第22話 大学祭の主幹学年として(血尿を出して倒れた私)

 本学とはキャンパスが離れている医学部、歯学部は本学の大学祭とは別に、医学部・歯学部キャンパスで学園祭を行なっていた。主幹学年は4年次、サポート学年として3年次が核となって、学園祭を行なっていた。


 私たちが3年生の時は、特別テーマが「遺伝子」であった。特別テーマの4年次担当は同学年首席の祝薗さん(この方も再入学組だった)、3年次の担当は私だった。二人を中心に4年次、3年次のメンバーで展示内容を話し合った。僕は、医学修士の同期で、発生学を研究していた友人にお願いし、ショウジョウバエの幼虫を分けてもらい、“polytene chromosome”を展示することにした。


 多くの医学校では当時、大学祭の時に「臓器展」が行われていることが多かった。解剖学教室に保管されている各臓器を展示すると同時に、その臓器の構造と機能を発表することが行われていた。


 3年次の大学祭は無事終了した、と思ったのだが、その後、某新聞社から、

 「『人体臓器展』を行なうことの問題点」

 として、我々の大学祭を批判する記事が記載された。確かに批判の一部は正しい。展示された臓器を提供された方、あるいはその家族に「臓器の展示」という行為に対して同意は取っているのか、など、当然臓器をいただいた時代にはなかった形で人権意識が進んでいたのは確かであった。ただし、大学側に何のアナウンスもなく、大きな新聞社が私たちの大学祭をバッサリと袈裟切りにしたことは、大きなダメージだった。その記事に呼応して、複数の方から、大学への批判が届いた。


 私たちが大学祭の主幹学年として動き始める、ということは、これまでの学年とは異なり、大きなマイナスからのスタートだった。経緯は忘れてしまったが、大学祭実行委員会の実質的トップである「事務局長」には、親友の滝口君が就任した。滝口君はフレンドリーで明るいスポーツマンで、誰からも愛される人徳のある人物であった。そして私はナンバー2である「事務次長」となった。4年次になって最初の仕事は、医学部との話し合いであった。懸念であった「臓器展」をどうするか、だけではなく、「大学祭」そのものを行なうべきかどうか、議論を重ねた。と同時に、私たちの学年でも話し合いを持ち、「大学祭」を行なうかどうか、「臓器展」をどうするかなどを話し合った。


 大学側に寄せられた批判についても、実際に見せていただいたが、私たちの倫理観のなさを批判する文章はほとんどなく、

 「所詮、医者は金もうけしか考えていないのですね(人体臓器展ではお金は徴収していない)」

 というような、医学界全体に対するステレオタイプで根拠の乏しい批判がほとんどであった。

 「批判に対して誠意を持って対応を」

 と僕らは考えていたが、誠意を持って対応すべき批判がないことは悲しく感じた。


 厳しいことに私たちの学年からカリキュラムが変わり、これまでは内科、外科など診療科別に授業が行われ、学期末に試験、となっていたのだが、私たちの学年からは臓器別に病理、内科学的側面、外科的側面から授業を行ない、その臓器の学習が終わるたびに試験をすることになったのであった。なので、数週間おきに試験があるようになった。クラスの中でも、

 「臓器展を行なわなくても、大学祭の伝統は残そう」という意見、

 「臓器を使わなくても、臓器展に近いことはできるのではないか」という意見、

 「マスコミにも批判されたし、大学祭は止めよう」という意見、

 「カリキュラムが厳しくて、大学祭を行なう余裕がない」という意見など、たくさんの意見が飛び交った。


 医学部側、自分たちのクラスでの話し合いを続けながら、他学年にも臓器展の可否、大学祭を行なうことへの意見など、アンケートを行なったりした。大学祭の各部局のメンバーも滝口君と僕で「ぜひこの人に」という人を挙げ、個人的にお願いし、大学祭実行委員も増えてきた。そうして、クラスの雰囲気も「大学祭を行なおう」という雰囲気に徐々に変わっていき、「臓器展」をどうするか、という点について議論を行なうように変わってきた。


