終章 幻想
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目を開いた時、視界に入り込んでくる世界が、夢なのか現実なのか、すぐに判断できないことが最近は多くなった。ただ、決まって僕はずっと長い夢を見ていたことだけは覚えている。懐かしい、何年も昔の夢。いつもその夢の光景が、目の前でまだ続いているような気がしてしまう。いや、続いていてほしいと願っているからこそ、そんな感覚に陥ってしまうのだろうか。彼女と過ごした日々が、幻に溺れていただけだったなんて信じられないし、今でも信じたくない。僕の身体の全てに、確かに手を取った感触も、甘い匂いを嗅いだことも、か細い声を耳にしたことも残っている。もちろん、見たくはなかった結末だって。だけど、忘れたくない記憶は死へと向かう時計を動かすために磨り減っていき、輪郭を朧気にしていってしまう。そして、自身の中にあるその記録の存在すら疑ってしまうのだ。僕は覚えておきたいだけなのに。世界中の誰もが彼女の記録を否定したとして、それを僕が肯定してしまうと、本当の意味で彼女はいなくなってしまうのだから。
ベッドから身体を起こし、テーブルに置いてある水を一口飲んだ。温く、柔らかな水が喉を通っていき、僕の身体はしっかりここが現実であると、判断をしてくれた。部屋の中は雨の日の湿気と、若干の肌寒さで溢れている。また、君の季節が回ってきた。
僕はあの日の夜、どうやって家へ帰ったのか覚えていなかった。気付いたらベッドの上で横たわっていて、朝を迎えていた。新聞にもニュースにも、トラウマを植え付けられるほどの衝撃だった殺人事件の話は、数年経った今でも取り沙汰されていない。でも、あの夜から数カ月後の新聞の片隅に、市内の北方にある山中で、腐敗した女子高生の遺体が見つかったという記事が載った。喉元を切られており、強姦された痕もあったらしい。ただ身元は分からずじまいで、地方紙の一端に掲載された程度なので、それが彼女だったのかどうか、僕は知らない。
彼女がいなくなってから、僕はみんなからいないもの扱いされながらも、クラスに顔を少しずつ出していた。不思議と苦しくもなく、その状況を受け入れられた。もう本当に誰からも必要とされていないことが分かってしまったからだろう。残りの一年と少し、ただ高い学費を払ってくれる親に申し訳ないと言い聞かせて、無感情に授業を受けるだけの日々を溶かしていった。
その甲斐もあって卒業までこぎ着けた。卒業後は、一年間の間にアルバイトで貯めていた貯金を握りしめて、すぐに放浪の旅へ出た。みんなが受験勉強や就活で、遅くまで学校に残っている間、僕は汗水を垂らして働いていた。売れるものも売り払い、部屋の物を減らしつつ、とにかくお金を工面した。幸い、趣味と呼べるものなんて僕にはなかったので、貯金に苦しみを覚えることはなく、楽に貯めれた。両親は特に口うるさく何かを言うこともなかった。やっぱり、僕は誰からも諦められているのだな、と思っていた。
死だけが空っぽの中にポツンとひとつ残されていると勘付いていたのに、生きることへ執着するみたいに僕は旅をした。機器代を払い終えたスマホは解約して、電話がかかってこないようにしておいた。だけど、それを捨てたり売ったりできなかった。二度と電話なんてかかってこないと分かっていても、持っておきたかった。無駄だと思いつつも、鞄の底で荷物の肥やしにしておいた。
時々、死ななければと思い立って、旅先で自殺を図ろうとしたこともあった。どれも結局、未遂で終わってしまうことがほとんどだ。どうしても最後が踏み出せない。彼女と出会ったあの時のように、誰かが僕をこの世に繋いでくれるのではないかと、淡い期待を寄せてしまっているのだ。勿論、いるはずもないことは分かりきっている。僕はもう誰からも見えない、時間のような存在になりつつあると思っていたから。ただ、言い訳じみた理由が、僕を生かす糧となっていた。僕が救おうとしていた彼女は『自分を救えるのは自分だけ』といっていたが、皮肉なことにその通りなのだ。
