第18話 すれ違う『冗談』と『本気』




 遠足の翌日の朝。

 トイレにでも行ってるのだろうか、秋夜さんの机には鞄はあるが姿が見えない。明日はもう少し早く家を出よう。


「遠空くんおはよ~」

「あ、どうも原口さん」

「ノリ悪いね〜……はぁ」


 リュックを床に落として伸びをしていると、原口さんが僕の前の席にやってきて、そこに腰を下ろした。挨拶を返せば、何故かため息と共に呆れた視線を寄越される。と思ったら、すぐに間延びした雰囲気に戻った。


「まぁいいや~。遠空くん、オブザーバーとして確認したいことがあるんだけどいい?」

「何それ、悪の組織の一員なの?」

「むしろ正義かな~。ねぇ、昨日の遠足で柚菜とお守り交換したでしょ? 見せて? 遠目だと見えなかったし、柚菜も全然教えてくれなかったし」

「ま、まぁ交換しただけど……はい。ねぇ、なんで見てたのさ」


 ポケットから財布を抜き――リュックだとすぐに汚れてしまうから変えた――、チャックを開いてお守りを取り出す。

 僕が買ったお守りは赤色だが、このお守りは桃色で、相も変わらず『恋愛成就』と刺繍が施されてある。


 原口さんはお守りを手に取って眺め、クスリと笑った。


「結果だけ言うと、柚菜は桃色のお守りを買って、遠空くんにあげた。遠空くんは赤色のお守りを買って柚菜にあげた。そういうことだよね~。

 ラブラブだね~ひゅーひゅー」

「い、いや流れ的にさ? 僕も自分の名前書いて秋夜さんに渡すパターンな気がしただけだし、秋夜さんもからかいたかっただけだろうし……」


 神社での出来事を遠くから全て見ていたと告白した原口さんが続けて説明口調で言い、最後に冷やかしてくる。

 言い訳が効かない。秋夜さんは正論や威圧で僕の言い訳を崩すのに対し、原口さんはふぅんとニヤニヤ笑うだけ。まるで北風と太陽を彷彿させる二人である。

 原口さんは何かを感じたのか、ヤキモチ焼いちゃうのも可愛いけどね〜、ここは一つ退きますか~、なんて言いながら、突然席を立って自席に戻った。直後、秋夜さんが教室に入ってくる。どういう意味か全く理解できないが、なんとなく最強キャラ感を彼女に覚えた。


「おはよ月弥」

「っ――……お、おはよ……」


 声が喉に詰まり、一瞬の間が空く。なんてことはない。

 水色の涼しげな夏服を着た秋夜さんが可愛かっただけである。

 半袖から覗く白い腕が宝玉のように綺麗で見惚れただけである。

 ワイシャツが薄くなって胸の下着が透けてないか期待しただけである。


「月弥、何ぼーっとしてるの?」

「はっ……忘我の境に入ってた」

「もしかして見惚れてたのかしら? 私の夏服姿に。ふふ、やはり美少女は何を着ても似合うものね」

「うん、似合ってる。可愛いよ」


 素直に答えれば、僕の横を通り抜けざまペシンと頭を叩かれた。なんでぇ!? と振り返れば、秋夜さんが僕に背を向けたまま窓の縁に手を置き、グラウンドを見やる。

 そして全く話を変えた。


「お守り嬉しかったわ。ありがとう」

「あ、うん。僕も、ありがと」

「互いに恋愛成就、何かいい縁があればいいわね」

「縁があるから渡せたんじゃないの? 縁があるから出会えたんだし」

「っ……狙って言ってるのかしら?」

「へ? いや、巡り合わせがあったからこそ渡せたのであって、縁がなければ何もアクションは起きないものでしょ。狙うって何?」

「っ――……天然なのね。もういいわ、話は終わり」


 秋夜さんは僕に顔を向けず一方的に話を切る。そしてペシペシと自分の頬を叩き始めた。まるで火照った頬を諫めるような仕草に似ている。

 僕は音を立てないようにこっそりガッツポーズした。え? 天然? もちろん狙ってるに決まってる。僕の顔も十中八九赤いけど、これはもう勝利と見なしてもいいのではないだろうか。


 そう思って原口さんの方を見やれば、彼女はニヤッと笑って両手の平を宙に放った。審判の勝ちである。



 *


「さて、水泳の授業である。そして――……」

「折角月弥の水着を見れると楽しみにしていたのにもかかわらず、月弥が水着を忘れて見学するという生徒として関心意欲態度の欠けた行動をした。これは許せないわ」

「その言葉、そのまま返す」


 さて、高校一年生の体育の水泳授業として名誉ある最初の見学者である。今日の見学者メンバーはこちら。遠空月弥、秋夜柚菜の二名である。

 ちなみに遠空選手は五度目の体育見学だ。そろそろ単位取得への雲行きが怪しくなってくる局面である。


 秋夜さんの苛立ちの声を混ぜた発言は冗談だろうが、僕にとっては本気の言葉だ。秋夜さんのスク水を見る気満々で敢えて水着を忘れ、平常点をお代に見学席のチケットを買ったというのに――秋夜さんも水着を忘れて見学席に座っているのだ! ペイバックはできないので、僕の平常点はドブに捨てられたようなものだ。


