第4話 汗に絡まる。ジャージに沈む。




 三限、体育。長距離走の測定。


「Fightユナちゃん!」

「柚菜っちがんばっ!」

「柚菜~あと少しだよ~!」

「秋夜頑張れー!」


 いつもの女子と、一部の男子達の声援と共にゴールラインを超えた秋夜さん。周囲が拍手して出迎えるが、記録が良かったわけじゃない。むしろ記録は九分とかなり低め。女子の千メートル走にしてはかなり遅い。というか、ダントツのラストランナーだった。

 ——なんかあるよね。ラストランナーには拍手が送られる風習。日本人っぽいな。


 ふらふらな彼女はその場に転がることはなく、周りに必死で笑いかけている。意地でも仮面を外すことはしないらしい。

 周りの女子が駆け寄って、口々に声をかける。


「大丈夫?」

「だいじょ、うぶ……はぁはぁはぁ……だいじょうぶ……」

「保健室に行った方が良くな~い?」

「いや……もんだい、はぁはぁ、ない……」

「秋夜は保健室に行け~。教師命令だ~」

「は、い……」


 秋夜さんのやせ我慢をしっかり見抜いた体育教師。ムキムキのごつい教師だが、実はかなり優しい。てか多分、僕がこれまで出会った人の中で一番誠実だと思う。

 いつも汗臭くて清潔ではないけど。


 秋夜さんは何故か苦々しい顔で返事をする。その理由はすぐに分かった。


「じゃあ秋夜、俺が保健室に運ぶから!」

「いいっ、から……はぁはぁはぁ……じ、ぶんで、いけます……」

「教師命令だ〜。連れてってもらえ~」

「よしっ、俺がっ――」


 なるほど、飯田くんの下心満杯のご提案があるからか。確か飯田くんは保健委員だったはず。だから秋夜さんはやせ我慢をして保健室に行きたがらなかったのか。——秋夜さん、飯田くんのこと嫌いなんだな。


 助けたいなって思った。秋夜さんが困ってるんだし、僕は今暇だし——


「好きだし。秋夜さんのこと」


 独り言にして、呟いてみる。めっちゃ恥ずかしかった。

 ただ、問題がいくつかあった。

 その一。僕は今、動きたくない。一歩も歩きたくない。動く歩道があるなら秋夜さんを保健室まで連れて行ってあげなくもないけど、あいにく校庭にそんなものはないのだ。


「これからすぐ男子の測定を始めるんだ。お前もスタートに並べ。付き添いは見学者の仕事だ。おいっ! 遠空!」

「うへぇあぃ……」


 上手く隠れたつもりだったんだけどなぁ……。

 その二。この校庭の端の木陰、とても快適なのである。

 完全に気配を消して木陰で涼んでいたというのに、僕にお鉢が回ってきた。——体育二連続見学だから目をつけられたのかな?


 僕はため息を一つ、息切れた彼女の元へ歩いて向かう。

 —―なんで見学なのかなんて、そんなの聞くなよ?

 一回目の握力検査ではその直前に突き指をして、今日は校庭に降りる階段で転けて足の親指を突き指して、それのせいで見学になったんだとか、聞くに堪えない答えが返ってくるだけだから。


 てか、怪我人に仕事を押し付ける教師の鬼畜さよ。ひどいったらありゃしない。何が聖人だ。この不潔な脳筋め。


「秋夜さん行くよ」

「はぁはぁ……世の、全て、死ね……」

「僕も秋夜さんも死ぬけど? いいの?」


 悪態をつく彼女に手を差し出して引っ張り上げる。——と、思っていた以上に軽くてたたらを踏む。足のつま先に力が入る。

 さて、僕は足の親指を突き指している。力を加えるととても痛い。

 もう一つ悪いことには、僕と秋夜さんは手を繋いでいて、しかも秋夜さんはフラフラ状態。


「うわぁっ!」

「ちょっ、なっ——!」


 どすん、と効果音を入れておこう。

 目を開けると、目の前には秋夜さんの顔がある。横を見れば、彼女の手は僕の手首を地面に押さえつけていて、まるで僕を押し倒したみたいになっている。

 ふわりといい匂いが降りてきて、彼女の熱が、水晶のような汗が落ちてくる。それが、彼女の熱で吹き出た僕の汗と混ざって、僕の頬を伝う。


「ご、ごめ——」

「……っ」


 耐えかねたように、苦しそうに顔を歪めて、秋夜さんがどすんと僕の体に落ちてきた。ずん、と体に衝撃が響く。

 髪が顔にかかって煩い。彼女の体温が直に伝わってきて暑い。

 粘性の高い汚れみたいに体に不快感がまとわりつく。なのに——離れたくない。一緒にいたい。


「ごめん、動けない……」

「あ、あぁ……うん……」


 秋夜さんが囁く。謝罪に中途半端に返答して、動かないようにする。

 耳元に、秋夜さんの熱い呼吸がかかる。息切れした彼女の体が僕の上でわずかに上下する。


 なぜか、息切れの合間に、声のない嬉しそうな笑い声が聞こえた。



 *



「意外や意外、秋夜さんって運動出来ないんだね。クラスの聖女は文武両道が普通だけど」

「……生来、蒲柳の質ほりゅうのしつなだけよ」


 秋夜さんの息切れは僕の奢りのスポドリのおかげで少し収まってきたようだ。その後は保健室の先生に彼女を任せようと思ったが、存外保健室の方が居心地いいので絶賛サボり中。

 ちなみに彼女は二人掛けソファーの上で仰向けに転がっている。その頭の方の一人掛けのソファーに腰を下ろし、僕はため息を吐いた。

 また難しい語彙を使ったな。えぇと蒲柳の質は……。あぁ思い出した。


「病弱ってことね。それ、スタミナのない言い訳にはならないよ」

「黙りなさい……このポンコツドジ……突き指捻挫野郎……痴漢」

「なっ……さっきのは事故だって秋夜さんが言ったじゃんか! もういい!」

「帰るの……?」


 前言撤回。保健室の居心地は最悪だ。

 そう席を立つと、誰かが寂しそうな柔らかい声を出した。

 聞きなれない声に体の動きが止まると、その声の主は短く続ける。


「……やだ」


 頭が考える前に体が勝手に動いて、時間を逆再生したみたいに僕の体はソファーに収まった。

 見れば、秋夜さんが僕を見て安堵したように笑っている。

 誰? 今のが、秋夜さんの声なの?


