蒸気機関車の管理者
ふと、目を開けると、夕陽が差込む殺風景な駅の光景があった。
人はいなかった。ただ、私だけが停留場に置かれている古ぼけたベンチに座り込んでいる。静寂に包まれた無人駅では、嫌な耳鳴りばかりが主張していた。
……何故私は此処にいるのだろうか。たしか、確か私は先程――、薬を飲み、布団に横になった筈だ。それにこのような駅、見覚えが無い。
夢遊病か? と考えていると、騒々しい音が辺りを支配する。列車だ。しかも古臭い機関車。路面電車が普及した東京に住む私としては只々煩く、煙臭いので不愉快でしかない。しかし、通り過ぎるのを望んでいた私の意思に反するかのように、停留場の前で列車はピタリと停まった。
……切符は持っていないが、どうぞ乗って下さいと言わんばかりに目の前で扉が開いているのだ、どうせ行く当ても無い。乗ってしまえ。
裸足で(どうやら靴を履かずに外に出てしまったようだ)そっと中へと足を踏み入れると、中々に豪奢な内装が待ち構えていた。万年貧乏文士である私からしたら手の届かない場所だ。手酷く摘み出されてしまうだろうかとヒヤヒヤしたものの、此処にも誰もいなかった。乗客も、切符を切る駅員すらいない。一体全体どうなっているのだ。
得体の知れぬこの場所に、漠然とした気味の悪さを覚えた。
しかし、友人からごちゃごちゃと考え過ぎだと揶揄される頭ではない何処かで、乗りかかった船ならぬ列車を今更降りるのは駄目だという考えがあった。
こうなったら行くところまで行こうと一等車と思わしき座り心地の良い座り心地の良い席に座る。同時に、列車はゆっくりと動き始めた。
もう後戻りが出来なくなった事で、逆にすっきりした。深く息を吐き出しつつ、夕日が沈み、硝子片を散りばめた様な星空が目立ち始めた外の景色を眺めていると、微かな足音が聞こえてくる。
目線を上へやると、そこには喪服姿の女が佇んでいる。トーク帽の長ったらしいヴェールによって顔は覗えないが、雰囲気からして妙齢の女性のようだ。
「向かい側、座ってもいいかな?」
まるで少年の様な言葉遣いと澄んだ声で紡がれた質問は、容姿と相まってチグハグな印象を私に与えた。
「……どうぞ?」
特に断る理由も無く、寧ろ此処の事について話し合えそうだと安堵しながら席を勧める。
トーク帽の彼女はありがとうと小さく礼を言い、向かい側に座った。そして、帽子をゆっくりと脱いだ。
……ヴェールの先から現れた顔は、少年的とも、女神を嫉妬させる美女だとも言える貌をしていた。つまり、『分からない』のだ。東洋人にも見える、西洋人とも言える。そんなチグハグさがある。只一つ、確かに言えるのは、目を見張るほど美しい、という事だけだ。
長年言葉を紡いで稼ぐという生活をしているというのに、目の前の彼女を描写出来ないもどかしさを抱きながら彼女へ視線をやると、彼女は穏やかな微笑を返してくれた。
「また会えてうれしいよ」
「は。……失礼、何処かでお会いしましたか?」
「あぁ、片手で数えるほどしか会ってないし、憶えていないのならいいや。けれど僕、先生のファンなんだ。こんなところで会えるなんて、嬉しいな」
「こんな訳の分からない場所で私のファンに会うとはな」
「うん、偶然だね。移動のつもりで乗っただけなのに、先生をお見かけできるなんて。新天地へ行く為の良い餞別になる」
「……この列車は何なのだね?」
「え? 知らずに乗ったのかい?」
ぱちりと目を瞬かせたものの、彼女は丁寧に説明してくれた。
「ここは新たな場所を求める者達が乗る列車――なのだけれど、少し前に管理者に捨てられてね。今は誰の指示も無く彷徨う無人列車。目的地が決められていないから利用者は殆どいないのさ。ただ、そのお陰で騒がしくないから、静かに旅をしたい者は利用している。僕も静かに移動したかったから、これに乗ったというわけ」
「私も、新たな場所を求めているという事か?」
「そうに決まっているじゃないか。まさか、家に帰るつもりだったのかい? そんな事をしたら、家族の皆が腰を抜かしてしまうよ」
変な先生。と彼女はクスクス笑った。
……何がおかしい? 私は貧乏人だが、家族を養う大黒柱なのだ、私がいないと皆が食いはぐれるというのに、失礼な奴め。
「良くない顔をしているね。もしかして、忘れたのかい?」
……忘れた? どういう事だ?
