第26話 時計の針は、それでも進む




「終わったどぉぉぉ!」


 終礼が終わった途端、叫びながら教室から飛び出ていく男子生徒。それに追い着け追い越せの勢いで、狭い教室の扉から一斉に走り出ていく若者たち。——若いっていいな。

 十六歳の夏。僕はそんなことを思った。


 試験が終わった。それは何を意味するかというと、これから試験休みが十日ばかり続き、終業式兼試験返却の為に一日登校して、八月いっぱいまで夏休みになるということである。

 良いことじゃないか、と誰もが思っただろう。確かに去年中学にいたころまでは素直に喜んでいた。誰とも会わなくて済むし、好きな女子に会えなくなるけど、学校に行ったところでほとんど接点はないし、遠くから好きな人を眺めるよりも家で遊んでいた方が楽しいし。

 だけど――今、僕の恋焦がれる花は、隣に咲いているのだ。それも、僕にだけその顔を見せて。


 学校が休みになってほしくない。——こんな気持ち、初めてだ。


「はぁ……」

「あら、ため息なんて若くないわね。夏休みよ?」

「夏休みだからため息ついてんの。秋夜さんに毎日は会えなくなるじゃん」

「っ……」

「秋夜さんに毎日会えるシステムとかないの? こう……町内会のラジオ体操的なさ。住んでる地区違うから無理だけど」

「バカ! 変なこと言わないでくれるかしらっ、このバカ!」

「えっ、ちょっ、なんで怒ってるの!?」

「月弥が天然だからよ! はぁっ、バカ!」


 秋夜さんはぷんすか怒って、早足に教室から出て行った。鞄が残っているのを見るに、トイレに行ったのだろう。

 残された僕は一人ため息を吐く。


 僕は天然ではない。分かってて言ったのだ。『毎日会いたいぐらい好きだ』と伝わったらいいなと、とてもキモい期待を抱いていたのだ。——恋をするとキモくなるのが男子高校生というものだ。許せ。


 彼女の言うとおりバカな自分に、彼女の照れた反応に期待してしまうバカな自分に、大きな大きなため息を吐く。

 自分の顔が熱くなっていることに気がついて、机に突っ伏した。


 終礼が終わってからまだ三分も経っていないが、既に教室には僕を含め数人しか残っていなかった。そんな彼らも荷支度を整えていて、どうやらこれから部活に行くようだ。

 ぼーっと見ていると、遅刻だ遅刻だと騒ぎながら慌ただしく教室から出て行く。


 学校に留まっている理由は、疲れて動きたくないからってだけじゃない。秋夜さんと別れたくな――っ!


 首筋に冷たい何かが乗る。ビックリして振り向くと、秋夜さんが僕に何かを差し出して愉快そうに笑っていた。


「ぎゃっ!」

「ふふっ、いい反応するわね。あげるわ」

「っ……びっくりしたじゃんか。何これ、くれるの?」

「えぇ、マンゴー味のPAPIKOパピコよ。私の奢り。貸しいちね」


 秋夜さんの帰りが遅いと思ったら、どうやら購買にアイスを買いに行っていたようだ。

 秋夜さんはパキッとパピコを二つに割き、片方を僕にくれる。意外にもへたの部分だけ渡す、なんて意地悪は冗談でもしてこなかった。


 ありがたく受け取って、まずは蔕を千切って吸い取る。


「ゴミ、捨てておくわ」

「奢ってもらってゴミまで押し付けるのは気が引けるんだけど」

「いいから寄越しなさい」


 じゃあお言葉に甘えて、と渡せば、彼女は何故かプラゴミであるはずのそれを大切そうにティッシュに包んでポケットに入れた。


 それから、小動物のように目をバッテンにしてパピコの先端に吸い付く秋夜さんの可愛さに見とれ、我に返り、パピコの先端に囓りつくと、口の中にマンゴーの味が広がる。


「ん~美味しい、ありがと」

「どういたしまして。……ねぇ月弥」

「何?」

「江ノ島行きましょう。ほら、この前言ってたじゃない。遊びに行くって」

「ん~いいよ。行こっか」

「ふふっ、やった」


 パピコを持つ右手が冷たく悴んでかじかんできたので、左手に持ち替えて、生ぬるい空気の中に右手を泳がせる。秋夜さんはそんな僕を見てくすりと笑った。

 今に僕と同じ目を見るくせに、と舌打ちをしたかけたが、彼女はパピコにハンカチを巻いているので、手へのダメージはゼロのようだ。ずるい。

 そんな思いを込めて彼女の手を睨めば、ハンカチ使う? と試すような視線を僕に向けてきたので、きっぱり首を横に振ると、秋夜さんは再びくすりと笑う。


 なんだか負けた気分なので、話の主導権を握ってみる。


「どうしたの? なんか上機嫌だね」

「えぇ、上機嫌も上機嫌。最高よ。その理由が気になるかしら?」

「……なんで?」

「まるで世界の時間が止まったみたいでしょう?」

「そこに時計あるけど」

「余計なこと言うと殺すわよ。情緒がなさすぎるわ」


 教室の壁掛け時計を指差せば、秋夜さんが久しぶりの『ぶっ殺す』目で僕を睨んだ。首をすくめて謝れば、秋夜さんは上機嫌な顔つきに戻って、歌うように続ける。


「月弥と私だけの世界に、ずっと二人でいるの。この教室で、私たちはずっと一緒。なんだかそんな気がしちゃって、それって素晴らしいことだと思わない?」

「……思わない。家族がいるじゃん。秋夜さんにも、僕にも」

「…………そう、ね。ごめんなさい。少し言い過ぎたわ」


 風船が萎むように、秋夜さんは高揚から一転、しょんぼりしたように謝る。やってしまったと悟ってももう遅い。僕はなんてバカなんだろうか。

 何故、ロマンチックなことを言おうとしていた彼女にマジレスをしてしまったのだろうか。——きっと負けず嫌いで意地っ張りな僕が、いつもの仕返しにと、彼女を言い負かしたいと思ったからだ。