 実行委員会の会議の中で私は、臓器展示を行わない「臓器展」を提案した。各臓器について、臓器の展示は行なわなくても、その臓器が体内で果たしている役割、その臓器の障害によって引き起こされる疾患は発表できるだろうこと、また、各臓器間の連携についても実物の臓器にとらわれない方がよいだろう、と考えた。また、血液疾患や精神疾患など、従来の臓器展示では困難であった疾患についても、啓蒙ができるだろうと考えた。私のアイデアはみんなに受け入れられ、後輩学年とともに、

 「新しい臓器展」

 という名前で臓器展を行なうことになった。


 前年の首席、祝薗さんが立案、企画された、教育に力を注いでくださった教官を大学祭で表彰する「MVT(Most Valuable Teacher)賞」についても、その第2回の総担当を私が担った。全学年にアンケートを取り、個性的なキャラクターの先生、情熱をもって教育を行なってくださっている先生、みんなを楽しませることに長けた先生など、いろいろな先生に様々な名前の賞をつけて、舞台に上がっていただいてお言葉をもらい、花束を渡して表彰する、というイベントだった。いろいろあったが、無事にアンケートを集計し、それぞれの賞を決め、前もって先生方に当日のアポイントメントを取って、表彰式に来ていただいた。第二回MVT賞授賞式も盛り上がり、先生方にも喜んでいただき、学生側も日ごろの先生方の努力に感謝し、無事成功したと思っている。


 また、「新しい臓器展」での学問的最終チェックを私が担い、前年の新聞報道に対する、私たちの見解を作成したのも私であった。みんなで立て看板を作り、臓器展の入り口にその見解を大きく貼りだした。滝口君が、人との折衝に尽力し、私は、理論、学問、倫理的な問題に対応する、という形で役割分担をしていた。


 また、従前の通りの出店などについても、担当の実行委員が動いてくれ、前年の大学祭に負けないくらいの大学祭を行なうことができた。試験に追われ忙しい中、同期のみんなは本当に協力的に動いてくれた。本当にありがたかった。


ただ、事務局長の滝口君、そして僕はかなり大変だったことは事実である。時に滝口君が

 「ねー、保谷さん、俺たち頑張ってますよね」

 と気弱な発言をし、

 「おう、俺たち頑張っているよ!マイナスからのスタートでここまで来れて、滝口君、君のおかげだよ」

 と励ましたり、お互いに

 「頑張ろうな。お互い、血の小便が出るまで頑張ろう」

 と喝を入れ合ったりした。


 残念なことに、大学祭の前日が麻酔科の試験だった。試験前の勉強は滝口君の家で(うちは奥さんがいるので、滝口君が気を遣う)一緒にしていたのだが、

 「保谷さん、もう今回、テスト落ちてもしょうがないですよね。俺たち頑張りましたよね」

 と漏らした。

 「そうやなぁ。俺たち確かに頑張ったよなぁ」

 としか僕も返せなかった。試験当日まで、勉強は不十分なままだったが、試験当日、頑張って勉強をしていた周りのみんながしゃべっていることを聞いて、試験直前にどんどん知識を吸収し、結局二人とも麻酔科の試験は合格することができた。


 そんなわけで、私たちの学年で流れを途切れさせることなく、先輩方の作られた伝統を大事にしつつ、新たな形の大学祭を開催することができ、とてもうれしかった。


 その時の記録を残すために、当日はあちこち写真を撮りまくっていたのだが、初日の午後から、強い腹痛を感じた。


 振り返ると夏ごろから、兆候はあったのだ。突然強い腹痛に見舞われ、トイレにこもる。痛みはひどく冷や汗で着ている服がビシャビシャになるほどだが、排便をして、1時間ほどで痛みが治まることがしばしばあった。また、当時よく売れていたグレープ味の缶ジュースを飲むと、その後、グレープ色の尿が出ることがしばしばあった。

 「何だろう?あのジュース、変な色素をたくさん使っているのかなぁ」

 などとアホなことを考え、自分の病態との関連がついていなかった。


 午後からの腹痛は強く、3時間ほどトイレから動けなかった。痛みは右の側腹部~下腹部痛、あまり波のない持続痛だった。出てくる便は普通便で、下痢もしていない、血便も出ていなかったが、排便しても腹痛には変化がなかった。その時点では、S状結腸~下行結腸のトラブルだと思っていた。

