第8話 なんで医者になりたかったんやろう?(その1)

 私はどうして医師になりたかったんだろう?昔を振り返ってみると、ずいぶんと昔から私は医学に興味を持ち、医師になりたいと思っていたことに気づいた。少し長い思い出話に付き合っていただきたい。


 遺伝的素因は関係していないと思うのだが、私の母が子供時代、急性扁桃炎を繰り返し、おそらく溶連菌感染に伴う急性糸球体腎炎を発症、扁桃摘出術を受けており、私も同様に物心ついたころから、反復して急性扁桃炎で高熱を出して寝込むことが多かった。反復する急性扁桃炎での手術適応の目安としては、年に3回以上の発症とされていたが、私はほぼ毎月のように熱を出していた。そのころは発熱すれば、以前に住んでいたことがあり、父方の祖父母の家がある市内のクリニックに受診していたことを覚えている。受診のたびにタクシーで往復し、家計には大きな負担だっただろうと思う。

 私の出生時には、両下肢にも問題があり(何があったのかはよくわからないが)、3歳ころまでは特注の靴を履いていたそうである。子供のころからひどいO脚で、それは今でも変わらないのだが、人より遅いものの、歩いたり走ったり、跳んだりできるので、治療のために尽力してくれた両親には感謝している(全身の写った写真を見ると、膝から下がずいぶん短いのだが、足が短いのはご愛敬、ということで)。


 閑話休題、そんなわけで急性扁桃炎で月に一度は発熱し、寝込んでいたのだが、ただ寝ているだけではつまらない。寝ているときに本を読むようになった。子供のころから物覚えは良いほうで、誰に習うわけでもなく、アナログ時計を正しく読み、ひらがな、カタカナ、自分の名前を漢字で書ける幼稚園の年中さんであった。教えていないのに漢字が書ける、ということはそれ以上に読むことができる、ということである。私の寝ていた部屋に父の本棚があったので、父の蔵書を読むようになった。その中でも一番の好みが、すごく分厚かった「家庭の医学大事典」だった。ページを開くといろんな病気が載っていて、医学の世界もまだ感染症が医療の中心にあるころだったので、様々な病気とその説明を見て、怖いなぁ、でも不思議で面白いなぁ、と思っていた。おそらく私の記憶の中で、「医学」が興味深いものとなったのは、そのころだろう。


 別章でも書くことになるが、私の家系は糖尿病の人が多く、祖父、父、(確か叔父も)、弟が糖尿病である。祖父、弟はⅡ型糖尿病だと思うのだが、父は16歳で糖尿病を発症したと聞いているので、父だけはⅠ型糖尿病だったのかもしれない(Ⅱ型糖尿病は遺伝素因の存在を証明されているが、I型糖尿病では遺伝的素因は証明されていない)。私の記憶のないころに、高血糖で入院歴があり、その後継続して、父の地元のクリニックに通院し、薬をもらっていた(今考えるとおそらくSU(スルホニルウレア)剤だと思う)。私が幼稚園の年長さん、ちょうど弟が生まれた年に脳梗塞を発症。大学病院に長期入院となった。幸運なことに麻痺や言語障害は残さず社会復帰できたのだが、父が入院していたころに私も同じ大学病院で扁桃摘出術を受けた。父の病気、私の病気のこともあり、医学書を何度も眺めていた。父が大学病院から退院後、インスリン製剤(当時はブタインスリンしかなかった)が開始された(もっと早くにインスリン療法を導入されていたら、父はもう少し長生きだったかもしれない)。

 父のインスリン治療、そして弟の喘息のことで駅前の万米ヶ岡共同診療所に家族ぐるみでお世話になるようになった。診療所の上野先生は颯爽として、時に優しく、時に厳しく、でも尊大な態度をとることは全くなく、私たち家族の治療をしてくださった。扁桃摘出術を受けてからめったに熱を出さなくなった私だが、小学校中学年の頃に一度、インフルエンザにかかってひどい脱水になり、診療所で1000mlの点滴を受けたことがある。記憶にはないが、おそらく1000mlの輸液でも尿が出なかったのだろう、さらにもう1本点滴が必要、と言われたのだが、それは遠慮して帰ったことを覚えている。上野先生は適切に診断して、適切に治療してくださった。時に厳しくも優しい笑顔、颯爽とした姿に、「僕も先生みたいなお医者さんになれたらなぁ」と思ったことを覚えている。また、当時、手塚 治虫氏の「ブラック・ジャック」も週刊少年チャンピオンに連載されており、ブラックジャックにあこがれたこともあった。


