第12話 ジャンパーに沈み、悦に浸る




「コンパスって便利よね」

「突然どうしたのさ……」


 僕の筆箱から青いコンパスを奪っていった秋夜さんは、それを紙の上でくるくる動かしながら言った。コンパスの動きに合わせて、鉛筆の軌跡を描くように黒鉛が紙の上に残されていく。

 世界史授業中のことである。そして彼女がやっているのは物理の実験レポートである。つまり内職だ。悪いヤツめ。


「――弧を描く。ある長さをコピーペーストする。この基本の二つの動作を組み合わせることで垂直二等分線や正五角形まで描けてしまうのよ」

「あ、うん、そうだね」

「でもそれを成すコンパスというものを支えるこの二つの足は不公平よ」


 何についての持論なんだろうか。

 秋夜さんは円を描き終えた後、コンパスの足――針と鉛筆の先っぽを弄る。見ていて針が指に刺さらないか心配になった。

 別に秋夜さんに過保護になってるわけじゃなくて、隣で面倒ごとが起きて欲しくないだけだ。うん、そういうことにしておこう。


「針はいいわ。針が抜けたら接着剤で再生しようとするでしょう? だって替えが効かないもの。だからコンパスそのものが潰えて終わるそのときまで針はコンパスと共にあるわ。でも鉛筆は?」

「まぁ、替えがいくらでも効くね。だって消耗品だし」

「そう。それが不公平なの。私はそれが許せないわ」


 秋夜さんって妙に感受性が豊かだな。人工物にすら情を持って寄り添えるとは、なんて心優しい少女なんだろう。

 そう思って暖かい目で見ていると、秋夜さんは憤慨してコンパスを殴った。前言撤回、なんて酷いヤツなんだ。

 というかそもそも、それは僕のコンパスなのだが。人の借り物を殴るとはこれ如何に。


「月弥は鉛筆よ。ふんっ」


 針の方をつまんでコンパスをぶら下げ、サンドバッグみたいに鉛筆――秋夜さんの勝気な声曰く『僕』——を、何度もデコピンした。

 ガキっぽいと冷えた脳が感想を零す反面、そんな彼女が可愛く思える。

 『愛』とは何か。ズバリ今の僕の感情である。対象を温かい目で見ずにはいられない。それが『愛』だ。……これは親子愛の説明な気がする。ゴメンなさい、秋夜さんのお父さん。


 顔も名前も知らない彼女の父親に謝罪して、彼女の話相手をする。


「じゃあ秋夜さんは針?」

「そうね。鉛筆である月弥を影ながら支えてあげる、月弥の唯一の帰る場所よ。ふふ、優しいでしょう?」

「っ……か、替えが効かないね。大事にしなきゃ」


 コンパスと開いたり閉じたりしながら秋夜さんが無邪気に笑う。

 不意打ちにドキッとした心臓を押さえて隠し、平然を装ってそう返すと秋夜さんは動きを止めて、鉛筆を見た。そして僕を見て、首を振る。その向きは横。


「前言撤回、月弥は針よ」

「その心は?」

「月弥だって替えの効かない、かけがえのない存在よ」

「っ――……でもそれだとコンパスとして機能しないじゃん」


 両方針のコンパスなんて、穴を開けることしかできない無用の長物でしかない。そんなコンパス誰が買うというのか、云々。まっすぐな物言いに恥ずかしくなった僕はマジレスしてみる。

 秋夜さんは僕の返しを比喩として『社会の役に立たない』とでも取ったのだろうか、真面目な顔でコンパスを閉じて僕に返す。


「問題ないわ。必要とあらば私が鉛筆になるもの」

「……秋夜さんだって、掛け替えのない存在じゃん。天上天下唯我独尊、生まれた直後に言ったんじゃないの? 忘れたの?」

「私は釈迦じゃないわよバカ。言いはしたけど。そうね——まぁでも……」


 生後三秒の生児が喋れるわけがないのに、秋夜さんはしれっと本当のことのように言う。コンパスを筆箱に仕舞いながら聞いていると言葉が止まったので、彼女の方を見てみれば秋夜さんは机に頬杖をついて、じっと僕を見つめていた。