 冷や汗を流しながら、約3時間、そろそろ1日目の学祭が終わる、という時間になったので、痛みの残るおなかを抱えながら、片付けに向かったのだが、やはり腹痛は続いていた。30分ほど、片付けを手伝ったが、やはりおなかが痛くて仕事ができない。滝口君に、

 「ごめん、腹痛がひどくて先に帰らせて。深夜の警備係はskipしてほしい」

 と伝え、早退させてもらった。自宅に戻るが、腹痛が続き動けない。間の悪いことに、その日の妻は、県内の日帰り出張で帰宅が遅くなる日だった。


 17時過ぎから、畳の部屋に横になって動けず、健康保険証は妻が持っているので、ひたすら妻の帰りを待っていた。3時間ほど待っていただろうか、20時過ぎにようやく妻が帰ってきた。車酔いをしやすく、遠方から車で職場に帰ってきたため、それなりに車酔いでしんどいはずの妻だったが、

 「しんどいとこ、ごめん…。おなかが痛いから、病院に行くわ。保険証貸してくれる?」

 と妻に伝えると、心配して一緒に行く、とのこと。バイクに二人乗り(私が運転)し、24時間診察してくれ、家からもそれほど遠くないK病院に受診した。病院で受付をして、体温、血圧を測って診察を待っているころから、だんだんと痛みがおなかから背中の方に広がってきた。

 「これはもしかして…。」

 とその時点でようやく気付いた。医師の診察を受けると、

 「じゃぁ、おなかのレントゲンと、尿をまずとってください」

 と指示され、トイレで尿をとると、明らかにグレープ色の尿が出た。コップを傾けると小さな赤い粒が動くのが見えた。


 「やっぱり…」と、ようやく自分の病態を確信した。尿管結石だった。腹部レントゲンでは左の尿管に結石と思われる8㎜台程度の陰影があり、当直医の診断も「尿管結石」との診断だった。


 基本的には、まず鎮痛効果を求め、健康な方に対してはボルタレン(ジクロフェナク酸Na)坐薬 50mgを挿入し、効果を評価するのだが、坐薬を入れたのかどうか、あまり記憶がない。もしかしたら、ブスコパンを投与したのかもしれない。その後、点滴をしていたが、痛みの改善には乏しかった。


 点滴も終わりかけになり、当直医が診察に来てくれたが、あまり痛みは変わらないことを告げた。当直医は「わかりました」と言われ、点滴の追加と、ソセゴン(ペンタゾシン)の静注を指示された。ペンタゾシンはオピオイド部分作動薬、と言われる薬で、痛みを抑えるメカニズムは麻薬と同じようなメカニズムをとる。ペンタゾシンを注射すると、注射液が静脈→肺循環→左心室→大脳に到着するまでの数秒間の間をおいて、突然に頭の中に竜巻が起きたような感じがした。竜巻とともに左の腰背部痛は嘘みたいに消えていったが、それと同時に強い吐き気が私を襲った。何とか、嘔吐はせずに済み、痛みも嘘みたいに消えたので帰宅可、と指示が出たが、やはり中枢神経系に作用する薬であり、ふらつきがひどい。とてもバイクの運転はできなさそうなので、妻に運転してもらい(妻も自動二輪免許を持っている)、自宅に帰った。


 自宅につくと、もう翌日の早朝、大学祭最後の日だったが、このようにふらふらしていては学校にいけない。これまで頑張ってきたのに、悔しい思いをして欠席した。以前の言葉通り、私は血の小便が出るほど頑張ったのであった。


 その後は腹痛や血尿を見ることはなかった(グレープ色の尿は血尿だった。静脈血で紫色っぽかったので、よもや血尿とは思いもしなかった。観察力のない医学生である)。毎月泌尿器科に通院し、結石の状態を確認、水分もたくさん飲んで頑張って尿を出すようにしていたが、結石のサイズ、位置も変わらなかったため、その年の12月、冬期休暇に入ってから、ESWLで結石破砕術を行なった。


 いまもまれに同様の腹痛があり、また結石が再燃しているのだろうと思っているのだが、今のところは経過を見守っているところである。


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