第26話 病院見学と就職先
学年が上がってくると、自分がどこで初期研修を受けるべきか、ということが気になってくる。以前は、母校の医局に属する、というのが王道であったが、私はその王道を進む気はあまりなかった。理由の一つは初期臨床研修必修化となり、診療科の枠を超えたスーパーローテーションとなるので、大学はこれまでそのような体制をとっておらず、以前からスーパーローテーション研修を行なってノウハウを持っている市中病院に行きたいと考えたこと、もう一つは、私自身が医学研究科博士課程を中退して医学部に入学したので、大学医局に所属すると求められる、研究をして博士号を取って、ということに意義を感じなかったこと。さらに加えるなら結婚もしているので、とにかく研修医であっても正社員の地位をもらえて、コンスタントにお給料をいただけるところがよい、と思っていた。
初めて病院見学に訪れたのは4年次から5年次に上がるときに、久留米にある某有名研修病院であった。1泊2日で、友人4人でお世話になった。非常にきれいな病院で、私たち医学生にも様々なことを指導していただき、非常に新鮮であったことを覚えている。ERでは先生方が颯爽と働いておられて、次々に搬送されている救急車の患者さんを診察し、検査をしていく姿を見て、それが数年後の自分たちの姿になるとは思えないほどであった。見学の終わりころに、
「君たち、麻疹のワクチンを打っているかい?」
と問われ、ワクチンを打っている者、私の様にワクチンの普及していない時代に育ち、実際に麻疹にかかったことがある者と、全員が抗体を持っている(はず)と答えたところ、もうあまり診ないから、しっかり診ておきなさい、と、小児科に来院していた麻疹の患者さんの診察に同席させていただいた。Koplik斑、皮疹の様子を診せていただいたのは勉強になった(しかし、後期研修医時代に見逃したことは別編で)。
その後も、長期の休み期間には病院見学を行なった。福岡市内の民医連系病院、ここは患者さんの診察の時に
「今日はどぎゃんとしたとですか?」
と地域の言葉で問診が開始され、ものすごく地域性を感じた(もちろん良い意味で)。
以前に書いたように、就職の時はこの街を離れることを考えていた。地元で希望の病院をネットで確認したが、初期研修医を受け入れる、ということに前向きなホームページの記載をしている病院はその頃は少なかった。今はいずれもたくさんの初期研修医を受け入れ、自分たちの病院で研修医を育てている病院となっているが、某A病院は2年間の初期研修後は某大学の医局に所属することを条件としていた。某市民病院は、関連大学の研修医を中心に受け入れる、とのことで自院での募集は行なっていなかった。同じ市にあるS-S病院は初期研修医の募集、見学についてはホームページで全く記載がなく、どこにお願いしてよいのかわからなかった。なので総務部あてに病院見学のお願いの葉書を送付したのだが、残念なことに返信は返ってこなかった(ここが1番お世話になりたかった病院だったのだが)。そんなわけで、希望とする数か所にメールやはがきを送り、病院見学をお願いしたところ、淀谷神の愛病院と、某市の山の手にある、結核療養所から始まった岡付療養所病院が見学を受け入れてくださった。淀谷神の愛病院は、亡くなった実父が一時透析などで通院していたことがあるため親近感を持っており、以前からスーパーローテーション型の臨床研修を受け入れていた実績もあるので、この病院にお世話になるのがいいのかなぁ、と期待していた。
ところがである。見学開始直後に院内でコードブルーが発生、たくさんの先生方、コメディカルの方が集まり、懸命に蘇生をしながら患者さんをCT室に連れてきた。どうも経過からはSAH(くも膜下出血)が疑わしいようだった。たまたまその場にいた僕たち見学の学生3人(それぞれ別の大学から来ていて、お互い面識はない)も、CT操作室の片隅で小さくなりながら、その成り行きを邪魔にならないように静かに見学させてもらっていた。CT操作室はたくさんの人が集まり、何重にも人が重なっていたのだが、突然、私たちの前におられた先生(若い先生だったので、初期研修医か、後期研修医だったのかもしれない)が、私たちに
「君ら、ここにおったら邪魔やから、どっか別のところに行って」
と突き放すようにおっしゃった。この言葉を聞いて、
「あぁ、ここの病院に来るのはやめよう」
