第4話 素子 読み切り

新しいサウンドチップが送られて来た。井上主任に許可をもらって一つだけ素子のために家に持って帰る。素子は喜んでくれるだろうか?

単に音がなるだけの試作品を作って、聴いてみる。ひどい声だ。はやりの技術が盛り込まれたサウンドチップだが、どうしてこんな悲しげな音しかならないのか?クリアで細く響く高音が耳につく。

まるでチップが私、本当はこんな歌い方したくないのと訴えてるようだ。彼女が本当に望むオペアンプを選ぶことと抵抗とコンデンサの微妙な調整は不可欠だろう。

素子にどう言ってこのチップを渡そうか?

普通にこの子のことは彼女と呼ぶだろう。どんな名前をつけるだろう?素子ならきっと彼女に力強い名前をつけてくれる。

本格的に回路図をひくのはそれからでも遅くない。

悲しくなる。どうしてか分からない。望んでいた仕事について、好きだった子と結婚して、なのに悲しくなる。何も不満はないはずなのに時々やりきれなさを感じる。

おかしな話だが素子はその悲しさをいやしてくれた。

十七だった時、素子は真っ黒だった。いつも同じオーバーオールを着て学校に来、放課後になると水着に着替えた。一度だけ素子の泳ぐ姿を見たことがある。皆に声をかけてるからと言われ、地区予選を見に行ったのだ。会場につくとクラスメートは、僕一人で後は顔も知らない水泳部員ばかりだった。なのに皆、僕を歓待してくれて、素子が泳ぐ時には応援の真ん中に立たされた。何も知らない僕は水泳部独特の聞いたこともない掛け声に合わせて声を張り上げた。

素子が泳ぎだすと僕は声を忘れた。結果としては、素子は四位だった。

でも、素子の泳ぐ姿はとても美しかった。

クロールの腕は、なんの抵抗もないように水の中にすべりこみ、しなやかに水をうつ足は、人魚のようだった。まるで水の女神に運ばれるように、素子の体は進んだ。

素子の泳ぐコースだけが一直線となって、僕の世界はその直線としなやかに泳ぐ素子の姿だけになった。僕は真っ黒な女の子が美を体現することにふるえた。

僕は一人になった帰りの電車で、何度も何度も素子の泳ぐ姿をリプレイし続けた。

なのに僕は素子の思いには至らなかった。二年生の文化祭で僕も素子も大道具を担当した時に、素子は劇の中で使うドアのちょうつがいの上に板を打ち付けてしまった。その時、僕は素子に激怒した。じゃまをするつもりなら文化祭の準備にこないでくれとまで言った。素子は、だってこの金属がきれいじゃなかったからとすまなそうに言った。その当時の僕はちょうつがいを知らない人間をいるなんて考えもしなかったから、素子の言動がさっぱり理解できなかった。

それ以来、素子は僕を避けるようにしてたから僕は勝手に嫌われたんだと思い、道理の分からない人間はほおっておいたらいいとしか思っていなかった。

だから素子が地区大会を見に来てくれといった理由も、首をかしげながらも深くは考えなかった。今から考えれば十七歳の女の子が、水着になった姿を見に来てくれと言うのは、すごく勇気がいっただろう。

何もなく僕と素子は高校を卒業した。僕は地方の工学部に進み、家を離れた。

夏休みに帰省した時、同窓会があった。

素子が来ていた。

オーバーオールではなくスカートをはき、肌の色も真っ黒じゃなく白くなっていた。

それでも僕は高校最後の夏の水の中の直線を思い出した。

ただ素子は、マスクをしていた。人に聞かれても「いや別に。」と言うだけで同窓会がお開きになってもマスクを取ろうとしなかった。

三々五々と皆が散っていくときに僕は素子を呼び止め、喫茶店に誘った。

素子は何も言わず、僕の後をついてきた。

喫茶店のちょっと奥まった席に座り、コーヒーが運ばれてきても二人とも黙ったままだった。言わなければならないことは分かっているのに、何を言えばいいのかさっぱりわからなかった。

「マスクとったら?」

「ううん。」

また沈黙が流れる。僕は言ってはならない最悪のことを口にしてしまった気になった。

素子は下を向いてしまい。下を向いたまつ毛だけが見える。

「マスクとったほうがいい?」

「いや別に、なんか理由があるん?」

まつ毛が悲しそうに動いている。

「風邪か?花粉症?」

「ううん。」

マスクのことなどなんの問題でもなかった。なのにそれしか会話が見つからなかった。

「笑わない?」

素子がすまなそうに聞く。

「えっ、なんで?」

「あのね、蚊に刺されたの。」

「顔を?」

僕はおそるおそる聞く。

「笑わない?」

「うん、笑えへん。」

18才の素子は、ためらいがちにマスクをとった。

僕はふき出しそうになるのを必死でおさえた。

上唇の左端が、プクリとふくれて、少しめくりあがっている。

素子は、その赤い小さな果実にまで丁寧に口紅を塗っていた。

まるで、カエルみたいだった。

「別におかしくないよ。逆にすごくかわいいよ。」

僕は、できる限り真顔で言った。

「そう、ほんとに?」

素子はおそるおそる聞きながらも、もう唇を蚊に刺されたことは、忘れかけていた。

僕はそんな素子がかわいくて仕方がなかった。

「加納君て、今でも走ってるの?」

「うん、走ってるよ。」

「高校の時、物理部が走ってるの見ては、みんなで大笑いしてたの。」

「顧問の秋山先生が変わってたんだ。技術者に一番必要なものは体力だって言って、毎日実験をする前に走らされたんだ。」

「そうなんだ。でもね、物理部なのにへたな運動部より速いんだもん。おかしくって。」

素子は、マスクをしてたことを忘れてしゃべっている。

素子がしゃべるたびに唇のふくれた部分も一緒に動く。

僕は吹き出してしまった。

「素子、お嫁に行けない顔だよ。」

僕はつい言ってしまった。素子が真っ赤になって、マスクをしようとする。

僕は、弁解の言葉を言おうとして、とんでもない言葉が口から出てしまった。

「遠距離になるけど、僕とつきあってくれない?」

マスクをかけようとする素子の手が止まり、大きく見開いた目で僕を見た。

あの瞬間があったから、僕達は今、一緒にいる。

子供ができないのだけが、僕と素子の不満だった。でも、子供を作ろうという話になるたび、結婚して七年にもなるというのに、二人とも照れてしまって話が続かない。

その度に、僕はこの幸せだけはなんとしても守り抜こうと心に誓う。





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