 秋夜さんが尊大な命令口調で言った。


「月弥、私は次は忘れないわ。だから次々回は必ず持ってきなさい」

「何? 互いの水着を順繰りに見るって寸法?」

「察しがいいじゃない。その通りよ」

「そんなに僕の水着が見たいわけ? 僕の水着姿で何する気?」


 冗談の応酬で話が膨らみすぎでしょとは思いつつ、僕は全て本気の発言なのでそのまま続ける。これで秋夜さんも本気の発言だったら笑えないが、そんなコントあって堪るか。


 秋夜さんは少し無言になった。返す言葉を考えているのか、と彼女を見れば、赤い顔の彼女と目が合う。小さな声でぼそぼそと何かを呟いた。


「っ――そのナニをする気なのよ……」

「え? なんて言ったの?」


 秋夜さんは顔を両手で多い、指の隙間から恨みがましい視線を僕に向け、それから顔を俯かせて僕から隠す。ちなみに真っ赤な耳は丸見えだ。

 そしてその気配は、全く『冗談』とは見ることができない。


「だから……いろいろ、するのよ……」


 その物言いがこの前の彼女の『(性欲が)そこそこ』とダブったその瞬間、僕の想像力は翼を授かり、理性というフェンスを跳び越えて大空へと羽ばたき、青いキャンバスに妄想を描いていった。

 吹き出しそうになった鼻血を、寸前で鼻を摘まんで堰き止める。


「あぁっ、冗談じゃなくなっちゃうじゃないっ!」


 秋夜さんが何かを言ったが、それどころじゃなかった。

 僕はベンチを立ち、みんなが落としたプールの水でぬめる床を小走りで駆ける。壁際の排水溝の上で鼻から指を離すと、あさましきほど驚き呆れるほどの量の穢れが、穴の中へと吸い込まれていった。



 *



「どうしたのかしら? ぬぼーっとして」


 食堂。お昼休みである。

 僕はラーメンを前に固まる。それを見て、秋夜さんが首を傾げた。

 僕はコーンの山の頂上で溶け落ちていくバターを眺めて、泣きそうになるのをこらえて呟いた。


「――ラーメン食べれない」

「……バカね。何故ラーメンを頼んだのかしら。それと正しくは『食べられない』よ。文系としてラ抜き言葉は許されないわ」


 秋夜さんが察したように開きかけたお弁当を閉じた。

 鼻血は引いたが、まだ鼻の奥がむずむずするから、多分ラーメンの蒸気を当てたらまた出血する気がする、ということだ。

 ラ抜き言葉を指摘されたことにムッときたが、彼女が正論なので黙って引く。でも十数年後にはラ抜き言葉の方が正しいもんね!


 秋夜さんは弁当を僕の横にスライドさせ、僕のお盆を引き取った。意図が分かり、僕は感謝の意味を込めて頭を下げる。


「交換してあげる。美少女のお弁当よ、ありがたく頂戴しなさい。アレルギーがあったら自己責任よ」

「ありがと。でもアレルギーないから大丈夫。いただきます」

「えぇ、私も頂きます」


 手を合わせ、いつもの呪文を唱えてから彼女のお弁当を開く。中はデフォルトの卵焼きとウインナーに加え、メインに餃子。

 秋夜さんはラーメンを啜り、顔を綻ばせる。そして僕をじっと見つめてくるので、僕も餃子を口に頬張り、笑みを返した。すると安心したように彼女も笑う。


「美味しい。ありがとね」

「作ったのは母だけれどね。良かったわ」


 照れくさそうにそう言った秋夜さんは再びラーメンを啜る。

 ふと、箸とお弁当を見下ろして思いついたた。洗った後とはいえ、これは間接キスになるんじゃないか、と。言い出したら食堂の箸だって間接キスになるような小学生の理論を僕は思いついた。


 食洗後の箸にまで間接キスを感じるほど僕は飢えているのか。

 それを自覚した瞬間、恥ずかしさがこみ上げてくる。忘れようと目を瞑って口にご飯を運ぼうとしても、頭の中で心音が大きく響く。箸を持つ手が震える。


「どうかしたの?」

「あ、いや。大丈夫」

「そう――あ、鼻血」


 言われて人中鼻の下に触れると、指に血がついていた。すぐに秋夜さんがポケットティッシュを取り出し、丸めてくれる。鼻を摘んで上を向き、彼女から受け取ったティッシュを突っ込んだ。

 大きさは丁度いい。太すぎず、細すぎず。まるで職人技だ。


「ありがと」

「どういたしまして。ちょっとこっち向いて」

「ん? 何?」


 するりと僕の方に伸びてきた彼女の手指が僕の顎を捉える。クイっと上を向かされて、しなやかな指の感触にびっくりして固まっていると、人中のあたりを拭われる。

 何度か擦った後、秋夜さんはうんと頷いて自席に戻った。


「血が付いてたわ」

「そ、そっか。ありがと」

「いえ、こちらこそ。家宝が増えたわ」


 秋夜さんは訳のわからないことを言ってラーメンを啜った。


 数分後、ドギマギしつつもお弁当を食べ終えて風呂敷を包んでいると、同じくラーメンを食べ終わった秋夜さんが僕に手を伸ばした。


「食べたのは僕だから僕が洗わないと――あ、そっか。明日の分があるのか。ごめん」

「……? あ、あぁ、そうそう。そういうことよ」


 秋夜さんは首を傾げ、上手い言い訳を見つけたと言わんばかりの妙な間の後で頷いた。別の理由があったんだろうかと思っても、全く分からない。絶対ないけど、強いて思い当たるとしたら……と妄想を広げる。

 例えば、僕の箸を舐りたいとか、そういう変態さんなのだろうか。


 見れば、秋夜さんはお弁当にぽーっと熱っぽい視線を送っていた。

 ——まさか、まさかね、と心臓が冷や汗をかいていた。






PS:知ってた? 本作のヒロイン、変態さんです。(二回目)

 ちなみに『あさましきもの』は古語の方の意味です。

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