第25話 幾重なる罠と、隠された目的




「あぢぃ……」

「暑いわね……」


 退屈な化学の授業中。額の汗を拭いつつ誰にでもなく独り言つと、を傾けていた秋夜さんが疲れたように返してくれた。


 梅雨独特の低い雲の幕が上がった途端、自分の出番を待ちきれなかった演者のように、羽化した蝉たちが一斉に鳴き始めた。六月下旬、初夏のことである。


 彼女募集中の蝉さんには申し訳ないが、どうも彼らが鳴くだけで気分的に暑さを感じてしまうのだ。夏の情緒も風流もなくなるが、どうぞ日本から御退去願いたい。

 ちなみに僕自身が日本から動く気はない。秋夜さんと離ればなれになってしまうから。——それを彼女に伝えることはできないが。


「はぁ……」


 教室のクーラーは今更にして調整期間に入っている。この学校に入ったことを今年一番に後悔した。

 ふと隣を見ると、秋夜さんが白無地の竹扇子をパタパタと振っていた。綺麗な薄い竹色をした親骨両端の骨や、山と谷がしっかりしている扇面地紙から、五千円は下らない上等物の扇子だとすぐに分かる。


 ぼーっと見ていると、こちらの視線に気がついた秋夜さんが扇子から顔を覗かせて首を傾げた後に、綺麗な目を三日月にした。

 背中に嫌な冷や汗が伝ったと同時に、彼女の蠱惑な笑みにドキッとしてしまい、覚えた危機感がすぐに霧散してしまう。目が離せなくなってしまう。


 見つめてしまう。

 すると、秋夜さんはいつの間にか閉じた扇子を膝の上で両手で握り、段々と頬を赤らめ、もじもじと足をすりあわせる。

 数秒前の彼女の妖美な笑みからは考えられない変化。つまりこれは演技――


 正解に近づいた思考が、彼女の恥じらうような声で切られた。


「月弥、そんなに見られると体が熱くなっちゃうわ」

「――っ……な、何言ってんだよっ」

「その……月弥に見られると、体が火照ってしまうの……」


 チラチラこちらを見る秋夜さんの熱っぽい眼差しが、何重にも僕に絡みつく。潤んだ双眸が僕を捕らえ、逃がしてくれない。それはまるで魔法のようで、だから彼女はきっと魔法使いなんだ。


 ――正常な思考が鈍る。彼女の声が頭の中に響く。


「月弥、むずむずするの。お願い」

「っ……お、お願いって、何を……?」

「だから……扇いで?」


 彼女の声とともに差し出された扇子に手が伸びる。受け取る。開く。僕の動きに呼応して、彼女のスカートの裾がだんだんと捲れていく。

 白い宝玉のような足が、その根幹の姿が曝け出されていく。夏の太陽を反射するその白さが眩しい。でも、その奥を見たい。白の奥の、奥の――白へと。


 ハッと我に返った。

 状況の把握はすぐにできた。秋夜さんがたくるスカートを扇子片手に正面から見つめている男子生徒こと、僕。明らかに危険な香りのするシチュエーションだ。

 それが分かって顔を上げ、秋夜さんを見る。


 彼女の顔には、悪魔の汚い笑みが浮かんでいた。そこには先の恥じらいや火照りの影すら見えない。つまり、先ほどのは全て演技だったということで、僕は彼女の手のひらで踊らされていたということで。

 僕が正気に返ったのを見てか、残念そうな顔をしてスカートから手を下ろした。


「あ~あ、あと少しだったのに、惜しいことしたわね」

「なっ――ば、ばかっ! 何してんだよ!」

「スカートの中が暑いのよ。空気が籠もるから。——っていうのから始まる官能小説を昨日読んで、少し試したくなったの」

「っ――よそでやれっ!」


 秋夜さんのスカートの中を想像してしまった僕は一瞬、言葉に詰まった。それを悟られたくなくて扇子を投げると、秋夜さんは飄々とした顔で危なげなくキャッチして、開いて扇ぐ。その余裕っぷりが憎たらしい。


「いいのかしら? よそでやって」

「…………ダメ。どこでもやるな」

「——独占欲強めなの、いいわね」


 秋夜さんが肩をすくめて言う。だけど、その顔は赤い。もちろん、僕の顔はもっと赤い。

 じっと秋夜さんを睨んでいれば、彼女は赤い顔のまま扇子に唇を乗せ、甘い声と一緒に投げた。


「ふふっ、月弥♡」

「っ……な、なに? 投げキッスの価値が減るからやめれば?」


 まるで魔法のように、毎度簡単にときめかされるのが癪で、投げキッスはまだ二回目だというのに、そんなことを言ってしまう。

 秋夜さんはきょとんとした顔で首を傾げて、無垢な声で聞いてきた。そのせいで、正直に応えてしまう。


「価値減るの?」

「……減らないけど……」

「じゃあするわ」


 秋夜さんはそう言ってもう一度、僕に向かって投げキッスした。性懲りも無く、僕の心臓はドキッと跳ねる。それを見て秋夜さんがニヤリと笑う。


 ――くそっ、どうせ秋夜さんは暑くて授業に集中できないから、僕で遊んでいるだけだ。変な期待をするだけ無駄だ。……もう秋夜さんは見ないようにしよう。

 そう決めたが、何分なにぶん暑くて授業に集中できず、どうしてもチラチラ秋夜さんの方を見てしまう。


 ため息を一つ、授業を聞くことを諦めた僕はペンを投げ、リュックのトップポケットからハンディファンを取り出した。水を入れると霧吹きにしてくれるやつで、JKの夏の必需品ランクは堂々の一位である。

 ――別に男子高校生が持っていたっておかしくはないだろ?


