Bon voyage

チクタクケイ

手軽に素敵な旅

 世界は、数え切れないぐらい無数に存在している。それらを、異世界と称する者もいる。

 そんな世界の形について、こんな話を聞いた事がある。

 幾つもの世界が、サンドイッチのように重なり合っている。一番上には、最初から見えるパン部分。つまり自分が生まれ落ちた世界がある。来世へ向かったりする事で、その先をめくれて沢山の具が――、自分の知らない異世界が現れる。

 じゃあ、一番下には最初と代り映えのないパンがあるのかと、その話を教えてくれたお姉さんに尋ねた。すると、美しい彼女は、行けば分かると微笑んだ。

 数多の世界を旅してきた今でも、最深部の世界には辿り着いた事がないので、曖昧な答えの意味は分かっていない。





 興味深い教えをくれた女性との出会い。その追憶の夢から醒めると、私が乗車している古臭い蒸気機関車は、新たな世界に到着しようとしていた。

 ざぱざぱと、濁った水をかき分けていた汽車は、ゆっくりとスピードを落として停止する。天変地異で崩壊しかけている世界だと話には聞いていたけれど、酷い場所だ。大地が完全に汚水に侵食されている光景は、窓越しでも悲惨さが窺えた。

 レンズが大きい所為で、定期的に私の鼻からずり下がる銀縁の丸眼鏡を押し上げている間にも、赤鬼のように醜く膨らんだ土左衛門が水面に浮かびながら何処かへと流されていく。惨い、という月並みな言葉ばかりが頭に浮かぶ。

『西暦2153年 8月23日。大■■帝国、■■県■■市です。お出口は、左側です。お忘れ物が無いよう……特に、チケットは再発行不可能なので、決して紛失されないよう、ご注意下さい』

 アナウンスが終わったと同時に、私だけだった乗客が一気に増えた。今しがた乗り込んだ彼等は、外で起こっている洪水をもろに受けたらしく、濡れ鼠になっている。酷い臭いだ。申し訳ないが、口元をハンカチで押さえた。

《変わりゆく環境に適応する事が出来なかった文明は崩壊の一途を辿り、やがて世界規模の自然災害によって終末を迎えた。まるで、『創世記』における大洪水だ。しかし、ノアの方舟のような救済措置は一切無く、この世界の人類は皆等しく死を迎えた。その一部は、来世へと向かう為の汽車に乗り込んだ。》

 この世界における人類の結末を、愛用の手帳に書き込んでいる間に、新たな乗客達は無事に乗り込めたらしい。汽笛の音が終末世界に響き渡った。そして、汽車は線路どころか道すらない水面の上を進み、……ふわりと空に浮かんだ。

 しゅるしゅると遠ざかる地上は実に静かな様子だった。人類が滅亡したとは、とても思えない。それは周りの乗客達も同じらしく、自分の身に何が起こったのか理解していなかった。無意識のうちに此処に乗り込んだみたいだ。

 泣いたり、方舟の作り方を教えてくれなかった神に祈ったり、此処には乗らなかった自分の家族や恋人を探し求めている彼等はパニックに陥っている。取材したかったが、この錯乱状態じゃ到底無理だな。

 取材出来ないなら此処にいる意味は無い。よって、騒々しい客室から誰もいない食堂車へと移動した。

 適当なテーブル席に近付くと、何時の間にか私の後ろに控えていた給仕が椅子を引いた。この汽車はもう何度も利用しているので、今更乗務員の対応に驚きはしない。故に、私は特に気にせず椅子に腰掛け、無難な質問をする。

「本日のおすすめは?」

「『仔羊のシチューのパイ包み プロヴァンス風』だよ」

「じゃあそれで」

「かしこまりました」

 パチンと給仕が指を鳴らすと、瞬きの直後には美味しそうな料理がテーブルにセッティングされていた。

 ナイフとフォークを手に取り、平気で肉料理を食べ始めてしまう私は、既に倫理観が朽ち果ててしまっているのだろう。しかし、料理に罪は無い。何より私の胃袋は空腹だと嘆いている。

