第20話 指に乗るのはマニキュアか、それとも口紅か
朝。学校に着くと、秋夜さんは真剣な顔で自分の爪に何かをしていた。
「秋夜さん、何やってるの?」
声を掛ければ、ビックリしたように僕を見て、あっ、と声を出して自分の爪に目を戻す。見れば、小さな刷毛が爪の際を乗り越えて指の上に乗っていた。
なんかまずいことした? そう首を傾げれば、ため息を吐いた秋夜さんが低い声を出す。
「月弥……許さないわ」
「えと、ごめんなさい。あとおはようございます」
「おはよう。月弥、どう責任取ってくれるの?」
秋夜さんは刷毛付きのキャップを目薬サイズのボトルに戻し、僕を睨みながら指をティッシュで丁寧に拭く。
ローションなのかな? 秋夜さんって変態だしありえそう。
戯れにそんなことを考えていたら声に出ていたのか、秋夜さんが僕をもっと強く睨んだ。
「何故爪にローションを塗るバカがいると思うのよ。あなたの思考が変態よ」
「っ……ごめん」
突然の久しぶりの『あなた』呼びにビックリしてしまう。
ずっと名前呼びだったせいで『あなた』の呼び方がまるで女性が配偶者を親しげに呼ぶような――
頭を横に振って思考をかき消すと、秋夜さんがようやく僕の最初の質問に答えた。
「ふぅ……マニキュアよ。透明なやつ」
「マニキュア? ウチの学校ダメじゃなかった?」
カラコン、ネイル、染髪は校則違反だ。薄めの化粧ならバレても怒られはしないが、知らぬ間に平常点を下げられるのが常らしい。——風の噂だが。
秋夜さんはふーっと爪に息を吹きかけ、蛍光灯に手を
蛍光灯の光を反射した彼女の爪が眩しい。——秋夜さんが眩しいほど綺麗だ、とかそんなキザなことは言えなかった。
「爪のお手入れ——ネイルケアと言えばいいかしら。ほら見て、ツヤが出てるでしょ? スキンケアと同じよ」
「ホントだ。これってカチコチになるの?」
「表面が乾くのが五分から十分。中身が乾くまでには半日かかるわ」
だから触らないでよ。ヨレてしまうから。
秋夜さんは軽く釘を刺し、もう一度爪に息を吹きかけた。
それから教室の時計を見て顔を顰める。つられて見れば、時計の釣人が朝礼が始まる十五分前を指していた。彼女に目を戻せば、つい今マニキュアを塗っていた左手と僕を見比べていた。
なんとなく意図が分かって、彼女の机を僕の方に向けて、椅子を引っ張って彼女と向かい合って座れば、秋夜さんは顎でネイルのボトルを指し、右手を僕の方に出した。
なんてことはない。僕が彼女のネイルケアをするというだけだ。
どうやら先ほど、彼女のネイルケアを邪魔してしまったようなので、そのお詫びも兼ねている。
「左手でするのは慣れてないから時間的にも大変だったのよ。助かるわ」
「へいへいどういたしまして。それで一度塗り? 二度塗り?」
「一度で十分。普段から化粧している下衆と違って、私はすっぴんでも世界最高の美少女なのよ。重ね塗りなんて必要ないわ」
自画自賛が過ぎるし、世界最高は是非とも訂正してもらいたい――とツッコみかけて顔を上げる。するとそこには、少なくとも僕にとっては世界最高の美少女の顔があった。
切れ長の目と、細い鼻、白い肌と黒い髪。澄み切った双眸は見つめたものを吸い込むかのような奥深さがある。
見とれていると、早くしろと言われて、慌てて我に返ってボトルを手に取る。
キャップを取り、ボトルの縁で液体を切って彼女の手に手を添えて固定する。しなやかな指先にドキッとしつつ、それを悟られないように深呼吸して、彼女の爪に刷毛を当てる。
綺麗な指を台無しにしないために、丁寧に、爪の際から塗る。
「上手いじゃない。今度から月弥に塗ってもらおうかしら」
「冗談じゃないよ。塗るもんか」
「あらどうして? 美少女の手指の感触を合法的に楽しめるのよ」
「帰り道に握るし。別にネイルケアで触る必要ないもん」
そう、最近、帰り道に秋夜さんが僕の手を握ってくるのだ。
最初こそ抵抗したもののなかなか放してくれないのに加え、無理矢理突き放すと怒って手に負えなくなるか、悲しそうな顔をされるかの二択なので、もう諦めて素直に手を握られている。
――別に、秋夜さんと手を繋ぐことが本意なわけじゃない。全く以て不本意である。が、仕方なく秋夜さんの為に手を繋いであげているだけだ。
開き直った僕の発言に、秋夜さんが顔を赤くした。
僕にはマニキュアの才能があるようで、ものの数分で塗り終えてしまった。ようやく手を離せることへの安堵の息を吐きつつ、その裏側ではちょっぴり名残惜しさを感じつつ、キャップを閉めようとすると、秋夜さんが命令口調で言った。
「手を出しなさい」
「何する気?」
「塗ってあげるのよ。月弥の爪も綺麗なんだから大事にしなきゃいけないわ」
自分の爪を見下ろして、まぁ綺麗かなと頷く。決して、秋夜さんに褒められて思考停止した訳じゃない。
