第21話 雨は川を作り、地を分かつ。だが傘を作らせ、袖は触りあう




「はぁ……」


 僕はため息を吐く。半地下型の屋内プールから窓を見上げ、ザーザー降りの外を見て、もう一度ため息を吐く。


 雨は嫌いだ。人様が月に行く時代だってのに、雨の影響を受けずに歩く手段を人は持たない。傘は足下に跳ねる雨を防ぐことはできないし、レインコートは蒸れて痒くなる。

 人間が自然――いや、神と対等でないことを深く気付かされる。まるで、神の意地悪のようだ。


 ——なんて、厨二病じみた思考は僕の生まれ出づる雑念を上から塗りつぶす為のもの。だが雑念は更にその上から僕の思考を塗りつぶしていく。

 プールっ、プール! 秋夜さんの水着! 可愛いエロい! 最高!


 ちなみに僕はプールの壁の真ん中のベンチに座っている。女子と男子のレーン境のところにある四人掛けのベンチだ。僕の周りには誰もいない。

 ——ん? 見学? 当然でしょ! 秋夜さんの水着だもん! 前回約束したし!


 ウキウキワクワクの落ち着かない僕が心の中で唾を飛ばしながらそう喋っていると、片道を泳いだ秋夜さんが体から水を滴らせながらプールサイドを歩いて戻ってきた。


 彼女の足を伝うプールの水が肌の艶めかしさを際立てる。ぴっちり彼女の体に張り付いた黒々とした水着がそのスタイルの良さを教えてくれる。綺麗な肩を惜しげもなく晒しながら、彼女は帽子の中に濡れた髪の毛をしまった。


 死んでも股は見ないと決めていた。おしりと胸がデッドラインだ。そこを越えることは絶対にしないと、賭けるほどでもない家名を賭けて心に決めていた。

 秋夜さんの体は性欲の対象じゃない。愛情と好意を向けるべき相手なのだ。秋夜さんに劣情を抱くのは間違っている。


 目が合う。秋夜さんはニヤッと笑って、自分のレーンを通り越して僕の横にやってきた。慌てて視線を床にずらす。


「っ――……な、なに?」

「見てたわね、変態」

「そりゃ見れるようになってるからで……」


 痴漢したおっさんが言うような、理由になってない言い訳を宣いつつ、僕は無性に腹が立ってきた。何故この学校は、水泳が男女合同なんだろうか。確かに女子の水着が見れて眼福かもしれないけど――

 僕をからかう直前の悪魔的微笑を浮かべた秋夜さんに、なるだけ冷たい声で言う。揶揄するような彼女の声を上書きして言う。


「ねぇ秋夜さん、今すぐ奥のレーンに戻って」

「あら、どうして? 間近に美少女の――」

「――もうこっちこないで。みんなが見てる。気にくわない」

「っ……独占欲ってものかしら?」

「とっ、とにかく早くっ、向こう行って」


 図星だったから、僕の声は慌てたものになる。

 さっきから男子が、秋夜さんの体を見ている。流線型の風上どころか風下にも置けない、流体力学において抵抗係数が高い彼女の胸を見ている。――僕だって視線が釘付けになっているけれど。


 みんなが見れる彼女の綺麗な姿なんか見なくったっていい。その代わり誰も彼女を見て欲しくない。『僕だけが見れる彼女』以外は誰にも見て欲しくない。——とても利己的な欲望だ。


 しっしと彼女を追い払ってそっぽを向く。秋夜さんは少し顔を赤らめて、小走りに奥の方へを駆けていった。

 その綺麗なお尻を眺めて、僕はハッと我に返った。


 うあぁぁぁっ! 何やってんだ僕! 近くのレーンだったら秋夜さんのおしりとか胸とか見放題だったのに! なんか格好つけたせいで見れなくなったじゃん! 一番奥のレーンだからチラチラ見てたら他の女子に勘ぐられるし、変態扱いされるし、ぐあぁぁぁっ!