「うん、美味しい。此処のコックは相変わらず素晴らしい腕前だ」

「有難い言葉だね。料理長に伝えておくよ」

「……今回は、停泊しなかったんだね。一つ前の世界では数日滞在したのに」

「もうあんな場所、一億年ぐらい経たないと住めないからね。僕達は安住の地を見つける旅の為、この汽車を動かしているんだ。君みたいな物好きや、来世への旅に出る乗客を受け入れているのは、ついでに過ぎないよ」

 聡明な少年のような声色と、ロングスカートのメイド服が似合う淑女というチグハグな印象。それらによって神秘的とも言える不思議な雰囲気を纏う給仕は、私の向かい側の席に座る。此処の責任者に見られたら職務怠慢だと雷を落とすだろう。しかし、今は予定航路通りに進むために流暢に喋れるらしいこの汽車を説得している最中だ。責任者自慢の(皮肉塗れとも言う)饒舌さでも難航しているようだから、目撃される事はない。

 誰かに不法投棄されたのだというこの汽車は、不思議な事に人間のような自我があり、尚且つ気紛れ屋だ。給仕達が利用するようになるまでは、自由に様々な世界を彷徨っていたらしい。責任者が説得に苦労するのも仕方ないのだろう。

 私としては、空を飛んだり、世界を渡ったり、汽車が喋ったりする技術の詳細は気になる。しかし給仕達に黙秘権を行使され、更には汽車との対話を責任者に敢え無く却下されたので、未だ不明だ。

「給仕さん。今しがた乗った彼等は混乱しているよ。転生の旅は出来るのかい?」

「問題ないよ。汽車に揺られているうちに、自分のやるべき事を理解していくから。混乱するのは正常でごく普通な反応さ……。寧ろ、まだ半世紀すら生きてない生身の人間なのに、異世界の旅を題材にルポライターをしている君みたいな子の方が、レアケースだよ。どうしてそんな事をしているんだか」

「……それは安住の地を求めるキミもだろう」

 あまり、旅の理由は言いたくなかったので、適当に話題を逸らした。基本友好的な給仕はそれを察してくれたのか、追及はしてこなかった。

「僕は人間じゃないから。秘密主義なところがある君も、本当に人間かどうか怪しいけれどね」

「私は一応人間だよ。そういえば、キミって何歳なんだい?」

「一応、ねぇ? ……僕の年齢は…………さてね、数え忘れたよ……。多分、四十世紀分ぐらいかな」

「それはすごい。是非、キミの取材をしたいね」

「無理だね。三十五世紀分は大方忘れているから。残り五世紀はこれに乗って旅している分だから、君の体験と遜色ないよ」

「なんだ。つまらないな」

「酷いなぁ。探求心も程々にしてくれないと、此処を出禁にされるよ」

「この間、此処の責任者に言われたよ。『そのよく回る舌を引き千切られて外に放り出されたくなかったら、大人しく座っていろ』ってね」

「ほら見なさい。先生の怒りを買うなんて、中々出来ない事だというのに」

「おお、光栄だね」

「やれやれ。君みたいな子を乗せてくれる処なんて、見境なく受け入れている此処ぐらいしかないのだから、大人しくしないと困るのは君なんだよ」

「乗るモノがなくなったら、歩いて移動するだけさ。次にこれを降りたら、丁度そうする予定だしね」

「えぇ? 何処に行く気なの」

「○○国。今から行く進路とは全く違うだろう?」

「五年程揺られていたら、そっち方面に行くよ?」

「それだと夕食に間に合わない。折角良い旅館を予約出来たのに、冷めた飯なんて食べたくないよ」

「今も食べているのに、食い意地が張っているねぇ。それに、宿泊出来る此処に乗車しているのに、他の世界で予約したのかい? 君の放浪気質は筋金入りだね」

「生まれつきかもね。兎に角移動しないと不安になる」

 食事を平らげた後も給仕と世間話をしていると、汽車がまた停止する。さてと、降りなければ。

 食堂車を後にし、空色のハンチング帽を被り直しつつ歩いていると、此処の責任者による遠慮のない咳払いが隣で聞こえた。

「チケットの確認を済ませてから、お降り下さい」

 以前此処を利用した際は草臥れた様子の瘦せぎす男だったはずの責任者は、今では若々しい美青年になっている。給仕曰く、前世のいざこざから解放された事でストレスからも解放され、全盛期の姿へと若返ったらしい。

