第34話 学生時代の家、研修医になってからの家
医学部生活を過ごしたアパートはとても気に入っていたのだが、広さと安さで選んだので、確かに建物は古くいろいろ不便なことがあった。まず困ったのは、(悪い意味で)季節感あふれる建物だったということである。枕草子もさもありなん、という体たらくであった。
「春はあけぼの」ではなく、春はシロアリであった。シロアリが天井からパラパラと降ってくることと、羽化した羽アリがたくさん出てくることに悩まされた。お風呂場には毎日たくさんの羽アリの羽が落ちており、寝ているときに、天井から降ってきた白アリが顔の上や耳の穴に落ちてきたらどうしよう、と気が気ではなかった。前述したと思うが、浴室はおそらく建て増ししたものと思われ、6畳の部屋の風呂側の透明なガラスが入った欄間から、風呂場の建物の木材が丸見えであった。妻が引越ししてすぐの時、カビ予防のために浴室の壁に熱いお湯をかけたところ、多量のシロアリが湧き出してきた。お風呂の入り口の柱にもたくさんアリがついていたが、何より、そのガラスの向こうで無数のアリがウジャウジャしており、夫婦二人で「ギャーッ!」と叫んでしまった。お風呂の入り口のアリは掃除機で吸い取ったが、ガラスの向こうのアリには何もできず、恐れおののきながら、夜、床に就いたことは今でも印象に残っている。
「夏は夜」というわけではなく、名前を口に出すのも嫌なので頭文字だけ表すが、立派に成長したGがあちこちを走り回る。殺虫剤をかけるのは薬剤耐性Gを増やすだけなので、ほとんどの場合、物理的に戦うことにしていた。最初は丸めた新聞紙やスリッパで戦っていたが、どちらも命中率は高くない。丸めた新聞は接触面積が小さいので逃げられやすく、スリッパは安物を使っていたので、気合を入れて振り下ろすと真ん中で折れてしまい役に立たない。物理的に戦う武器として最も役に立ったのは、100円ショップで買った「ハエたたき」であった。当然、それを目的に作られているのだから、非常に的確に敵を叩くことができる。敵を倒した後は、ティッシュペーパーを数枚手にとって、現場を直視しないようにしながら残骸をふき取り、最後にアルコールを吹きかけてよく拭いて戦いが終了となる。
ハエたたきといえば、ハエそのものにも一度ひどい目にあったことがある。1年生の時に、三角コーナーに生ごみを残したまま登校したことがあった。その時にハエが一匹家にいたのに気が付いたのだが、そのまま家を出てしまったのが運の尽きであった。帰宅して、まず生ごみの片づけをしようとしたところ、そこには無数の幼虫(いわゆる”uji”)がこれまたウジャウジャといた。幼虫にはキンチョールのような噴霧式の殺虫剤は効果がない。しかも今にも三角コーナーをはい出しそうな勢いであった。大急ぎで鍋で湯を沸かし、熱湯を上からかけて、ほとんどの敵をせん滅した。この時も、三角コーナーを見た瞬間に「ギャーッ!」と叫んでしまった。それ以降、私はハエとGは見つけ次第必ず成敗することを決意したのであった。結婚して妻と生活するようになると、そんなに頻回にGに出現されてはたまらない!とのことで市販の毒餌を置くようになった。効果は劇的でほとんどGを見なくなったが、シーズン前に置いた毒餌が、季節が終わり掃除をするときに回収すると結構食べられており、やはりそれなりに見えないところにいるのだ、と恐ろしかった。
夏から秋にかけてのGとの戦いが終わると、昆虫との戦いは一旦落ち着くのだが、「冬はつとめて」なんて優雅なことを言う余裕はなく、今度は隙間風との戦いとなる(ただ、個人的には冬の早朝は凛として好きだ)。
私はあまり気にしてなかったのだが、結婚前に一度、真冬に滝口君を家に泊めたことがある。翌朝、彼には本当に寒く感じたのだろう、
「保谷さん、寒いです。部屋の中なのに吐く息が白いですよ。暖房をつけましょうよ」
と言われる始末。彼は優しくて、
「もし灯油を買うお金がなかったら、言ってくださいね」
と言ってくれた。余程寒かったに違いない。一人暮らしの時の冬は、熱いお風呂に入って体を温め、風呂から上がるとすぐに布団に入って勉強。そのまま寝落ちして、朝目が覚める、ということをしていた。結婚してからも、夫婦二人とも、貧乏人の子供であること(子供のころから、朝起きると、家の中でも吐く息は白かったのである)、北海道の様に命を奪うほどの寒さではないことから、あまり寒さを問題にはしていなかった。電気量販店で特価1万円で買ったファンヒーターと炬燵で冬を過ごしていた。灯油代がもったいないので、ファンヒーターをつけるのは早朝のみ、後は炬燵か布団であった。
この街は平成5年8月にひどい水害に見舞われた。家のすぐそばに「新川」という名前の川が流れていた。家の契約をするときに
「ここは8.6水害で水につかりましたか?」
と確認し、大丈夫でした、と聞いていたのだが、おそらく浸水被害を受けたのだろう。
理由の一つは新川が、ある程度強い雨が降るたびにあふれんばかりに増水(この川の200mほど上流の集落では実際によく溢れていた)すること、それともう一つ、居室内の「カビ」であった。