 スイッチを入れて顔に向ける――……が、水が入っていなかったようだ。生ぬるい風しか送られてこなかった。


 廊下の水場で注いでこようか迷ったが、教室を抜け出すのは学生倫理的にも平常点的にもまずい。

 数秒の思考の後、今日はほとんど水筒の水を飲んでいないことに気付いた。水筒には若干量の僕の唾液成分が入っているだろうが、プールの水よりはよっぽど綺麗だ。問題ない。


 リュックの中からを取り出す。そして固まる。


「あ……」


 ――若干の思考停止。

 見下ろすのは、ハンディファンの貯水タンクの小さな穴と、口径のでかい水筒。水を注ぐ手段が見当たらない。

 どうしようか……悩んでいると、突然に隣から伸びてきた手が勝手にハンディファンと水筒を奪っていった。何する気? と秋夜さんを睨めば、彼女はしっしと追い払うジェスチャーをする。気にするな、ということだろう。


 無理矢理取り返そうとしたら先生にバレるので、加え彼女の行動を邪魔すると痛い目に遭うので、僕はため息を吐いて天井を見上げることにした。

 秋夜さんの傍若無人っぷりには甚だ呆れるばかりだ。


 何をしているのか気になって横目を向ければ、秋夜さんは膝の上に置いた水筒と机の上のハンディファンをストローで繋いでいた。

 その意図に気づいて、口から声が漏れる。


「サイフォンの原理か。頭良いね」

「生活の知恵よ。感謝なさい」

「ありがと。素直に感謝する」


 管内がある液体で満たされている場合、管で繋がれた容器の水面は同じ高さになるという、とても便利な現象、サイフォンの原理である。

 単純に言えば、高いところにあるものは『結果的に』低いところに移動する、という原理である。


 秋夜さんはストローを抜き、ハンディファンのタンクの蓋を閉め、僕に返す。それを受け取ろうとすると、秋夜さんが強くハンディファンを握って僕に渡してくれない。何がしたいのか分からなくて目で問えば、秋夜さんはニヤッと笑った。


「サイフォンの原理って管内を液体で満たさなきゃいけないの、知ってるかしら?」

「え? そりゃそうでしょ。知ってるよ」

「じゃあ不思議に思わない? どうやってストロー内部を水で満たしたのか」


 秋夜さんは挑戦的にそう言う。

 少し考えてみた。

 ストローをある程度沈めたのち、指で蓋をして持ち上げる方法が考えられたが、水筒でそれを行うのは少し難がある。ではどうやって——


 秋夜さんはすぐに答えを出した。


「答え。ストロー本来の使い方をしてストロー内部を水で満たした。この意味が分かるかしら?」

「全くわかんない」

「教えてあげる。このハンディファンは微量ながら、極僅かながら私の唾液成分を含んだ水を霧吹きしてくれるってことよ。

 果たして月弥はそんなハンディファンを使えるかしら。私の唾液を顔にかけられて、興奮したりしない?」

「っ……で、でも微量だしっ、別にプールとかで――」

「本当に、素面で月弥は使える?」


 真意を問う、何もかもを見透かしたような目に、心臓が縮こまる。同時に、そんな彼女の神秘性にドキッとしてしまう。

 意地っ張りに縦に頷き掛けた首は、ある一定のラインを境に動けなくなる。結局、僕は顎を引いたまま力なく頭を横に振り、ハンディファンを手放す。

 その代わり、秋夜さんの竹扇子が僕の手に握らされた。


「ふふっ、素直でいいわね」

「この悪魔め……」

「じゃあ月弥は私の天使よ。だから相対する私たちは結ばれる運命にあるわ」

「っ……ゲス秋夜さんのバカッ」


 悪口までもを丁寧に倍返しされて、僕は幼稚な捨て台詞を吐いて、体の向きを前に戻す。

 ヤケクソに扇子を開いて扇げば、ふわりと秋夜さんの香りがした。トラップみたいに、僕の至る所に秋夜さんが絡んでいるような気がして、捨て鉢な気分になる。


 大きくため息を吐いて隣の秋夜さんを睨む。だが彼女は僕を見ておらず、僕の独り相撲だった。それも癪で、秋夜さんをじーっと睨んでみる。


 すると不思議になった。ハンディファンは自分で扇ぐ必要がなくて楽だし、霧吹き効果で気持ちいいのは分かる。だけど――どうして、秋夜さんはあんなにも幸せそうなんだろうか。だらしない笑みを浮かべているのだろうか。


 脈絡もなく、僕は数分前の僕の思考を思い出した。

『水筒には若干量の僕の唾液成分が入っているだろうが、プールの水よりはよっぽど綺麗だ。問題ない』

 あれ? と首を傾げる。そして気がついた。


 秋夜さんだって、僕の唾液成分が入った霧吹きを浴びているのだ。

 小学生の『空気で間接キス』理論並みに気持ち悪い思考に、僕は頭を抱えて、突っ伏した。——意識している時点で、キモいやつだ。


 ——現実から目を逸せば、その奥にある真実を知ることができなくなる。いつか、過去の偉い人がそんなことを言っていたかもしれない。

 幾重にもかけられた罠に疲弊した僕は、彼女から目を逸らす。それが、罠のかけられた真意とも知らず。


 秋夜さんがハンディファンを置き、を傾ける。

 カラン、と氷が溶けて涼しげな音が響いた。






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