お願いしようかなと思って――先ほどの指の感触を思い出して慌てて吐き出しかけた言葉を変えた。
「い、いいよ必要ないから!」
「お礼よ。それとも、塗らせなさいと命令した方がいいかしら」
「――はぁ、分かったよ。変なことしないでよ?」
「大丈夫、ただのネイルケアよ」
秋夜さんが目を細めて睨むように言うのは、訝しんだ僕に不満があるようだ。僕が迷っていると、秋夜さんは僕の手を引き、しっかり固定する。
指が絡まる。指先が触れ、静電気が走ったみたいに奇妙な感触を覚える。心音が大きくなり、全身の血管の脈動を感じる。触れ合う指先からそれが秋夜さんに伝わらないか不安で目を閉じる。
「じっとしてなさいよ?」
爪にくすぐったい感触が乗る。ヒンヤリした液体が、刷毛の跡を教えるように優しく丁寧に爪を覆う。次の指へ移るとき、手の握り方が変わり、目を閉じているせいで余計に指の動きが感じられてドキドキしてしまう。
目をぎゅっと瞑って頭の中で別なことを考えていると、右手のネイルケアが全て終わった。左手に移ってから、それまで無口だった秋夜さんがしゃべり出す。
「月弥、ドキドキしてるかしら」
「――ま、まぁまぁかな」
「指先から分かるわ。トク、トク、トク……優しく動いてる」
「へ、変なこと言わないでよ! 動けないんだからさ!」
「ふふ、そうね、動けないんだった」
秋夜さんは良いこと聞いた、みたいな口ぶりで言い、次の指へと移る。
だんだん登校ラッシュの時間に近づいてきたようで、教室のざわめきが大きくなる。そしたらその分だけ、人に見られるようになる。
聖女が隣の席の男子にマニキュアを塗っている。果たしてそれはどんな光景なんだろうか――
思考が指を伝い彼女に届いたのだろうか、秋夜さんは再び口を開いた。
「ねぇ月弥、ラストの小指よ」
「う、うん。だから何?」
「知ってる? つい今しがた予鈴が鳴ったわ。クラスには――そうね、三十人ぐらいいるわ。ほとんどみんな、私たちのことチラチラ見てる」
「っ――……」
「ふふ、いい反応するわね」
からかわれている。弄ばれている。面白がられている。それが分かっていても、僕にはその対抗手段がなかった。だから黙って目を閉じたまま耐える。無心になれと心に語りかける。
小指に刷毛が乗った。この小指が終わるまでの時間を耐えきれば、もうそれで終わりだ。
そう思うと、時間の進みが一気に遅くなった。遅々として刷毛が進まなくなった。
心の中に焦りが生まれる。それが元からのドキドキと混ざり合って、恥ずかしさを産む。苦しくなってくる。息が切れてくる。
表情に出ていたのだろうか。ポン、と軽く足を蹴られた。それだけで緊縛されていた僕の体が弛緩する。苦しいほどの胸の高鳴りが収まってくる。落ち着きを取り戻す。
「ふふ、いいこと。もうすぐ終わるわ」
優しい声で秋夜さんが言う。世界から喧噪が絞り出され、彼女の声だけしか聞こえなくなった。時間の進みが元に戻った。
やがて刷毛が爪から離れ、キャップを締める音がする。目をうっすら開けると、秋夜さんが下から僕を見上げて、ニコッと笑った。
爪にふーっと息が吹きかけられる。気化熱だろうか、爪の熱が奪われていく気がする。
「ふーっ……」
何度か優しく僕の両手の爪に息を吹きかけた秋夜さんは、顔を上げ、自分の作品を見返してうんと頷いた。
そしてもう一度、息を吹きかけようと――
瞬きをする。その一瞬、世界が闇に包まれる。その瞬間、ふにっと柔らかい感触を薬指に覚えた。目を開ける。秋夜さんが僕の手から顔を遠ざけている。
「なっ、何を!?」
「ちゃんと手で隠したわ」
「そうじゃなくて今何をしたの!?」
「何って――何かしら? キス、とでも言うのかしら? または頬ずり、と人は言うかもしれないわ」
「全然違うじゃん! どっちなの!?」
ウソだ。答えはもうなんとなくわかっている。
薬指に局所的に感じたあの柔らかさは、唇のものに違いないと。
そんな僕の思考を知っているからか、秋夜さんも肩をすくめて嘯く。
「さぁ、どちらでしょうか。神という私のみが知ることよ。ただ――キスだとしたら、誓いのキスみたいで良いと思うわ」
「っ……」
「月弥、あなたは誓いのキスをしてくれないの?」
「秋夜さんがキスしたのかどうかも分かってないじゃん! や、やる意味なんかないよ!」
「キスして欲しいわ。私が望むの。それだとダメ?」
「バカ言うなよ! トイレ行ってくる!」
唇に指を当て、純粋に本心からそう望むように色っぽく呟いた彼女に、僕のドキドキが最高潮に達した。
だって、もう答えはそこにあるのだ。動かぬ証拠が。
——僕の指には、薄い口紅のような色が付いていた。
PS:今、スランプ。更新ぼちぼち遅れます。
レビュー、ハート、コメント、いただけると元気が出ます。
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