 ただ、「お医者さんになるのはものすごく頭のいい人」と聞いていたので、その時点では「医師」という仕事は私には手の届かない、はかない憧れに過ぎなかった。


 小学校高学年から、中学3年間は、父の病気の悪化、荒れた学校の中で自分の尊厳を守るための戦いにエネルギーを費やした。父の病気が悪化するたびに、私の医学的知識は少しずつ増えてきた。急性心筋梗塞を起こし、大伏在静脈をグラフトとしたCABG、当時はHBVもHCVも発見されていなかった時代なので、「輸血後肝炎」や「血清肝炎」と言われた肝炎、また糖尿病性腎症の悪化で人工透析を受けることになった。シャントを作り、さらに厳格に食事制限を行なわなければならなくなった父を見ていた。医学書を読めば読むほど、父との永遠の別れが近いことを痛感した。私は何度も泣いた。父と永遠に分かれてしまうのが悲しかったのか、まだまだお子様である私たちを置いていかなければならない父の気持ちに涙したのか、もうそれは覚えていない。しかし、医学、医療は極めて私の身近に存在していた。父の状態を理解したい、という気持ちもあり、また、学校の授業で人体について勉強した時も、非常に興味深く勉強したことを覚えている。


 高校時代、家での生活は、父が亡くなり、母が再婚して弟ができたりと激しく変化した生活だったが、学校生活は楽しく過ごした。高校生活を総括すると、自由・ギター・初恋に集約される。自宅で一生懸命に勉強した記憶はないが、成績は良かった。ただできる科目とできない科目の差が大きく、また、数学と地理・歴史が好きではなかったので、理系に進むのも、文系に進むのもうーん、という感じだった。

 このころに死ぬ思いで勉強していれば、医学部に進学できたのかもしれないが、その分、勉強以外で私が学び、手に入れたたくさんの宝物は手に入れられなかっただろう。なので、勉強はあまりしなかったが、とても貴重な高校生活だった。


 極めて残念なことに、センター試験でこれまで見たことのないようなひどい点数を取ってしまい、東京にある、某鉄道の駅名にもなっている公立大学には合格したのだが、あえて浪人を選択した。浪人するからには、一生懸命勉強して医学部を目指そう、と思ったのだが、本気度がまだ足りなかったのか、またもやセンター試験で思うように点数が伸びず、少しでも医学に近い研究ができる学科であること、自宅から通学できることから、地元の国立大学某学部の、今は無き生物工学科に進学した。同級生や先輩には、医学部を目指していたが手が届かなかった、という人がパラパラといて、あぁ、みんなおんなじやなぁ、と思った。


 4年次の研究室選びでは、タンパク質の立体構造と機能の関係を、ヘモグロビンをモデルとして研究している講座にお世話になった。個性的な指導教官、優しい先輩に恵まれて、楽しい研究生活を送った。卒業論文の研究テーマは1957年にフランスのセント・ルイス病院で発見、診断された異常ヘモグロビンである“Hb St.Louis” が、”HbM症“と呼ばれる特徴的な病気を引き起こす異常ヘモグロビンに属するのかどうか、遺伝子組み換え技術を使って人工的に合成した”Hb St.Louis“を用いて証明する、というものだった。自分の実験の中途半端さや、阪神大震災の影響を受けながらも、”Hb St.Louis“がHbM症をおこす異常ヘモグロビンと同様の電子スピン共鳴パターンを示すことでHbM症に含まれることを証明できた。ほんのわずかではあるが、医学の教科書を書き換える仕事ができたことはうれしかった。


 そして、強力に「医師になりたい」と思ったのが、大学院時代だった。当時は大阪大学医学部だけだったと思うが(今はずいぶん増えた)、医学系学部以外の学生を修士課程として募集し、医学研究に従事させ、優秀な医学研究者を養成する「医科学修士課程」(以下、医学修士と略す)があった。医学に近い研究をしたい、と思っていた私にとっては、理想的な修士課程だと思った。確か競争率は5倍近かったと思うが、頑張って出願。「受験したからといって合格するわけではないけど、受験しなければ合格はあり得ない」と思って出願したのだが、奇跡的に合格することができた。診療所の上野先生に合格を報告すると、

 「保谷君、基礎研究をするうえで、臨床の現場を見ておくのは大切だと僕は思っているんだ。事務の当直の仕事をしてくれる人を探していたんだけど、この仕事は君の研究の上ですごくためになると思うんだ。もしよかったら、アルバイトしてみないか」

 と誘ってくださった。なんとありがたいことだろう。そんなわけで、子供のころからお世話になり、あこがれだった万米ヶ岡共同診療所に、深夜の事務当直のアルバイトとして、働かせてもらえることになった。


次回に続く

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