第23話 濡れ鼠が服を着ることは間違っているのだろうか
「秋夜さんおは……?」
口から出た挨拶が先に途切れたのは、教室に入ってきた秋夜さんのその濡れ様に絶句したからだ。――絶句したら声が止まるのは当たり前か。『絶句』はそういう意味だし。
「おはよ、月弥……うぅっ、寒いわ」
「な、何があったの!? 虐め!? 水かけられたの!?」
「バカなの、違うわよ。くしゅっ……外を見なさい」
制服から水という水を滴らせ、教室の床に水たまりを作る秋夜さんである。濡れ鼠でもここまで酷くはないだろう。
言われて窓の外に目を向ければ、朝だというのに黒に近い灰色の雲が低く垂れ、空を覆い、一寸先も見せぬほどの大雨になっている。僕が登校したときはまだ曇り空だったから、この数分の間に土砂降りになったのだろう。梅雨は穏やかなしとしと雨が特徴だが、微塵もそれに当てはまらないスコールだ。
――だが、だとしても頭からつま先まで全身雨に濡れているのはどういうことだろうか。
「傘が風と雨で壊れたのよ。折りたたみ傘がね……うぅっ、さぶ」
僕の心を読んだかのように、秋夜さんが二の腕を抱えて体を震わせ、自嘲するように嗤う。傘が壊れることは持ち主の力量と関係ないから自嘲する必要はないと思うのだが。
そこでふと、髪の毛を絞って水を滴らせている秋夜さんの背中を見て、気がついた。――赤の下着ってエロい。あと夏服のワイシャツと相まってよく透ける——え? 透けるの?
慌てて目を逸らし、教室の扉の方へと体を向ける。すると、クラスメイトの視線が秋夜さんの方へ向いているのが見えた。正確には、男子の目が秋夜さんの下着へと向けられていた。
「あ~えと、秋夜さん」
「何かしら」
「下着、透けてるから。カーテンの後ろに隠れたほうが良いと思う……てかっ、なんで赤の下着なんだよバカ! 絶対透けるじゃん! あと派手すぎ!」
「っ――……る、るっさいわ! 仕方ないじゃない! 通販で買うときにデフォルトの色が赤だったのよ! どうせ見られないから何色でも問題ないじゃない!」
「現に今見られてる! 早く隠れて!」
「隠れても着替えなんて――あ」
秋夜さんは叫びながら教室のカーテンに包まって透けた下着を隠し、何かを怒鳴りかけて、僕の顔を見て、止まる。
どうしたのか聞きたくなったが、顎に手を当てて真剣な表情でブツブツと何かを呟く秋夜さんに声を掛けることは憚られた。数秒後、考えが纏まったのか、秋夜さんはんんっとわざとらしく咳払いをしてから、弱々しく言った。
先ほどの気丈な秋夜さんを見ていたから分かる。演技だ。
「その……着替えがないの。だから貸して頂戴」
「僕が着替え持ち歩くような男に見える?」
「違うわ……月弥の体操着とジャージを貸して欲しいの。ダメ?」
「いいけどさ、その弱々しい演技やめて。似合わない」
「そうかしら。結構イケてると思うのだけれど」
「それが嫌い。秋夜さんが僕に演技するのは気にくわない。本性の秋夜さんが好き。だから普通に言ってよ、普通に貸すから」
最後に舌打ちを付けて、ホントに怒ってるんだぞっ! と釘を刺し、ジャージと体操着を入れている廊下へと向かう。ついでに今日の水泳の為に持ってきていたタオルも水着袋から引っ張り出した。
教室に戻ると、秋夜さんは赤い頬を両手で押さえ、カーテンにくるまったままクネクネ体を捩らせてデレデレしていた。見ていると、僕の視線に気付いたのか動きを止め、足下にお漏らししたレベルの水たまりを作り、そこに仁王立ちして、何でもないかのように振る舞う。
かなりシュールな絵面だ。しっかりと目に焼き付けておく。
「はい、タオルとジャージと体操着。ジャージだけは洗ってないから臭いし――ちなみにだけど、秋夜さんはジャージ持ってないの? 僕のはオススメしないんだけど……」
「洗ってないの!? えっ、あ、わ、私は持ってないわ。えぇ、タオルも体操着もジャージも。えぇ、持ってないわ」
「そっか。じゃあ他の人のを借りた方が――」
「いえっ、絶対に月弥のを借りるわ。むしろ月弥のを借りないで誰のを借りるというのっ」
何故か鼻息荒く、秋夜さんは興奮気味にそう言って、カーテンから飛び出してジャージを引ったくった。
相も変わらず赤い下着を露出している。そういえば下の下着――パンツは大丈夫なんだろうか。パンツがグチャグチャだと気持ち悪いし、衛生上よろしくないことが多いのだけれど――
医学的観点からそんなことを思い、その脳裏ではぐへへなことを思い浮かべては頭を振って妄想を消す。
秋夜さんは我に返ったのか、冷静に僕に感謝の言葉を述べ、タオルで服の上から軽く水気を取った。
ワイシャツのボタンに手を掛け、僕の視線に気付き、カーテンの裏に回る。そして顔をぴょこりと出した。
「っと、覗いたら承知するわ。私も好きよ、月弥」
「なっ――……ばか……いきなりなんだよ……。承知しないでよ……」
秋夜さんは僕の文句にニコッと笑って、カーテンの中に引っ込んだ。