 どうしたの? と僕が問う前に、真面目な話よと秋夜さんが前置きした。その顔はどこか、緊張が見て取れる。

 秋夜さんはその緊張を振り切るように首を横に振った後、小悪魔ちっくに言った。


「でもその代わり、私のこと一生掛けて大事にして。それで私の拠り所になってくれたら嬉しいわ」

「……それ、プロポーズ?」

「さぁ? 真面目な話、とは言ったけれどね」


 秋夜さんは肩をすくめて、レポート用紙をファイルに乱雑に突っ込んだ。

 ずるいと思う。秋夜さんだって相当恥ずかしいはずなのにそれを噯気おくびにも出さないで、しれっと言い切ってしまうんだから。

 恥ずかしくて下を見れば、彼女の鞄からピンク色のコンパスが顔を覗かせているのが見えた。



 *



「ねぇ月弥、甘えたいわ」

「はぁ?」

「――寒いわって言ったの。ジャンパーを貸して」


 ――きっと聞き間違いだろう。秋夜さんの顔が赤かったり、私は何を言ってるんだ、みたいな顔をしているけど、聞き間違いに違いない。

 秋夜さんが甘えたいなんて言うわけがない。長距離走の測定の時は甘え屋だった記憶がなくもないが、あれはきっと息切れのせいで人格がブレていただけだろう。

 うん、きっと気のせいだ。


 結論が出た後、僕は秋夜さんを訝しんだ目で見つめてみる。

 秋夜さんは手指を組んで体を捻り、まるで恥ずかしさの熱を逃がすような、そんな動きをした。見られていることに気がついたのだろうか。


「何見てるのよ」

「ジャンパーを何に使うのかなぁって」

「着るために決まってるじゃない。頭おかしくなったの? だからジャンパーを貸して――」

「秋夜おはよぉぉぉ! っと……おい遠空、テメェ秋夜と何話してんだ?」


 そんな問答をする落ち着いた朝は、ドタドタドタァァァ! と教室の中に駆け込んできた騒々しい飯田くんで切られた。そして開口二番、僕を睨み付けて詰め寄ってくる。


 秋夜さんが顔を青くして、ガクガクブルブル震えはじめた。なんだ、どうしたんだ? 飯田くんの荒い口調でチビリそうなのか? やーいびびり〜! 僕は全く平気だからな〜!