「何? そんなに僕と離れたくないわけ?」

「……まぁ」


 我に返ったようにそっぽ向いた秋夜さんが、さっきとは違う硬い声で答える。——聞き違いか? いや、声音は違えど今のは秋夜さんの声質で間違いない。

 からかってたようでもない。僕を詰ってたわけでもない。今のは……甘えてた? だとしたら、可愛すぎる。

 心臓が疼く。顔が赤くなりかける。


「でも、帰ってもいいわバカ」

「誰がバカだよバカ!」

「は〜い喧嘩しない。今は誰もいないけど、保健室では静かにね。

 秋夜さんは塩ラムネ食べて——遠空くんは……いる?」

「あ、お相伴に預かります。ごちです」

「ふふっ、どうぞ~」


 保健室の先生は融通の利く、柔らかい言い方をすればお茶目な方だ。

 悪戯っ気を含んだ声で僕に塩ラムネを見せた先生から塩ラムネを受け取る。秋夜さんは塩ラムネを光に透かしてじっと見つめていた。

 もらった塩ラムネを口に放り込んでから聞けば、曰く、食べさせろと。


「は?」

「私に、食べさせて……欲しいわ」

「まぁ、いいけど」

「ありがとう」


 なんでか聞こうとしたけど、素直にお礼を言われたので黙る。

 自分で封も開けられないのかと呆れつつ、彼女の口に塩ラムネを近づける。そのまま口の中に押し込んだ瞬間、柔らかい感触に指が包まれた。


 生々しい彼女の唇の感触。柔らかくて、暖かくて――

 目を見開いてパチクリしている秋夜さんを見て我に返り、慌てて彼女から離れる。


「ごめっ――!」

「…………」

「あら~どうかしたの~?」

「あ、いえ、なんでもっ、ないですっ」

「そう。ならいいわ~。二回目だけど静かにね~」

「あ、すいません……」


 保健室の先生に注意されてしまった。首をすくめて謝り、ついでにゴミをゴミ箱に投げ入れる。

 秋夜さんの方に見ると彼女と目が合う。その目の下は、真っ赤だ。

 数秒硬直した後、秋夜さんは寝返りを打って顔を背もたれの方に逃がした。恨みがましい声で言う。


「見るな……」

「ごめん。その、今のはわざとなんかじゃなくて——」

「許すから、ジャージ貸して」

「え?」

「目隠し。貸して。少し寝るわ」

「う、うん……」


 完全にいつも通り——ではないが、途切れ途切れの声で彼女はそう言った。今回ばかりは完全に僕が悪いと思ったので、素直にジャージを脱いで、彼女の顔の前に置く。

 彼女はそれをかき寄せて顔を埋め、ソファーの上で小さく丸まってしまう。


「……おやすみなさい。遠空くん」

「お、おやすみ……」


 突然、クールな彼女に名前でそう返されて、ドキッとしてしまう。初めて名前を呼ばれた。仮面の彼女には何回も名前を呼ばれたことあはるが、クールな彼女に名前で呼ばれるのは初めてのことだ。

 ヤバい……にやつきが止まりそうにない……。


 膝に肘をついて、真っ赤であろう顔を俯かせる。

 すると、ぽつりと囁くような声が聞こえた。


「ねぇ、好きって何のことだと思う?」

「……まだ寝てなかったんだ」

「私はね、こう考えるわ……」


 僕の言葉を無視して、彼女は続ける。そして、少しぎゅっと体を小さくして、僕のジャージのに顔を埋めて袖を弄ぶ。

 何故か、彼女の声は楽しげだった。


「その人のものだと思うと布は絹地のように、匂いは芳香のように脳を溶かしてしまう。そんな心の病のことだと、私は思うわ」

「……その報告に何の意味が?」


 聞きつつ、僕は席を立つ。流石にそろそろ戻らなくちゃ先生に怒られるし、いい加減さっきの恥ずかしさで顔から火が吹き出そうだ。

 ——別のことを考えよう。例えば今日の長距離走のこととか……あぁ、別日に僕だけ一人で走るのか。嫌だな。

 そんなことを考えていたせいだ。彼女の小くてくぐもった言葉は、僕に届くことはない。空耳に終わってしまう。


「……好きよ。それだけ……」

「ジャンパー、戻ってきたら返してね。じゃあ僕は戻るよ」

「ん」


 彼女は頭全体を僕のジャージで覆ってくぐもった声で返す。

 寝苦しくないのかな? と首を傾げるも、人様の自由だなと思い直して僕は保健室を出た。

 背中を追ってきた小さな声なんて、先ほどの呟きに増して聞こえるわけもない。気付くことすらない。


「バカ。私の、バカ……もっと聞こえるように言ってたら……」


 その後、秋夜さんが教室に戻ってきたのは四限が終わる頃だった。






PS:まだパターンが確立してなくて不安定です。ごめんなさい。十話までには手応えをつかみたいんだけど……。

 お星様とかフォローとか、いっぱいしてくれると嬉しいです。

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