もぞもぞと、カーテンの裏で秋夜さんの影が動く。その後、びしょびしょのワイシャツがカーテンの下から投げられた。慌ててキャッチすると、ロッカーにハンガーあるから取ってきて干しておいて、と言われる。
「番号は? 暗証番号」
「十五夜お月さんごきげんさん、ばあやはお暇取りました」
少々音っぱずれな歌が返ってきたが、意味は分かる。これはお月見の歌であり、旧暦では中秋の名月、そして僕の誕生日である〇八一五がお月見をする日である。
秋夜さんのロッカーを開けると、綺麗に整理整頓されていて、すぐにハンガーは見つかった。スカートなどの分も考えて三本、ついでに体育館シューズも取り出す。
――『秋夜』とハッキリ印字されたジャージは見えなかったことにした。秋夜さんの間違いを指摘すると痛い目に見るのはこれまでなんども経験済みだ。
ロッカーを閉めてロックをかけ、教室に戻って秋夜さんのワイシャツにハンガーを通していると、彼女が僕を呼ぶ。
「月弥、この体操着、明日返してもいいかしら」
「え? あぁ、問題ないよ。今日一日着てて」
「ふふっ、最高ね。ありがとう月弥」
「う、うん」
スカートも僕に預けた秋夜さんが、ギリギリのラインをカーテンで隠しつつ、机の上から体操着やらジャージやらをとって手早く身につけた。
何か手に掴んだ赤い物を鞄から取り出した黒いビニール袋に投げ入れ、鞄とは反対側のフックに掛けた秋夜さんが、自席にどっかり座る。
ちなみにハンガーはカーテンレールの上に掛けておいた。何も文句を言われないところを見ると、問題ないようだ。
「ん~月弥、助かったわ。ありがとう。タオルも返すわ」
「どういたしまして。うわぁ……タオルかなり濡れてる」
少しぶかぶかなジャンパーを着て、伸びをする秋夜さん。故意でなく萌え袖になった部分を口元に当て、深呼吸を一つ。
鞄の中から黄色いハンドタオルを取り出して僕に投げた。
「髪の毛がまだ濡れている気がするの。これで拭いてくれる?」
「いいけど自分で拭きなよ。全く……」
「文句タラタラ、でもやってくれるんでしょ? 月弥のそういうところ、とても気に入ってるわ」
「扱いやすいから?」
「いいえ、私を甘やかしてくれる
「っ……」
からかいだろうか。馬鹿にしているのだろうか。
否、答えは彼女の雰囲気で分かる。きっと純粋な気持ちでそう思っていて、本心からその言葉を発しているのだろう。
それが分かるから、余計に恥ずかしくなってしまう。
悟られないように、秋夜さんの髪の毛を掴み、タオルを滑らせる。
ふと、ぶかぶかな首元から秋夜さんの胸元が見えた。所謂胸チラというやつである。そしてそこに、赤い下着が――あれ? ない。
山の頂上に渡るまでのその道中に、赤い下着が見当たらない。
手が止まったのを察知した秋夜さんが僕を振り向き、ニヤッと笑った。ジャージと体操着の首元をつまみ、ギリギリのラインまで引っ張る。あと少しで――つまりそれは――
秋夜さんが短く、答えを言った。
「ノーブラよ」
「なっ――ば、ばば、ばば、ばばばっ!」
「失礼ね、私はババアじゃないわ。ブラジャーが濡れていたのよ。仕方ないじゃない」
「な、なんてことを――」
「ふふ、ドキドキしてるのね? 興奮した? 私で興奮してくれた? そうであると私はとても嬉しいわ。私を見て、私だけでドキドキして、私に支配されて。私もあなたを見て、あなただけでドキドキして、あなたに支配されるから。だから――」
「バカァァァ!」
秋夜さんの目に、なぜかハイライトがない。そこ抜けた穴のようにどこまでも深く、彼女が立つ興奮の渦中へと引きずり込まれるようで、そしてそれを甘受しようとする僕がいて、怖い。
怖くて、叫んだ。
もういや。全部なくなって消えてしまえ。どこかに消えてしまいたい。どうにでもなれ。ドキドキが最高潮に達して、僕はタオルを秋夜さんに投げて、教室から走り出た。
*
「……私、何言ってるのよ。バカ」
興奮の中で自我を保てなくなって変なことを言ってしまった。我に返ったのは月弥の叫び声のおかげだ。だが、そんな事態になったのは、きっとこのジャージの、月弥の匂いに当てられたからだろう。
ため息を吐く。月弥の匂いが濃すぎる、もはや危険物と化したジャージの袖に、それでも顔を埋める。欲望には抗えないのだ。
月弥で肺を満たせば、心臓がどきどきと鼓動を速め、幸福の海に溺れるように思考が蕩けてしまう。ふわふわと体が浮く感覚に戸惑いつつも、身を任せてしまいたくなる。
はぁ……幸せ。好き。月弥、好きぃ……好きなの……。
「——ノーパンなことは、言わない方が良いわね……」
顔をさらに下に向けて、腕の隙間からスースーする股を見下ろして、呟いた。
PS:前話についてのフラグは、次話で回収しますので、ご容赦。
ラストがごめん。寝ながら書いた。
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