卒業後の数年間、全国の色々なところを回った。金が底を尽きそうな時は、日雇いのグレーなアルバイトをして食扶持を稼いだこともあった。僕は傷を増やしながら、死ななければという心の訴えに適当な相槌を打ちながら、情けなくもなんとか生きてきた。
結局、僕は今、高校時代を過ごした街へ戻ってきた。海の汚さも、人の群れも、見える景色も、何一つとして代わり映えはなかった。忌まわしい思い出で溢れた時代を過ごした地なのに、意外と無感情のままだった。家族はとっくに引っ越しをしていて、元の家には別の住人が住んでいた。連絡を取ろうと思っても、スマホは壊れて使えなくなり、繋がるための手段は皆無だ。僕は仕方なく、同じような生活を回しながらも、格安のゲストハウスの一室を借りて暮らしている。お金が無くなったら、また日雇いへ行きながら、工面すればいいだけだ。
カーテンの隙間から見える曇り空に憂鬱になりつつも、ベッドから抜け出して身支度を整える。煙草を吸う為だけに。部屋は禁煙で、煙草を吸いたければ外で吸わなければならない。ゲストハウスで、すれ違うのは見知らぬ人たちとは言え、流石に寝間着のまま人前に出るのは気が引けるのだ。
溜息を吐きつつも、僕はようやく着替え終わり、部屋を出る。途中、宿泊客とすれ違ったが、会釈をする程度だった。ここにはどうやら様々な事情のある客が泊っているらしく、高校生くらいの女の子とすれ違ったこともある。オーナーが胡散臭そうな中年女性なので、きっとチェックなども緩いのだろう、なんて勝手に解釈しているけれど、実体はどうなっているのか分からない。
急な角度の階段を上っていき、お世辞にもいいとは言えない景観の屋上へと出る。周囲は背の高いマンションに囲まれているせいで、圧迫感がある。だけど、僕はここから望める風景が好きだ。それに、朝は滅多と人も来ないので独りきりでいるにはちょうどいい。
煙草に火を点けると、転落防止柵に身体を預けて、街を見つめる。口の中は苦い味ですぐにいっぱいとなった。この街と僕は似たようなものだな、と思う。変化は微々たるものでしかなく、僕も変わったところなんて、煙草を吸い始めたことくらいだ。あの日々から成長なんて少しもしていない。ずっと手に握りしめていた音切と出会い、失くしてしまうまでの思い出は、孤独の一部となり、僕の体温となっている。彼女との記憶を捨ててしまうには遅すぎたのだ。僕はまた、そんな後悔を恥も知らずに繰り返していた。
生きている意味は一体何なのだろうか。彼女との記憶を抱えているだけの僕は、この世界に必要なのだろうか。やるべきことも、やりたいことも、もう何もないのに、意味はあるのだろうか。
『私たちはね、死んだら天国へ行けるの』
不意に、耳を撫でていた寒風がそんなことを囁いた気がする。時折、こうして幻聴すら聞こえてくる。
「僕も、死んだら行ける?」
そして、僕はいつもあの時と同じように問い返す。もちろん、答えは返ってくるはずもないのに。でも、それは今なら死ねるという合図になっている。
煙草を鉄柵に擦りつけて消して、柵の向こう側へと跨いだ。鉄の冷たさが手の平に伝う。柵のなくなった目の前の世界は、心なしか広くなった。ずっと鳥籠にいたインコが外の世界へ飛ぶと、こんな気持ちなのだろうか。立っている場所が変わっただけで、噓みたいに風の吹き方は変わっていく。気を抜くと簡単に足を踏み外しそうだ。何回目になるか分からないけれど、今日が最後になるかもしれないという予感が脳裏に弾ける。今日の僕も異常な思考をしているでしょう、と頭の中で天気予報士に語りかけてみた。
