第17話 水俣の海

 3年生の終わり2か月は「基礎配属」といって、各学生が希望する基礎講座にお世話になり、基礎研究のまねごとをする、という期間になっていた。診療所の事務当直時代に、医師当直として来られていたT先生が、衛生学の教授として衛生学講座に赴任してこられた。事務当直時代の時も、先生が赴任されてからも、いろいろとお世話になっていたこともあり、基礎配属の期間は衛生学講座にお世話になった。


 産業衛生の学習の一環として、某重工業の工場の産業医の先生にお願いして、職場巡視のこと、作業環境管理、作業管理などの産業医の仕事を見学させていただいた。


 また、精神保健衛生の学習の一環として、県南部にある精神科病院に見学に行ったこともある。そこではアルコール依存など様々な依存症に対して、「内観療法」という治療を行っていることで有名な病院だった。特にアルコール依存を例に挙げると、治療は極めて困難で、様々な精神科的アプローチを行い、患者の会に参加してもらっても、寛解(症状が落ち着いている状態)の状態を保てる人は良く見積もっても30%程度、同院の内観療法はそれより少し成績がいいとのことだが、それでも40%程度、とのことだった。


 実臨床でも、アルコール依存は悲惨である。家族関係は崩壊し、全身状態の悪化で内科に入院しても、ただ単純にお酒を止めるだけにすると禁断症状が出る。アルコールの禁断症状は「振戦せん妄」と病名がついており、命を落とすこともある状態である。なので、ベンゾジアゼピン系薬を当初は多量に、そして1週間程度で速やかに減量することで禁断症状の発生を抑え込む。ビタミン不足や電解質異常も必発なので、特にビタミンB群の補充と、電解質異常の管理には気を遣う。その山場を乗り越え、ご本人が治療を受け入れてくれるようなら(その時点で治療を拒否され、退院とせざるを得ない人も多い)、そこから栄養の改善、リハビリテーションなどを行い、本人の全身状態が良くなって、退院となるが、退院するとすぐにまたアルコールしか飲まない、元の状態に戻ってしまい再入院。これを繰り返していくうちに命を落としてしまう、ということがほとんどである。

 また、依存症を何とか抑え込んでいる人でも、思わぬきっかけでアルコール依存が再燃することもある。20年以上お酒をやめていた人が、たまたま食べたケーキに洋酒が入っていたために、依存症を再発した、という症例も聞いたことがある。


 また、精神科の保護室も見学させてもらった。大学病院の保護室は2床だったと記憶している。大学病院精神科の入院ベッド数が少ないので、保護室も少しだけしかなかったのだが、見学させてもらったのは田舎の巨大な精神科病院であり、保護室だけで別棟が作られていた。中には監視用のモニターと、監視する人たちがおられ、鉄の重い扉をいくつもくぐっていき、ようやく保護室に到着するようになっていた。重症で自傷他害の危険が極めて高い患者さんを管理する部屋が保護室である。

 多くの人が勘違い(医療者も含め)しているが、保護室は、危険な患者さんを『隔離』するためのものではなく、重度の精神運動興奮を来している人を、完全に外界からの刺激のない状態において、心身への刺激の入力を極力抑え、患者さんの心を安静にするための部屋である。ただ、そのような患者さんは自傷行為のリスクも高いので、どうしてもベッドもない、トイレの仕切りもない、病室と廊下の仕切りは鉄柵で隠れるところが無いように作られ、すべてがオープンな場所となってしまう。また、常に患者さんが危険な行動をとっていないか、監視せざるを得ないのである。


 患者さんたちはそれぞれの個室で過ごしておられた。保護室棟の中では常に誰かの雄たけびが聞こえ、本来の保護室の目的とは異なり、まるで動物園の折の中にいるように感じられた(おそらく、このような状況だから『保護室』の意味を勘違いされるのだろう)。


 高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「千鳥と遊ぶ智恵子」の一節、

 「人間商売さらりとやめて/天然の向こうに行ってしまった智恵子の/後姿がぽつんと見える」

 というフレーズを思い出した。


 「人間」を「人間」たらしめているのは何なのだろう、と思った。保護室から出てくると、私たちはみんな言葉を失っていた。女性たちはよほどショックだったのだろうか、涙が止まらなかったようだ。「人間」を「人間」たらしめているのはいったい何だろうか?今でも答えはわからない。


 水俣病は皆さんもご存じのとおり、メチル水銀の慢性摂取に伴う神経障害疾患である。水俣病は熊本の病気、というイメージがあり、それは間違ってはいないのだが、水俣市に限らず、水俣市に隣接する鹿児島県出水市などでも数十人の患者さんがいるのである。


 そんなわけで、公衆衛生、公害病の学習の一環として水俣にも連れて行ってもらった。もちろん原因となった工場であるチッソ水俣を見学することはできなかったのだが、水俣病の専門療養病院に見学に行き、現在の水俣病の問題(胎児水俣病の方も50~60歳代となっており、高齢化が進んでいることなど)を教えていただいた。午後は、水俣市が作った水俣病の展示施設を見学した。歴史は複雑で、すべてを覚えているわけではないが、当初患者さんが戦った偏見、真相をつかんだ医師と御用学者の対立、チッソで仕事をしている人としていない人の対立、また、チッソで働きながら、家族が水俣病、というジレンマに苦しんでいた人がいたことなど、様々なことを勉強させてもらった。


 水俣市を離れるのは夕方になっていたが、駐車場から見える不知火海は夕焼けを映してとても穏やかで美しく、だからこそなおさら、水俣病の問題の大きさが心に迫ったことを覚えている。あの美しい海の底には、まだたくさんの『毒』がたまっているのであろう。悲しいことである。

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