫画を読むために来ている人もいるようだった。もちろん土足厳禁なので床に遠慮なく転がることもできる。――あまりしている人はいないが……。


「猫に好かれる体質なのかなぁ……。ほら、そこに居られると次の漫画取りに行けないからどいて」


 膝の上の一匹を押しのけようとすると、逆にしがみつかれた。

 なるほど、カフェの利用料金の元を取ろうと漫画を読み耽っていたら店側からの妨害をされるのか。今度レビューに書いておこう。

 そしたらお前らの餌代が足りなくなって捨てられちゃうぞ?


 風評被害が過ぎることを考え、膝の上の猫を脅してみるが、動いてくれない。

 ――と思ったら直後、僕ですら感じる異様な殺気がして、周囲の猫がピクリと耳を立て、逃げるように走り去って行った。

 自然災害の予兆!? と思わず身を屈めると、目の前に人影が差す。


「随分と、浮気がお盛んなようで」


 聞き慣れた声質に顔を上げれば――丁度欲しかった漫画を押し付けられた。受け取り、その人の顔を見て、口から間抜けな声が漏れる。


「あ、秋夜さん?」

「この広い東京の中で偶然出会えたというのに、あれだけの牝を周囲に侍らせていたら、喜びも感動も薄れてしまうわ」

「牝って……ただの猫じゃん。なに? 拗ねてるの?」

「――……まぁ、そうとも言うわ」

「何? 僕のことが好きなの?」

「えぇ、そうかもね」


 秋夜さんは言い、振りまいていた殺気を収め、僕の肘掛け椅子を押しのけ、僕の隣に腰を下ろした。

 そのまま、こてんと体を倒し、僕の膝の上に頭を乗せる。

 見下げれば、漫画を開いた秋夜さんがガラス玉のように綺麗な目で僕を見つめていた。


「あ、秋夜さん?」

「にゃー」

「っ、秋夜さんやめっ――」


 彼女の発した猫の鳴き真似。本物には決して似ていないが、柔らかく、人を誘うような蠱惑な声色にドキリと心臓が跳ねる。

 秋夜さんの思考は読めないが、『猫』として僕をからかおうとしているのは分かって、声を上げかける。


 だが、続く言葉が出てこない。僕の下から伸びてきた、ただ一本の人差し指が僕の唇を軽く押さえているだけ。それだけで僕の声は喉に詰まり、一音も発せられなくなる。


 恥ずかしさに見ていられなくって、でも目が離せなくって、目を側めて横目に見てしまう。


 秋夜さんはゆっくり指を離し、今度はそれを自分の唇の前に寄せた。しぃ~っ、と歯の隙間から空気の抜く音を出して、彼女はニコリと笑う。そして、一言呟く。


「にゃー」

「っ……」


 ドキリと心臓が跳ねた。そこから心悸が乱れ、早鐘がずれたリズムで音を鳴らし、全身を駆け巡る血流が不規則に僕の体を揺らす。

 理性が、氷が溶けるようにして小さく、僕の支配権を失っていく。


 周りを見れば、いろんな人が居た。

 猫を追いかけ回す子供、影でイチャつきながら猫を撫でるカップル、一心不乱に漫画を読み耽る男。


 僅かに残された理性が、僕の動きを止める。

 今ここで動けば、周りの注目を集めかねない。だから、耐えるしかない。


 秋夜さんは流し目で僕を見上げ、まるで僕に見せつけるかのようにピンクの舌を外界の空気に触れさせ、丁度猫が毛繕いをするように、口元に置いてあった人差し指を一舐め。

 彼女の舌に染みついた唾液が光を写して彼女の妖美さを増させ、ナメクジのように粘っこく、一秒を六十倍の一分に延ばしたようにゆっくりと、舌を人差し指に滑らせる。


 蠱惑な舌を口の中に戻し、ちゅっと軽い水音を立てて舐めた場所に口づけをする。


 彼女の秋波流し目に飲み込まれて、いつの間にか僕は彼女をまっすぐに見つめていた。


 先ほど、秋夜さんが僕に向けてきた人差し指。唇に当てられたのは指の腹だったか、背だったか。記憶を探っても答えは分からない。

 今のは間接キスか否か。


 なけなしの理性はそんな小さなことに拘っていた。いや、捕らわれていた。

 間接キスがどうした。経験なんていくらでもこの高校生活で得てきただろうに。意識なんてしたくても出来ない星文との間接キスをカウントしたら、両手で数えきれない1023(二進数)ほどの経験がある。


 それに間接キス僕は――


「にゃー……ふふっ」


 秋夜さんは猫の声を出し、それにびくりと跳ねたを見て満足げな息を漏らし、漫画を開いた。






PS:次の話ですね。お待たせしてごめんなさい。(何がとは言わない)

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