と思った。
というのは、その言葉には、未来の後輩を育てようとする気概が全く感じられなかったからである。おそらく、その先生は、自分より若手の初期研修医、後期研修医にも同じような態度をとるんだろうなぁ、と思ったからである。
後日談ではあるが、私が初期・後期研修をした病院の副研修委員長が、この病院の研修委員長とお話をされた時に、淀谷神の愛病院の先生は
「学業成績のいい研修医はたくさん来るんだけど、ここは地域的には野戦病院だから、兵隊となる研修医がいないんだよ」
と嘆いていたそうだ。副研修委員長は
「うちの研修医はみんな、バラエティに富んだ兵隊たちですよ。頭の中がHarrison(世界的に有名な内科学の教科書名)の奴から、頭の中が筋肉の奴まで、みんな立派な兵隊に育ちましたよ」と伝え、
「うらやましいねぇ」
と言われたとのことだった。
もう一か所の、某市山の手にある岡付療養所病院は、結核療養所から始まっており、呼吸器内科と血液内科に強みを持つ総合病院であった。この病院は非常に教育的で、おもに消化器内科を中心に研修させていただいた。穏やかな雰囲気もあり
「あぁ、この病院での研修はいいかもしれない」
と感じた。就職先候補とさせていただき、6年次のクリニカル・クラークシップでもお世話になった。
後は民医連系の総合病院、そして本編で出てくる樫沢総合病院と、その時は「ついでに」と思って見学を申し込んだ九田記念病院にもお世話になった。
この後の話は、本編に書いてあるので省略させてもらう。
地域の中核となる二次医療機関には必ず臨床能力の高い医師がおられ、その方の臨床能力のおかげで、良い医療が提供できている、というのが私の持論である。前述の民医連系総合病院はO先生、そして樫沢総合病院にはK先生(この先生は穏やかな感じだが、エビデンスと経験の両方で議論ができる先生)、そして今回の九田記念病院でお世話になった狩野先生(この方はK先生とは印象は異なるが、やはり豊富な経験とエビデンスに基づいて議論のできる先生)がおられ、どの先生にも感銘を受けた。
九田記念病院では、初日の日中はブラック内科を、その夜にはER当直を見学させてもらった。日中のERは後期研修医の岸村先生と、こわもて風の香田先生が守っておられた。香田先生はのちにわかるのだが、普段の粗野な言動とは異なり、大変な勉強家で、読書家でもあられるのだが、初対面でそんなことはわかるはずもなく、挨拶も早々に、こわもて風の香田先生からぶっきらぼうに
「お前、腸閉塞について知ってること言うてみぃ」
と問われ、一生懸命言葉を探した。診断法、治療方針などについても問われ、冷や汗をかきながら、一生懸命回答した。まるで口頭試問である。一応合格点はもらえたようで、
「治療の中では抗生剤よりも水の管理がより大事からなぁ。まぁ、勉強できる奴は、あんまり現場では役に立てへんからなぁ」
と言い残して去って行かれた。この言葉もすごく心に残って(一種のトラウマ?)一生懸命修行して、身体の動く医者になろうと頑張って研修を受けた。数年後に香田先生にこの時の話をしてみると、
「わし、そんなこと言うたかなぁ?」
と全く覚えておられなかった。
さて、夜のERで頭痛、発熱を主訴に受診された60代の方。当時3年目の白井先生が診察された後、私に聞いてきた。
「この患者さん、腰椎穿刺した方がいいと思う?」と。
身体診察では体温37.8度、項部硬直なし、咽頭発赤なし。胸腹部に所見なし。症状は頭痛、嘔気とのこと。
「項部硬直もないし、発熱も高くないみたいですね。あまり髄膜炎らしくないと思います」
と白井先生にお答えした。白井先生は
「ほーちゃんが『やめとく』っていうから、腰椎先生は止めとこう~っと♡」
とのこと。「え~~っ!マジですか??!」と驚いてしまった。とりあえず白井先生は、鎮痛解熱薬を処方し患者さんをいったん帰宅、調子が悪かったら再診するよう伝えておられた。
ERは24時まで見学させてもらい、「もう後は明日に備えて寝ておいていいよ」とのことで休ませてもらった。
翌朝、白井先生から
「ほーちゃんが昨日、『腰椎穿刺しない』といった人、夜中にもう一度受診したよ。腰椎穿刺したら、単核球優位の白血球増多、タンパク増加、糖の減少があったよ。もしかしたら結核性髄膜炎かもしれないよ」
とのこと。
あ~~っ!まだ医者になっていないのに誤診だ!