入居時に、畳に生えたアオカビの話を覚えておられるかと思うが、その後畳にカビは生えなかったものの、革製品、ビデオテープなどいろいろなものがカビにやられてしまった。ビデオテープにカビが生えるとは全く知らなかった。なけなしのお小遣いを集めて買ったビートルズのビデオテープ、すっかりテープがカビてしまい、再生すると再生ヘッドがカビで汚れてビデオデッキがこわれてしまったことがある。もちろん、そのビデオビデオデッキもゴミ箱行き(泣)。また、お気に入りの革ジャン、冬になるとバイクに乗るときに温かくて良かったのだが、これもすっかりカビてしまった。冬になるたびに、アルコールを吹いてカビをふき取り、革製品用のクリームで手入れをして使っていたのだが、結婚後、妻から「そんなカビだらけの革ジャン、捨てなさい!」と言われ、泣く泣く捨てた(倒産セールで超特価、と札がついていても49800円だったこと、実際に柔らかくて、しかもしっかりした保温力だったので、本当に良いものだったのだろうと思う)。しばらくすると、妻のスタジアムジャンパーに使われていた革の部分にもカビが生えてきた。隙間風が吹きすさぶほどの換気のいい部屋なのだが、カビにはとことん参った。
また、1階なのに、雨が降ると雨漏りがする部屋だった(何で?)。おかげで、買ったばっかりの高い教科書が雨漏りで濡れてバリバリになってしまい、涙が出そうになった。雨が降るたびに、風呂場から洗面器をもってきて、雨漏りの下に置いておく、常に天気を気にする必要がある家でもあった。
さらに、大家さんに
「屋外にTVアンテナを立てないで」
と言われたので、室内アンテナでTVを見ざるを得ず、そのころはテレビっ子だった私には非常につらいものだった。新川の向こうは崖になっていて、崖の上にテレビ朝日系のテレビ局のアンテナが立っていたので、テレビ朝日系の番組はとてもクリアに見ることができるのだが、他のチャンネルは画面がザラついてきれいに映らない。しかもそれぞれの局によって、微妙にアンテナの角度を変えたりする必要があり、非常に手間がかかった。
そして一番困ったことが、「ブレーカーが大家さんのお宅にある」ということであった。もともと1軒の家を区切ってアパートにしたのだろう、という推測の根拠の一つがここである。しかも、電気容量が少ないので、同時に電気をたくさん使う電気器具を使うとすぐにブレーカーが落ちるのだ。しかもブレーカーが大家さんの家にあるので、自分たちには手出しができない。しかも大家さんは日中お仕事をされており、変な時間にブレーカーが落ちれば、大家さんがお帰りになるまで、電気のない生活を強いられることになる。例えば夏、テレビを見ながら冷房をつけるのはOK、しかしそれと同時に炊飯器を使うとOUT、テレビを見ながら電子レンジを使うのはOKだが、電子レンジと冷房を同時に使うとOUT、炬燵に入ってテレビを見るのはOK、炬燵と電子レンジを同時に使うとOUT、という具合である。とにかく、電子レンジと、冷房が鬼門であった。妻と二人暮らしの時も、何度かブレーカーを落としてしまい、困ったことがあった。
そんなこんなで、懐かしくも困った学生時代の自宅であったが、夫婦二人で楽しく過ごしていた。そして、私が就職すると、病院側が家族用の借り上げ社宅を用意してくれた。築10年ほどのマンションの一室だったが、これまでの家との違いに大変驚いた。
まず入り口がオートロックである。学生時代の玄関は、大きなガラスのついたドアで、悪い人が侵入しようとしたら簡単にガラスを割って入られてしまうような玄関であったが、玄関につく前にまずゲートがある。これだけで妻と二人大いに驚き、
「えぇ、こんな所に住んでもいいの?」
と思ってしまった。しかもエレベーターまでついている。部屋の鍵(もちろんダブルロック)を開けると、まぁ、言ってしまえば普通のマンションなのだが、先に述べたとおりの部屋で暮らしていた二人なので、
「本当に、ここに住ませてもらっていいのですか??」
と不安になるほどだった。部屋の広さは3LDKと広く、炬燵と電子レンジを同時に使って、ご飯を炊きながらテレビを見ていてもブレーカーが落ちない。住んでいる間、一度もブレーカーが落ちたことはなかったが、ブレーカーがもし落ちても、大家さんにお願いしなくても自分で上げればよい。天井から虫は降ってこないしGも見かけない。マンションはその上下にも家があるから、隙間風も吹かないし、冬も暖房なしでそれなりに暖かい。雨漏りもしない。テレビの移りもすごくよくなった(その代わり、テレビを見る時間が無くなった(泣))。しかも職場まで徒歩2分、交通は2路線と接続。普通のマンションといえばそれまでなのだが、学生時代の住居とあまりの違いに、夫婦二人言葉を失うほどだった。
私のわがままで、妻は7月まで仕事の残務処理などで、あの家に残ることになり、私はしばらくの間、一人でこの部屋で過ごした、といっても、本編に述べるように3日に1回は当直で不在、平日も昼間は不在、帰宅すれば寝るだけの生活だった。
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