 そういえば、その事について責任者を質問攻めにしたお陰で前述のように怒らせたのだっけ。旅をしていると、こういう奇妙奇天烈な現象に遭遇するから、つい探求心を抑えられなくなってしまう。

「あぁ、すみません。はい、確認頼むよ」

 チケットと言えど、改札鋏を使う古臭い切符などの一回分使い切りタイプや、期限が決まっている定期券などの幾つかの世界を数回分行き来する事が出来るタイプ、そして私のチケットのような、半永久的に何処へでも行ける金属製のタグなど、人によって多種多様だ。何時から手元にあったのかは覚えていない。そういうモノだから。

「……チッ。何時見てもお前のチケットはむかつくな」

「耳にタコが出来そうな程にチケット紛失の注意喚起アナウンスしている本人がチケット失くした所為で、五世紀経っても自力で来世の世界探し回っているからってキレないでよ」

「僕の過失を丁寧に説明するな! 本当にむかつく奴だな……!」

「まぁまぁ、落ち着いてよ先生。君も、早くしないと気紛れ屋の汽車が出発してしまうよ」

 音もなく現れた給仕に促されたので、足早に降りようとしたものの、そういえばと一旦足を止めた。給仕に質問をするのを忘れていた。

「キミはチケットを所持せずとも自由に旅が出来る種族だと、同業者から聞いたのだけれど、どうして此処で給仕をやっているんだい?」

「ん? それはね、先生から沢山の事を学びたいし、先生が興味深いし……、尚且つ、僕は先生の事が案外好きなのかも」

「気持ち悪い。やめろ」

「えぇ、酷いなぁ」

 お似合いな気もするが、相性が悪いらしい彼等に手を振って私は下車した。直後、汽車はゆっくりと動き始める。

「……皆さん、良い旅を」

 窓から不安げに此方を見下ろしている乗客達にも、旅の無事を願いつつ手を振る。すると、彼等は少しだけ安堵した様子となり、手を振り返してくれた。

 やがて、汽車が過ぎ去る頃には、辺りは静かな空間となった。……降りた場所は、世界と呼べないぐらい曖昧で不安定な場所だった。

 同業者の間では、『世界の狭間』と呼ばれている場所だ。異世界の旅をする上で、必ず通過する処。真っ暗な空間が何処までも広がっているけれど、時たま世界に繋がる出入口がチラホラと見える。ロココ調の重厚な扉だったり、エトワール凱旋門のような立派な門だったり。或いは、ただぽっかり開いている穴だったり。この光景じゃ、数多の世界がサンドイッチ状になっているとはとても思えない。というか、旅をしている者達の大半は、サンドイッチの話を俗説として扱っているらしい。私は今だって信じているが。

「おや、久しい御仁だ」

 きぃきぃという軋んだ音と共に前方から現れたのは、紙芝居屋をしながら様々な世界を永く渡り歩いていたいが為に体を陶器製のお人形にしたという、とても珍しい境遇を持つ元人間だった。

 油を差した方がよさそうな自転車のブレーキを掛けた彼は、こんにちはと律儀に挨拶をしてくれた。無視して通り過ぎたって構わないのに。……いや、ダメだな。こういう所で彼の親しみやすさと、私の愛想の無さという差が浮き彫りになる。

「こんにちは紙芝居屋。今からどちらに?」

「□□国の京都にしばらく滞在しようかなぁと思っていたところだよ」

「へぇ。私と同じぐらい放浪しているキミが長期滞在なんて、珍しいな」

「なかなか面白い処でねぇ。君は行った事ある?」

「いや。けれど風の噂で聞いた事があるよ。何でも、人間と妖怪が共存しているらしいね」

「そうそう。どう? 君も行ってみない?」

「好奇心が刺激されるが、遠慮しておくよ。あそこはそこそこ治安が悪いらしいじゃないか。貧弱な私じゃ訪れるには危険だ。それに、今は夕食が最優先だしね。キミと私の目的地は逆方向だよ」