「その顔は忘れてしまっているって事だね。そうかぁ……。……うん。先生、空腹だろうし、何か美味しいものでも食べようか。そうしたら多少落ち着いて、思い出せるさ」
訳の分からぬ事を言う彼女に困惑している間に私は食堂車に連れて行かれ、そしてテーブル席に座らされた。
「無人の此処でどうやって食事を頼む気だ」
「『人』がいないだけで、乗務員はちゃんといるよ。此処のステーキはとても美味しいと評判なんだよ。食べてみて」
彼女の言葉の直後、はっとテーブルの方を見ると、鉄の皿の上で出来立ての温かさを保つビフステーキと、焼き立てと思わしき美しい色合いのパン、そして柘榴石のような赤が映える葡萄酒が入ったグラスが置かれていた。
彼女の方には、ステーキの代わりにシチュー・ド・ビフがある。……奇妙奇天烈な列車に乗ってしまったのだ。今更この程度の怪異、指摘する気にもならない。
「乾杯しようよ」
「……何に?」
「今回の出会いにさ。それから、新たな旅にも」
そのような振る舞いは好ましく思わなかったが、彼女がグラスを此方に向けてくるので、仕方なしにグラスを差し出す。すると、かちりと音が鳴った。
何処から湧いたのか分からない得体の知れぬ物を口にするのは、正直言って気が進まない。だが、空腹なのは彼女の言う通りだったので、一口だけ葡萄酒を飲むと……本来の私の生活では一生口に出来ないだろう芳醇な味がした。
そういえば、最近は生活費を稼ごうと躍起になっていて、ロクな物を口にしていなかった。と思い出した私は、贅沢な食事に少しだけ喜びを覚えながらも、食前の薬を飲み忘れている事に気付いた。確か懐に常備している筈だ。
「……どうしたの。慌てて懐を漁っているけれど、探し物? もしかして、今日の朝刊とか」
「何故そうなるんだ。薬だよ、食前に服用しなければ」
「そんなの、もう必要ないだろう?」
乾いた音と共に、彼女に突き付けられたのは大手新聞社の朝刊だった。日付は布団に横になった次の日である昭和■■年七月■■日。
………………そこには、何故か私の名前と写真が掲載されている。
そして、
『××氏 劇薬自殺を遂ぐ』
その見出しに、私の欠けていた『何か』。否、記憶にぴったりと収まった。そして、それがどの様なモノなのか理解し、これまで無意識に張っていた気が緩んだ私の体は背もたれへと寄りかかる。
あぁ、不調を感じないから、通りでおかしいとは思ったんだ。もう私は、この命は……、
「思い出した?」
「不本意だがな」
「本意じゃないと大変だよ。もう切符を持って乗車しているんだから」
「これに乗るには切符が必要なのか?」
「乗る資格がある人なら、皆持っているよ。先生だって乗れたのだから、持っているだろう?」
「……無いが?」
「えぇ?」
そんなはずないよ。ちゃんと隅々まで探したのかい? と尋ねてくるので、懐や袂などの考えられる場所を全て探すが、そのような物は何処にも見当たらない。
「切符が無いとどうなる?」
「次の行先が記してある物が無いという事は、降りる場所を自分で探さないと。一体どれだけかかるんだろうねぇ。千年で済めばいいけれど」
「何だと⁈ 今すぐ途中下車は出来ないのか」
「そこが先生の居場所とは限らないからね。居場所がなかった場合、一時的な滞在は可能だけど、ずっとはいられないよ」
…………なんて事だ。もう家に戻れない、次の行方も分からない。これでは根無し草だ。
「あはは。記憶だけじゃなくて、大事な切符まで落としてしまうなんて、先生は相変わらずうっかり屋さんだ」
「笑い事ではない! 根無し草など、洒落に――……待てよ。あるじゃないか、居場所は」
「一体何処に?」
「此処だ。寝泊りも可能なぐらい立派な内装で、食事も出る。生活するには充分だ」
「……この無人列車が、先生の居場所だって?」
「そうだ。管理者が捨てたのならば、私が拾う。今から私が此処の管理者だ」
「……っふ」
さて何を言われるかと身構えていたものの、彼女の笑い声によってそれは杞憂だったと思い知らされた。食事中にはしたないと注意したくなるぐらい、それはもう盛大に笑われた。
「何を笑っている。私は本気だ。此処に居座ってやる」
「だって、此処に居たがる人間なんて、先生が初めてだよ。ふふっ、まさかそんな、奇想天外な事を言うなんて! 新しい土地に行くより、先生に連れ立った方が面白そうだなぁ」
「君は切符を持っているんだろう?」
「そんな人間だけが持ち歩いてる不便で難解な代物、僕が持っているわけないよ」
「……つまり、君は人間ではないと?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「言ってないな」
「見た目は上手く人間に化けれているだろう? けど、老化っていうヤツは再現するのが難しくてね。二十年か三十年程度過ぎたら、こうやって定期的に移住しているんだ。まぁ、此処なら老化しない事を怪しむ心の狭い者なんて来ないし、いいかもね。この列車に移住するのも」
……得体の知れぬ蒸気機関車で、人外と鉄道旅。もし小説として雑誌に掲載されていたら、私は鼻で笑うだろう。それぐらいに馬鹿馬鹿しい話だというのに、事実なのだ。どうしようもないと溜息ばかりが零れ落ちる。
「あぁ、そろそろ次の駅に到着するよ」
窓の向こう側にあった星空は、東雲色へと塗り替えられ始めており、列車内に朝日が差込む。
大した時間は経っていないというのに、もう夜明けが訪れたらしい。空さえ常識が通用しないとは、まったく死後の世界とやらは馬鹿げた場所だ。
「見て。先生がいた東京とは全く違う世界だよ」
彼女が指差した、その先の光景は――――
Bon voyage チクタクケイ @ticktack_key
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