 頭の中で彼女を煽ることで、ホントにチビリそうになるのを堪える。


 飯田くんの背中から、秋夜さんが首をブンブン横に振って腕で罰を作っているが、何を言いたいのか全く伝わってこない。

 飯田くんの鋭い眼光が僕を貫く。たじたじな僕の声が、とてもみっともなかった。


「え、えと、ジャンパーを、秋夜さんが、寒いらしいから、借りたい、らしい」

「なに!? あ、秋夜! 俺のジャンパーを貸すぜ!」

「だ、大丈夫、ありがとねっ。飯田くんとお喋りしてると体温まってきたからさっ」

「いいっていいって! 遠慮すんなよ、ほらっ!」


 なんて飯田くんは優しいんだ。過ぎたるは及ばざるがごとしとも言うが、彼はきっと善意で働いているのだろう。聖人君子とはまさに彼のことだ。

 いそいそとジャンパーを脱いで秋夜さんに渡そうとする飯田くん、そしてそれを拒む秋夜さん。なんだ? 寒いならとっとと借りればいいのに――

 秋夜さんは一歩引いて慌てたように首を横に振る。


「ホントに大丈夫だから、ありがとっ!」

「大丈夫だって! 持っとくだけ持っとけよ!」


 言いつつ、飯田くんが秋夜さんにジャンパーを押し付けた。

 無理矢理飯田くんのジャンパーを持たされた秋夜さんは、まるで汚物を持たされたかのように素早く手を離す。飯田くんのジャンパーが床に落ちる。

 直後、低く、地が唸るような秋夜さんの声が、彼女の体を伝い、足を伝い、教室の床を伝い、僕らの体を伝い、鼓膜を揺らした。


「豚の分際でその汗染み込んだジャンパー持たせんじゃないわよ穢れんだろ……」


 教室の空気が凍り付く。春の陽光が差し込むこの教室が、まるで南極の真冬のように寒い。だのに、チリチリと秋夜さんの目の奥で火の粉が舞っているのが見えた。

 ホントにチビッた。――いやっ! チビッてないよ!? 今のは冗談だよ!? ほ、ほんとにチビってなんか――

 僕が心の悲鳴を上げてる間に、飯田くんがその場に尻餅をついた。


 そこに、固く氷のような、しかしいつもの聖女の声がする。


「ふふっ、ホントに必要ないの。お気遣いありがとっ――あれ? なんで飯田くん転けてるの?」

「えっ、あ、あぁっ! ちょっとジャンパーを拾おうとして、床がツルツルで滑っただけだ! 心配ねぇよ! なぁ遠空!」

「そ、そう? 床のワックス掛けは来週だったはずだよ? ツルツルかなぁ?」


 ついこの間配られた学校の清掃予定表にそう書かれてあった。学校のプリントは本当にどうでもいいことばかり伝達してくるのだが、初めてその情報が役に立った気がする。

 飯田くんは立ち上がって意地を張ったように大声で言った。


「いやっ! ツルツルだって! っと、じゃ、じゃあ俺ちょっとトイレ行ってくる!」


 ドタドタドタァァァ! 行きも帰りも変わらぬ騒々しさで飯田くんが教室から出て行く。――今の動きに込められた緊迫感は、まさに膀胱破裂寸前のような、そんな慌ただしさがあった。


 秋夜さんはため息を一つ、彼女曰く『穢れ』に触れた両手を見下ろし、顔を顰める。そして僕を見る。

 僕は彼女の言いたいことが分かって、リュックの外ポケットに奇跡的に入っていたアルコールティッシュを彼女に渡した。


「ありがと……おぇっ、ホント、キモい」

「えと、それで寒いのは大丈夫? さっきは僕の方が寒かったんだけど」

「ごめんなさい、本当に触りたくなかったの。それで――……月弥、ジャンパーを貸して。お願い」


 後生だから、と彼女は声を絞り出す。

 ほんの少し涙目になった彼女の上目遣いを無視するなんてできるわけがなくて、僕はジャンパーを脱いで秋夜さんに渡す。


「分かった。でもなんで飯田くんのジャンパーを嫌うの?」


 彼女は腰を折って膝を曲げ、褒美を賜う臣下のようにジャンパーを恭しく受け取り、嬉しそうにはにかむ。

 そして表情を一転、渋面を作る。


「だって汗臭いもの。それに女――いえ、は得てして、に触れられることを嫌うものよ。物に関しても同じ。

 ちなみにの匂いが大好きよ。だってその雄が好きだもの。牝オチしてパンツが濡れてしまうのも仕方ないわ。ぐっちょんアヘアヘだもの。あなたに」

「よくわかんないけど僕がイケメンだって話?」

「いいえ、中の上ね。一目でイケメンとは言えないわ。てか話聞いてた?」

「全然わかんなかった。ともかく、僕のジャンパーは汗臭くないんだね?」

「えぇ、むしろ好きな匂いよ。そう言ったわ。すぅぅぅ……はぁぁぁ」


 秋夜さんは僕のジャンパーに顔を埋め、大きく息を吸って吐く。

 そのまま固まってしまった。生きているか心配になったころ――きっと息切れのせいだろう、真っ赤になった顔を上げる。

 何故か目は恍惚と蕩けていて、口元はふにゃふにゃに歪んでいるけど、もしかしたら彼女は窒息とかの自傷行為に快感を得る性癖持ちなのかもしれない。今後注意してあげなければ。


 そんな思考をよそに、心臓がバクバクし始めて、頭がクラクラし始める。秋夜さんが僕のジャンパーを嗅いで悦に浸っているに見えてしまう僕の目は穢れているのだ。そしてそれを更に喜んでいる僕の心は狂っているのだ。


 秋夜さんは口元にジャンパーを当てて甘い声を紡ぐ。


「ふふ、ね? 大丈夫なの。むしろちょっと濡れちゃったわ」


 僕はあなたのさきっきの怖い声で少しちびってパンツが濡れてます。

 てかアンタは何を濡らしちゃったんだ? パンツか? アンタ変態か?


「そ、そうだね……」

「願わくば、直で嗅ぎたいものね。でも公衆の面前だから諦めるわ」

「? よく分かんないけど、うん、それがいいと思う」

「えぇ。豚男に何か言われる前に早く着てしまうわ」


 飯田くん、スリムな体型だと思うんだけどな。豚男なんだ。

 首を傾げつつ、僕のジャンパーに袖を通した彼女は、嬉しそうにはにかんだ。僕には何が嬉しいのか全く分からないけど、彼女が喜んでいるならそれでいいかと、納得することにした。

 ——決して、僕までもが嬉しく思うなんてことはない。断じて僕はそんな変態じゃないのだから。そう、断じて違う。


 ちなみに、教室に戻ってきた飯田くんと一悶着あって、再び飯田くんがトイレに駆け込んだのは余談である。







PS:更新遅れやしてごめんやしてごめんやし……。

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