このことも今でも心に残っている。たぶん白井先生は、患者さんの不自然な重篤感を感じたのだろう。私自身が患者さんの顔を診ていないので、診断は困難なのは当たり前だ、というのは今になって思う。髄膜炎の診断、特に腰椎穿刺に踏み込むかどうか、ということについては、今でも確信が持てない。「髄膜刺激症状があり、可能性が極めて高い」と考えて、急性期病院に紹介しても「髄液は正常」ということも多く、後期研修医時代に経験した「陳旧性のSAHが疑わしい」と思った腰椎穿刺で髄膜炎が分かったりなど、今でも髄膜炎の診断は本当に難しい。
翌日の外科の見学では、外科部長がお休みだったため、非常に穏やかな研修となった。胃切徐の手術に入らせてもらったのだが、飄々とした村野医長と、論理的で力強い堀口先生が一緒になって手術をされていた。どちらの先生もグループの誇るTST(本編ご参照ください)で研修をうけ、どちらもチーフレジデント経験者で、実力のある先生方であった。堀口先生は数年後に、グループ病院の外科部長として栄転され、飄々とした村野先生も、現在九田記念病院の外科部長をされている。村野先生は、
「眠れなかったから午前4時から回診していた」
などと伝説を持っておられるが、やはり素晴らしく実力のある方であった。
私が後期研修中の話であるが、私がER当直中に、
「工場で仕事中に金属棒が飛んできて腕に突き刺さり、金属棒を抜いたら、傷口から血液が噴き出した」
との主訴で、受付をすっ飛ばし救急車入り口から患者さんが入ってきたことがあった(ちなみに、身体に何か刺さったら、抜かずにそのまま来院してください)。傷口の確認をしようとすると患者さんが
「それはまずいです」
というので、
「そこをなんとか」
と言って圧迫していた指を外すと、まさしく血液がビューっと噴き出した。金属棒は見事に上腕動脈を貫いたようであった。心臓血管外科はその日はon callの日で、たまたま通りかかった村野先生にコンサルト。お話を聞いてくださり
「OK! 血管用の拡大鏡をとってくるからちょっと待ってて。もうERで処置するよ」
とのこと。先生が戻ってこられるとERの無影灯をつけて、マンシェットで駆血をして処置開始。助手に初期研修医と看護師さん1人ついてもらったが、20分ほどで、上腕動脈の血管損傷の修復(血管損傷の修復は、適切に行わないと血栓を作るので高い技術がいる。上腕動脈はバイパスする血管がないので、血栓を作るとその先の腕が壊死してしまうので、絶対に失敗できない)と、他の筋肉、神経などに損傷がないことを確認、創の洗浄、縫合と破傷風トキソイドを接種して処置終了。
「あとは僕の外来でfollowするから、次の外来予約しといてね」
と言って飄々と去って行かれたのを覚えている。
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