「そっかぁ。紹介したい子がいたのだけれど、それじゃ仕方ないか」

 少しだけ残念そうな様子を見せた紙芝居屋は、良い旅をと言い残して去って行く。モンスターや妖怪が好きだからと、そういう存在がいる世界ばかり訪れているのは相変わらずみたいだ。

 そして、再び一人となった私は、静かな空間の中を早歩きで進む。

 そうだ、夕食の献立は何だろう。海の幸が自慢だと仲居は言っていた。向こうは秋の終わりだから、きっと出てくるのは、うまはげ、アカムツ、カンパチにあんこう……と想像を繰り広げ、頬の筋肉がつい緩んでしまう。

「幸せそうな顔だね」

「えっ⁈」

 にこにこ笑う男がすぐ側にいるというのに、全く気配に気付く事が出来なかった。金の耳飾りをきらきら揺らす様は、身元が分からない彼に神秘的な空気を纏わせている。

 給仕と似た独特の雰囲気を持つ男に一瞬怯んだものの、光が殆ど無い中でも輝いている金のアクセサリーを大量に身に着けているという特徴によって、一つの心当たりに辿り着いた。

「もしかして、『旅人』さん、ですか」

「おや? 僕の事を知っているのか」

「えぇ。同業者の中でも長く旅を続けていて、多くの偉業を成し遂げた凄い方だとお聞きしています」

「凄いだなんて、照れるな。そういう君は、ルポライターなんだって? 知り合いが良い文を書くって絶賛していたから、一度会ってみたかったんだ」

「それは……恐縮です」

「僕も記録の為に書きたいと常々思っているのだけれどね。周りには不評なんだ。人に見せる必要があるから、自分の好きなように書き過ぎるのは良くないと理解してはいるけれど……、どうも上手くいかなくて。君の才は、僕からしたら神様からの贈り物のように素敵だよ。恐縮だなんてとんでもない」

 大人気アイドルとアマチュアライターぐらい知名度と能力の差があるのに、そんなに褒められても居心地が悪い。

「ははは……。私の文を絶賛されたお知り合いとは一体誰ですか」

「あぁ、それは――」

 旅人さんが教えてくれた名前は、私を驚かすには十分だった。だって、それは私にサンドイッチの話を教えてくれたお姉さんの名前なのだから。臙脂色のマフラーと柔らかなスエードの手袋が似合う彼女は、今頃何をしているのだろう。この出入口だらけの空間でばったり居合わせた時と変わらず、マフラーを靡かせながら颯爽と世界を渡り歩いているのだろうか。

 そう思うと、一度会ったきりの彼女について、つい旅人さんを質問してしまう。しかし、彼は嫌な顔一つせず、丁寧に答えてくれた。

「彼女とは、幾つかの世界について情報交換し合っているんだ。一年前からの関係だから、あの子については僕にもまだ分からない事だらけだよ。今は……この間、最深部の世界に行ったから、そこだろうね」

「最深部⁉ やっぱりあの話は本当なんだ……! ……どうすれば、そこに行けるんですか! 私、どうしても最深部の世界を知りたいんです!」

「え。あそこは行くための条件が面倒だから、あまりお勧めは――」

「旅人さんのお姉様にもし会ったら、貴方が不親切だったってチクりますよ!」

「え……っ、何故姉さんを話題に⁉」

 『え』に濁点が付きそうなぐらい驚愕を露わにした旅人さん。聞いた通り効果は抜群みたいだ。

「『油断ならない人だけど、有能であるのは確かだから。困った時に頼ると良い。言う事を聞かないのなら、身内ネタで強請れ。姉を話題に出すと尚良い』と教えてもらったので!」

「そんな事を教えたのは、丁度話題になっているあの子だろう⁈ あぁもう、お節介焼きも大概にしてほしい――」

「教えてくれますね⁉」

 旅人さんは少しばかり戸惑いを見せたものの、それでも首を横に振った。

「こればかりは教えられないよ。あの子にも教えてもらわなかったんだろう? 彼女のお節介を無下にするわけにはいかないよ」

「彼女は、行けば分かると言いました」

「あー……、……まぁこれぐらいはいいか。君、サンタクロースは信じていた?」

「へ? まぁ、子どもの頃は信じているモノだろうけど……」

「最深部の世界はそんなモノなんだよ。信じるのは自由。幻だと思ってもいい。蓋を開けても、人によっては何の変哲もない場所に過ぎないのかもしれない。或いは楽園か、地獄か……。だからこそ、あそこは人の手を借りず、自分の足で行って、自分の目で確認するべきなんだ。だからこそあの子は君にそう言った。ならば僕だって、何も言う気はないよ」