君の季節に染まった街は、どこか嬉しそうだ。そんな場所で死ねるなんて、本望でしかない。ただ、ここから飛び降りた向こう側は、ここによく似た風景をしていればいいな、と思った。今度こそ僕は失敗なんてせずに、そこで生きていく。何も失うことなく、誰からも壊されることもなく、抱えていた理想のままに生きるのだ。
鉄柵をしっかりと掴んだ手から、ゆっくりと力を抜く。コンクリートの地面が徐々に見えてきた。本当に、何もかもから僕は逃げ切ることができる。この身体を巡る血に含まれている、君の全てからも。
あと少しで、僕は終わる――
その時、屋上のドアが勢いよく開き、チープな金属音が屋上いっぱいに響いた。心臓は正確に位置が分かるくらいに高鳴り、限界まで緩くなっていた手には再び力が入り、鉄柵を握り直した。
人がほとんど来ることのない時間帯の屋上に、誰かがやってきたのだ。落ちないように気を付けながら後ろを振り返ってみると、そこには、制服に身を包んだ少女がいた。開けた時とは違い、ドアをそっと閉めた彼女と、僕は目が合う。
「あ、あの……何やってるんですか?」
鉄柵の向こうの僕に、恐る恐る少女は問いかけてきた。驚いているのか、目を見開いたまま彼女は立ち竦んでいる。屋上には他の人もいないし、どうするべきか悩んでいるのだろう。
全くの偶然を奇跡だと言い張るほど、僕はロマンチストではない。だけど、そんな言葉を使ってみたくなるくらいに、彼女の容姿は音切と瓜二つだった。真っ黒で艶のある長い髪も、それとは対照的に光を反射させそうな真っ白な肌も、すぐに折れてしまいそうな華奢な身体つきも、どこを取っても音切と違わない。
「聞いてます……?」
あまりの一致に我を忘れていた僕を、彼女は引き戻してくる。
「ごめんね。別に大したことじゃないんだ。ちょっと落とし物をしてしまってね」
「そうですか……危ないので早くこっちに戻ってきた方がいいですよ」
心配そうな表情を浮かべた少女に、僕は音切の姿を重ねてしまう。でも、きっと彼女なら、薄っすらと笑っているんだろう。
「戻りたくても、僕はもう戻れないんだ」
「え?」
きっと、落し物は見つからない。
失くした物は手元に返ってこない。
棄ててしまった物は取り戻せない。
君がそうだったように。
君もそうだったように。
僕はそっと目を閉じた。最後の最後に、こんな幻想を見ることができて良かった。幸せなまま、彼女のいる月の向こうへ飛び込むことができる。
「なあ、名前を教えてくれないか?」
音切、僕は一つだけ君に伝え忘れていた。名前だって大事なものなんだよ。名前があれば、その人のことを刻み付けることができるんだよ。刻まれた名前がそこにあるのなら、いつでも、その人に触れることができるんだよ。
「私は……平山芙蓉です」
少女は混乱した様子ながらも、自分の名前を口にした。
そうか、君はそこにいたのか。
思わず口元が緩んでしまう。
「君がここに来てくれて本当に良かったよ。今までありがとう、それと、ごめんね――」
――華乃
全てを言い終える前に、僕は鉄柵から手を離した。グレーに染め上げられた街が何度か回る。
あんなに近くにあったはずの灰色の重たい空は遠のいていく。
ずっと、言えなかった言葉を言えた。これが僕のやるべきことだったんだ。死のうとしていた僕のことを、ずっと華乃は繋ぎ止めてくれていた。華乃の存在は、呪いなんかじゃないと、今なら胸を張って言える。
やっと、記憶は終わってくれる。過去という楔を打ち続けた手も止まるのだ。
地面を背にして、目の前で広がる空に雲間ができ、そこから射す陽の光が僕を照らす。その真下で、柵から身を乗り出しながら華のように鮮やかな笑顔を僕へと向ける少女の姿があった。
彼女の口元が徐に動く。
『バイバイ』
「うん、またね」
――完
幻影 -RE:illusion- 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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