第16話 M教授からの呼び出し

 第二解剖学講座のM教授は、強い個性の持ち主だった。1年次の専門科目である人体発生学、そして解剖学実習後半、及び組織学の担当教授であった。私は、26歳の時に医学部に再入学、それまでの7年間も大学で過ごしてきたので、強い個性のある先生に当たってもそうそうびっくりすることはなかったのだが、おそらく現役や1浪で入学してきた若い同級生たちは、大いに面食らったことだろう。それは、各講座の教授の中で、数少ない「ニックネーム」のついた教授であったことからもわかる。


 大きな声で「諸君!」と呼びかけ、やや仰々しく厳しい口調で話し、怠惰そうにしている学生には雷を落とし、

 「海軍の5分前行動である!」

 と言って時間厳守を徹底した先生、それがM教授であった。厳しくて、そしてほめるときには

 「研究室に来給え。ハーゲンダッツのアイスを進呈しよう」

 というのが教授の口癖だった。とはいえ、なかなかほめてもらえるようなことをしたり、難しい質問に答えたりして、ハーゲンダッツのアイスをもらえることはなかった。


 宣伝をするわけではないが、初めてハーゲンダッツのアイスクリームを食べたのは、確か18歳ころであった。食材の買い物をする母の荷物持ちとして、スーパーに出かけたときに、大きな容器のハーゲンダッツ ストロベリーを買ったのが初めてだった。自宅で小皿に分け、家族で食べたときに、

 「こんなにおいしいアイスクリームがあるのか!!」

 ととても感動したことは今も忘れられない。もちろん値段もそれ相応なので、貧乏学生が気軽に食べられるほどのものではなく、僕にとっては(今でも)特別なアイスである。


 さて、ある日、耳の解剖について講義があった。外耳道、中耳、内耳のそれぞれについて概略が示され、授業が進んでいた。その時に教授から、

 「諸君! 解剖学書をいくつか調べてみたが、その一つに『耳垢は苦い』との記載があった。他の文献には記載がなく、その真偽のほどはわからないが、諸君はいかが考えるか?」

 と問われた。


 以前に、私が子供の頃、精巣をぶつけるとどうして背中が痛くなるのか、という疑問を持っていたという話を記したが、それとは別に、何を考えてそうしていたのか、今ではわからないのだが、子供の頃に私は自分の耳垢を舐めたことがあった。涙はしょっぱい、風邪をひいたときなどに垂れてくる鼻水もしょっぱいので、耳垢もしょっぱいのかなぁ、と単純に思ったからであった。「運良く」というか「残念なことに」というか、私の耳垢は乾燥していない、粘度の高い耳垢なので、小指を外耳道に当ててくりくりっとすると、少しばかり指に耳垢がつくのである(粘り気のある耳垢、と書くだけで、私の身体の困った問題の一つがバレてしまうのだが)。実際舐めてみると、「にっが~い!!」。確かに耳垢はひどく苦かったことを覚えていた。

 なので、思い切って挙手し、

 「先生、その記載は正しいです。僕が子供の頃、耳垢を舐めたとき、ひどく苦かったのを覚えています!」

 と答えた。教授は

 「おお、そうか。保谷、君にはハーゲンダッツを進呈しよう。後で研究室に取りに来給え」

 と、珍しくハーゲンダッツの権利をいただくことができたのだが、恐れ多くて、教授の研究室には行けなかった。


 第二解剖学の試験は、ありがたいことに十数名の合格者の中に滑り込むことができた。多くの同級生は追試験を受けることになり、残念ながら追試験も不合格になったものには、単位修得のための特別レポート(教科書をレポート用紙にまとめる、という課題で、友人は50数枚のレポートをかいていた)を提出する、という対応がとられた。


 試験がすべて終了し、友人たちも自宅に帰り、がらーんとした部屋の中で片づけをしながら無為に過ごしていたある日、ブランチ(というと聞こえがいいが、食費がもったいないので、朝食と昼食を1回にまとめただけのこと)を終え、満腹の状態でうだうだしていると、急に家に電話がかかってきた(まだそのころは、それほど携帯電話は普及していない)。電話をとるとクラスの友人からだった。彼はとても焦っていて、

 「ほーちゃん、今日は時間があるか?」

 「夕方のほか弁のバイトまでは特に用事はないけど、いったいどうしたの?」

 「M教授から連絡があって、俺たちに今すぐ来るように、とのことなんだ」

 と、突然の集合要請。何があったのかよくわからないまま、友人の車で教授の自宅に向かった。その時のメンバーが、友人と僕の2人だけだったのか、もう一人誰かいたのか、そこはもう記憶は定かではないのだが、とりあえず、友人が教授の自宅を教えてもらっていたので、慌てて出かけたことは覚えている。


 教授のお宅につくと、

 「君たち、待っていたぞ!じゃあ始めようじゃないか」

 と応接室に案内していただいた。そこには麻雀卓と麻雀牌が。なんだ。教授のマージャンに誘われたのか、とホッとした。また、そのメンバーに私の名前も入れていただいたこともうれしかった。

 麻雀は中学生の頃、赤塚不二夫氏が描かれた「ニャロメのマージャン入門教室」という漫画で覚え、友人たちとよく卓を囲んでいたが、基本的にヘッポコ麻雀で、しかも引きが弱いと来ている。だからあまりいい思いをしたことがない。


 多くの場合は一向聴あたりで手が止まり、残りの一枚が来ないまま流局、とか、手が止まったので、方針を変え、よし来た!と思ったら、最初の方でフリテンになっていたり、とか、両面待ちで場にも当たり牌がほとんど出てない状態で、これは来た!と思っていても、上がり牌が出ず流局。みんなの手を見てみると、片方は誰かが頭にしていて、反対側は別の誰かが暗刻でもっている、など全く下手の横好きそのものだった。こんなヘッポコ麻雀で、麻雀にハマってしまえば人生を棒に振ってしまうのは火を見るよりも明らかだ。「賭けマージャンは絶対にしない!」とそのころから硬く硬く心に誓い、その誓いを今でも守っている。


 そんなへっぽこな私であるが、教授との麻雀では、みんなどっこいどっこいのレベルで、非常に楽しくマージャンを打つことができた。教授との雑談では、教授は信州のご出身で、信州に本宅を持っておられ、引退されたらそちらに戻られることなどをお聞きした。半荘を3局ほど打ってから、

 「食事も用意しているぞ」

 と言われ、教授の奥様の手料理をいただいたのだが、つい先ほど、ブランチを食べたばかりで満腹だったので、少ししか食べられなかったことを申し訳なく思っている。そして食後のデザートは、お約束のハーゲンダッツ。その日はM教授や友人たちと楽しい時間を過ごすことができてうれしかった。教授も楽しんでくださったと思っている。


 あのころから過ぎ去った時間を考えると、教授はもう信州に戻られていることだろう。お元気で過ごされていることを願っている。


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