 ……そうか。給仕や旅人さんをお釈迦様と例えるなら、お姉さんは聖女のような人だった。それぐらい、親切にしてくれた。あの曖昧な答えさえ、彼女なりの親切心によるものか。

 彼女の優しさが今になって身に沁み、鼻を啜っていると、旅人さんが小さく唸り声を上げた。

「ペラペラ喋ったら、今度あの子に会った時に怒られそうだけど……。僕はどちらかと言えば教えたがりなんだ。まぁ蛇足として聞いてくれ。……もう少し旅を続けるといい。君のチケットなら必ず、最深部に行けるさ」

「え……⁈」

「ところで! 紙芝居屋というヤツを知っているかな。彼の体の作成者から伝言を預かっているのだけれど、見つからなくて」

「か、紙芝居屋なら、貴方と遭遇する前に会話しましたけど……。□□国の京都に行くって言ってました」

「おっと……。困ったヤツだな。メンテナンスに来いと言われているのに、よりによって内戦真っ只中の京都に行くとは。作成者に怒られるのは僕だというのに…………っと、こうしちゃいられない。すぐに駆け付けないと不味い事態になりそうだ」

 ぐちぐちと呟いていた旅人さんは、紙芝居屋が向かった方へ歩こうとする。えっ? いや、待て待て。

「徒歩で□□国なんて、二十年はかかりますよ。せめて、乗り物を利用した方が……」

「問題無いよ。僕ならね」

 彼が振り返った事によって、アクセサリーと共に輝くのは、アウイナイトのような瞳。鮮やかなコバルトブルーの奥にある瞳孔は、よく見れば細長い。

 先程の会話でしょうもない強請りを掛けていたぐらいには、彼に親しみを持っていたはずなのに。今は、畏怖するべき存在に遭遇してしまったかのような気分だ。無意識のうちに震えていた手を握り締め、叫んでしまいそうになるのをどうにか抑える。

「それじゃあ。素敵な帽子と眼鏡を着けたお嬢さん、良い旅を。何処かの世界でまた会おう」

「……良い旅を」

 旅人さんの姿が暗闇に飲み込まれても、私は足を動かす事が出来なかった。シングルモンクを履いた彼の足音が聞こえなくなってから漸く、呼吸が正常に行われた。

 全力疾走した後のように心臓が煩いのを深呼吸で整え、前を向く。すると、松が描かれた襖がいつの間にか存在していた。

 開けた先は、山陰地方の片隅にある旅館の客室だった。私がチェックインした部屋だ。体感としては一年ぐらい旅をしていたのだが、この世界では三十分しか経っていない。無事に夕食前に戻れたから、今回はこの無茶苦茶な時間経過が寧ろ助かったが。

 ショートブーツを脱いで部屋に入ると、襖は独りでに閉じる。開け直してみても、その先には何の変哲もない廊下があるばかり。何者かに早く帰れと急かされた気分になる襖だ。

 まるで、この世界が――或いは、旅人さんがこれ以上の旅は暫く控えておけと、警告しているかのようだ。ま、数日経ったらまた行くが。

 旅の疲労を押し流したくて、息を吸い込む。海沿いの旅館だからか、微かに磯の香りがする。そういえば、崩壊した世界の住人達も、ドブ臭さの中で僅かに海の香りがしたな。

 ……よし、決めた。次の目的地は、海が綺麗な処にしよう。そうだな……、人は多過ぎず、少な過ぎず。そして緑が豊かな島にしよう。うん、そうしよう。

「あら⁉ お客様、先程お出掛けになられたばかりなのに、もう戻られたんですか?」

 偶然通りがかった女将が、廊下に突っ立っている私にそんな事を尋ねてくる。なので私は、簡潔に答えた。


「便利なチケットを持っているからね。手軽に素敵な旅が出来るのさ」

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