 後悔する。だが、漢字からも分かるように『後悔』とは取り返しがつかないことをしたときに生まれる感情である。

 頭を抱えて、カッコつけた自分を悔やんでいると、秋夜さんとは別の、間延びした声が聞こえた。


「遠空くんかっこいぃ~ひゅーひゅー」


 原口さんが僕に一番近いレーンに戻ってきて口笛を鳴らす。恥ずかしいのを堪えて顔を上げ、彼女を睨むが、どこ吹く風だ。

 秋夜さんほどではないが美少女だし、胸は——絶壁ではない。スタイルも悪くない。だが、僕にとって彼女はただのクラスメイトでしかないのである。彼女の水着に見惚れはしない。というか興味がわかない。


 恥ずかしさを胸の奥底に隠し、肩をすくめて聞く。


「原口さん、何? かっこいいこと僕に言って欲しいの?」

「へぇ~私とケンカ揶揄り合いする気なんだ~。まぁ、股は見ないって決めてる紳士な遠空くんに免じて君の不戦勝で良いよ~」


 原口さんはそう言ってにやっと笑い、自分の列に戻った。一瞬、訳がわからなくて硬直した後、心の誓いを見破られていたことに気づき、顔が真っ赤になる。

 何が僕の不戦勝だ。まるっきり、原口さんの勝ちじゃん。


 はぁ、とため息をつく。雨が地面を叩く音が大きくなる。

 雨は嫌いだ。僕が神と対等でないことを気付かされる。まるで神の意地悪だ。

 僕だって、神がそうできるように、水着の女の子の股をジロジロ見たいというのに……。



 *



 水泳の後の、次の授業までの休み時間のことである。


「月弥ぃ……すぅ……んん、夏休みにプールに行きましょう」

「え? いきなりなんで?」

「海でも良いわ。すぅぅぅ……はぁ。どこか遊びに行きましょう」

「まぁいいけど……どうして?」


 秋夜さんは僕のジャンパーを羽織り、すっぽりフードまで被った状態で眠たげに言った。腕で枕を作りその上に顔を埋め、言葉の合間合間で大きく深呼吸をしている。


 借りた理由は、水泳の後で寒かった、ということらしい。

 彼女の鞄からは彼女ご愛用の羽織り物が主人の浮気に勘付いたのか、浮かない顔を覗かせているが、見えない振りをしておく。触らぬ神に祟りなしだ。


 秋夜さんはクスリと笑って僕の方に顔を向けた。黒髪が一房、彼女の顔に掛かる。彼女は囁くような声で言った。


「月弥、見せてあげるわ。月弥だけに、私の水着」

「っ――ど、どういう意味?」

「そのままの意味よ。スクール水着なんかよりもっとすごいもの、月弥にだけ見せてあげるわ。月弥が独占欲発揮してくれて嬉しかったのよ。だからそのご褒美よ」

「べ、別にご褒美とかいらないけど……。いいよ、遊びに行こ」

「随分と反応が薄いわね」

「あんまりご褒美とやらに興味ないし」


 黒板に目を戻して、冷めた声を出す。秋夜さんはふぅんと頷いて話を終えた。多分、僕の言葉がウソだと見抜いている。

 ――そう、興味がないなんてウソだ。とても興味がある。

 もっと凄いもの? スク水よりも凄いもの? 貝殻の水着? それとも絆創膏? もしや丸裸?