 ——正論は暴論に屈さない。だが、人を刺す。


「ごめん、僕もなんか、マジレスした」

「いいのよ。私の独り善がりな発言よ。気にしないで」


 彼女の言葉を最後に、沈黙が場を支配する。一言も、これ以上口を利くことを許されない空気が、この広い教室を満たす。

 両者謝罪が済んだのに、歪みや淀みのある空気が元に戻らない感覚。


 怒ってくれた方がマシだった。夢がないとか、鼻で笑ってくれたらもっと良かった。僕の正論なんかぶっ飛ばして、誰もが驚くような話を続けて欲しかった。

 ――なのに、秋夜さんはしょんぼりとパピコを膝の上に置き、そこに目を落とす。


 分かってくれるだろうか。この沈黙が場を支配する空気を。

 ごめんと謝っても、互いに自分の誤ちを自覚して反省していても、仲直りが出来ない場面が存在する。雰囲気がすぐには戻らない時がある。

 まさに今がその状況だ。


 こういうときの最適解を、僕は知らない。知らないから、迷って、バカなりに思いついて、席を立って教壇へ向かう。


 秋夜さんは微かに顔を上げて僕を見るも、何も言わなかった。


 教室の壁掛け時計を手に取り、自席に戻り、時計をひっくり返し、その乾電池を引っこ抜く。


「……何、してるの?」

「ほら、時間止まった」


 少し埃を被った時計をひっくり返し、ピタリとその場から動かなくなった秒針を見せる。もちろん、長針も短針も動かない。


 幼稚園児のオママゴトみたいな、小学生同士の鬼ごっこの『バリア~!』みたいな、化学的根拠のないおまじないみたいな。僕が嫌いとするそんなことを、僕はやっている。

 当たり前のことを、さも不思議なことのように、魔法を使ったように、してみせる。僕はひらひら〜と手のひらを振って時計に注目を集めている。

 ——格好悪い。バカ。冷えた頭が呟いて、僕の心も頷いた。


 僕が格好つけてクサい台詞を言って、途中で恥ずかしくなって叫んでしまって、秋夜さんが笑い、僕は恥ずかしさでしゃがみ込む。そんな謝り方の方が楽だったと思う。ホストみたいにキザったらしい台詞を吐く方がよっぽど楽だったと思う。

 ——でも、そんな想い描く理想像が全くその通りに進むと無垢に信じられるほど、僕は若くない。それに、理想像の僕は今の『僕』の何十倍も格好いい、『僕』とは違う人間なのだ。


 パピコを握りつぶしてアイスを口の中に絞り出し、一気に飲み込む。

 頭がキーンと痺れるのに力を借り、恥ずかしい台詞を、途切れ途切れに吐いた。

 これが『僕』だ。しょうもない一人の男子高校生だ。


「その、さ。時間が止まったから。動くまでは……一緒にいようよ。それで、良かったら、この間に僕と仲直りして、欲しい」


 秋夜さんは俯したまま、肩を震わせる。

 じっと見ていれば、我慢できなくなったように、体をくの字に折って大声で笑い始めた。

 泣くかと思っていたので、予想外の反応に呆気にとられる。


「あはははっ、あははっ、月弥って、バカね! あははっ、笑いが止まらないからっ、ひぃ、やめてっ……」


 ――僕が拗ねたのは、言うまでもない。

 だが同時に、赤い顔の裏でほっと息を吐いた。


 秋夜さんがひぃひぃ過呼吸になって笑うをそっぽ向いてやり過ごすと、ようやく落ち着いてきた秋夜さんが冷静な口調でお腹を押さえ、呟く。


「お腹が痛いわ……」

「ざまぁみろゴミクズ……秋夜さんのバカ!」

「ふふっ、月弥ってば、可愛い謝り方するのね。惚れちゃったわ」

「なっ、う、うるさい! こっちは真面目に謝ってるんだからバカにするなよ! 電池戻すよ!」


 すっかり秋夜さんがいつもの調子に戻ったので、これ以上時を止めると時間が狂ってしまうから、電池を戻すべく時計をひっくり返す。


 だが、いざ電池を戻そうとして、手の中から電池が消えていることに気がついた。見れば、秋夜さんが指に単三電池を挟んで笑っている。


「私も思想が悪かったわ、月弥。だから訂正するわ」


 一呼吸置いて、彼女は言った。


「この電池を時計に戻すまでは、月弥と私は二人きり。家族に会いたくなったら、時を動かしましょう」

「っ……べ、別にそんなことしなくても、僕の大半の時間は秋夜さんに、あげるから……」

「っ――……!」


 僕のなんとなしの発言で、沈黙が生まれ、場を支配する。一言も、これ以上口を利くことを許されない空気がこの広い教室を満たす。


 ――でも、さっきの重苦しい空気とは違う。自分で言うのもなかなかだが、甘酸っぱいような、少しわくわくするような——でも、何の発言も許されない空気。


 穏やかな、でも夏らしくじめっと生暖かい空気が、僕らの間を抜けていった。

 ピピっと、正午を示す腕時計の電子音が空気を読まず、宙に響いた。

 なんとなく、顔を見合わせて笑った。






PS:不格好で不器用な人の格好悪い謝罪って、一番格好よくないですか? (私の趣味思考性癖の主観)

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