 妄想が膨らんでいく。意識が僕の世界に沈んでいく。


 だから聞こえないのだ。ジャンパー越しのくぐもった、小さくて恥じらう声は。僕の欲求を全て見透かした上での発言は。


「――月弥が私だけを見てくれてたの、嬉しかったの。だから見せるわ」



 *



「雨ね」

「雨だね……」


 校門を出て、傘を開く。

 いつもよりも距離が空いていることに加え、雨音で互いの声がかき消され、会話が弾まない。

 並んで歩いていると、向こうから歩行者がやってくる。このままでは邪魔になるなと思っていると秋夜さんが僕の後ろに回った。


 会話が完全に切れる。

 ゴンゴンと後ろから傘に衝撃が走る。振り返って『なんだよ』と睨めば、澄まし顔の秋夜さんが言い訳じみた口調で言う。


「モールス信号で会話しようとしたのよ」

「秋夜さんが前歩く?」

「目測誤って月弥の目に刺さるかも知れないわ」


 身長差と傘の持ち方の違いで、秋夜さんの傘の露先骨の先端が丁度僕の目の高さにある。確かに危ない。秋夜さんは後ろを歩かせよう。

 いや、モールス信号をさせないために前を歩くか提案したのに――

 信号について――別にダジャレじゃない――ようやく並ぶことができて、彼女に戯れに聞いてみた。


「僕の傘に入る?」


 相合い傘はなんども経験したことがある。

 そして僕の結論として、相合い傘はそこまで恥ずかしいことじゃない。傘が足りないから一つの傘を分け合う、とても道徳的な行為なのである。


 秋夜さんは目を見開いて、確認してくる。だが、すでに傘の下ろくろ開閉機構には手がかけられていた。


「いいのかしら?」

「うん、別によくあることだし。傘も大きいから」

「っ――怒ったわ。何を言われても絶対に相合い傘するわよ。絶対に月弥の傘から出ないから、覚悟しておきなさい」


 秋夜さんはなぜか怒った様子で傘を畳み、僕の傘の中に入ってきた。

 途端、傘の中の空気が熱っぽくなる。気配の密度が増す。秋夜さんがいつもより近くなる。袖が擦れる、触れ合う。互いの体温が分かたれる。

 心悸が乱れ始めた。耳元で響く脈の音がウルサい。

 ――相合い傘って、こんなにドキドキするものだった?


 心臓の音が彼女に聞こえないか不安になっていると、秋夜さんが低い声で聞いた。


「月弥、これまで何人の女の子を誑かして同じ傘の下を歩いたの? 答えようによっては本気で怒るわ」

「え? いや、一人だけど……」

「そう。月弥は今もその人のことが好きなの?」

「今も? え~……まぁ、なんだかんだ言って好きだね。大事な人だし」


 話の雲行きが怪しくなってきたことを悟れない僕は、照れ臭くなる質問に返す。一方、秋夜さんは体から怒りのオーラを発散した。いや、怒りではなく――


 彼女の顔を見れば、目尻はうっすら涙が張っていて、それを誤魔化すかのように頬がぷくーっと膨れ上がっている。まるで、泣くのを怒ることで堪えているかのようで。今にも地団駄を踏みそうな歩き方は、水たまりに落ちたら大惨事になること間違いなしだ。


「そう……そっか」


 秋夜さんは小さく、穴が空いた胸を押さえるかのように小さく言った。

 ドキッと心臓が跳ねた。思ったことがそのまま口に出てしまう。


「もしかしててヤキモチ、焼いてる?」

「っ――焼いてなんかないわよっ! バカッ!」

「いやぁ、姉だよ? 相合傘の相手って」

「なっ――それならそうと早く言いなさいよ! もうっ……」


 なんてよくあるラノベのワンパターンなネタなんだ。微笑ましい秋夜さんの勘違いにほんわかしつつ、テンプレートな現実に呆れつつ。

 直後、傘を持つ腕が柔らかい感触に包まれた。見れば、秋夜さんが僕の腕を、腕と胸の間で抱き締めている。


「お仕置きよ。せいぜいこれでドキドキしなさい! ほんと、泣きそうだったのよ!」

「なっ――ちょっ、離れて! 放してよ!」

「絶対に傘から出ないと言ったはずよ。何をしても、ね」

「で、でもこれはやり過ぎだと思うんだけど!」


 叫んではみたが、秋夜さんはぷくっと頬を膨らませて僕を睨むばかり。放してくれる様子はなさそうだ。

 暴れると危ないので、腕の感触を意識しないようにして歩く。秋夜さんはふっと息を吐き、まぁでも、と先ほどの怒った声から続けた。


「安心したわ。月弥が経験豊富だと私なんか相手にしてくれなさそうだったから」

「っ……そんなことないし。むしろ秋夜さんが経験豊富でしょ」

「いいえ、中学は女子校だったもの。男縁はゼロよ」

「『恋知り恋愛の情を知る人』ならぬ、恋知らずってやつ?」


 古典単語をヒネってそう聞けば、秋夜さんはビックリしたように僕の腕を放した。そして再び、おもむろに僕の腕を拾い、脇腹にかき抱く。

 腕の関節が悲鳴をあげた。とても痛い。


「傘から出ないと言ったはずよ。その、ただ……」


 突然雨が強くなった。傘に叩き付けられる雨がウルサくて、秋夜さんの小さな声がかき消されて、途切れ途切れにしか聞こえない。


「ちゃんとした恋はこれが初めてなのよ……」

「え? なんて?」

「――……」


 聞き返せば、秋夜さんが無言で僕の腕を強く抱き締める。視線が重なると、目の下を赤くして、腕を抱く力を弱めた。

 そして、ぽつりと言う。


「経験ゼロ同士、少しずつ背伸びすれば良いと思うのよ」


 雨が更に強くなった。足下はびしょびしょに濡れていて、靴下まで染みて気持ち悪い。

 でも、雨が好きになった。

 雨が降ったら、好きな人と近くにいられるから。






PS:最後のセリフ、気に入った人は是非ハートとレビュー、コメントなどなど、お願いします。

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