第3話 階段での出会い

 ホームルームと一限の体育はサボってしまおうと考えて、校舎の中の、自分のクラスから一番離れている階段に向かった。階段の前は空き教室で、こんな遠くまで何もないところにくる生徒はすごく少ない。


 春子はいつも、気が滅入って一人になりたい時、この階段の一番上で過ごすことにしていた。一番上の階まで行くとそこは死角になっていて、誰とも顔を合わさずに済むので気が楽だった。


 階段の一番上に腰をかけて壁にもたれ掛かる。ひびの入った古く、冷たい壁が心地良い。


 目を瞑りながら、加奈に言われた言葉を頭の中で反芻する。


 彼女が言っていたように、春子は自分の話をするのが苦手だった。自分の話をしているときに、少しでも相手が興味なさそうに見えてしまうと、もうそこから話すのが怖くなってしまうのだ。


 人の話を聞くときは、相手がそう言う思いをしないように気をつけていたけれど、それさえももしかしたら自分の体制を保つための、心の綺麗な人間のふり、と言うのがバレてしまっていたのかもしれない。


 私はどこで何をしていても満たされないな……


 こんなちょっとしたことで、今までの苦労が無駄になってしまった。春子は次加奈にあった時に、どうやって謝ろうか考えていた。


 でも本当に、私は謝らなければならないのだろうか・・・?


 そんなことを考えていると、春子の足元から、誰かが階段を登ってくる足音がした。


 最上階の先は行き止まりだし、普段使われていない階段なので、担任が探しにきたのかと思い春子は焦り始めた。


 なぜここにいるか知られたら、色々理由を聞かれたり、探られたりしてめんどくさいことになるかもしれない。しかし、足音はどんどん大きくなって、春子にはもう逃げる場所がなかった。


 どうしよう、なんて言い訳をしようと焦って考えていると、見たことのない、30代くらいの若い女の人が登って来たのが見えた。

 胸の下くらいまで伸ばした栗色の髪の毛に短めの前髪。フワッとした雰囲気を纏ったその人は、春子と目が合うと驚いた顔をした後にすぐ、眉毛を下げて、春子を気遣うような表情を見せた。


「大丈夫ですか?すごく顔色が悪いですよ」


 その人はそう春子に声をかけると、近くまで寄って来て、春子をもう一度階段に座らせた。


「座った方が良さそうです。誰も来ないから大丈夫ですよ」


 怒られると思っていた春子は、少し拍子抜けしながら、それでも心配されるがままその場にもう一度腰を下ろした。


「あの、新しい先生ですか?」

 その女性の少し日に焼けた健康そうな肌を見ながら、恐る恐る聞いてみる。


「あ、違いますよ。私は今日、生徒皆さんのための特別教室の打ち合わせでやって来たんです。ほら、毎年年に一度あるいつもと違った活動をしてみようって言うあれです」


 軽快な口調でその人は続ける。

「私、都築葉って言います。近くで陶芸教室をやっているんです」

「都築さん・・・」

「そうです。あなたの貴重な休みを邪魔してしまってすみませんでした。私もまさかここに人がいるなんて思わなくて」

「この場所、何かに使ったり、使う予定があるんですか・・・陶芸教室のために?」

 

 我ながら変な質問をしてしまったと思った。陶芸教室と無人の階段はどう考えても結びつかない。けれども、都築は馬鹿にしたような様子もみせず、春子の質問に答える。


「いえ、私、ここの高校の卒業生なんですよ。あまり人の多いところが苦手だったので、教室で息詰まったときはここで授業をサボっていました。私が使っていたのは十年くらい前ですけど、あの頃からこの階段の前の教室は使われていなくて、全然人が来なかったんです」


 十年前ということは、春子の予想通り、都築さんというこの女性は30歳くらいなのかもしれない。


 少し控えめに笑いながら都築が言った。

「ここ、いいですよね。遠くの方から人の声が聞こえて、床と壁がひんやりしていて、現実世界に留まりながらも、少し隔離されている感覚がして。心の距離を少し取り戻せる気がします」


 春子にもその気持ちがわかるような気がした。人と距離を取りたいけれど、孤独は嫌だから、完全な静寂じゃなくて、少し人の気配が遠くからするのが心地よい。


 遠くから数学の公式を説明する男の人の声がする。・・・誰が教えているんだろう。もしかしたら春子の受けたことない先生かもしれない。


 少しくぐもった男女の笑い声がもう少し近くから聞こえてくる。コンクリートで出来た壁の冷たさを肩で感じながら、誰かもわからないその笑い声に耳を委ねる。


 こんなにも穏やかな気持ちになったのは久しぶりかもしれない。人といるときは常に気を張って、余計なことを言わないように、誰かの機嫌を損ねないように慎重に、かつ、あざとく見えないように振る舞うのに必死だったような気がする。


 それさえも、意識して行うというよりかは、もう反射的に自分の心にそぐわない言動をずいぶん長い間繰り返してきているように感じる。


「あの、お名前なんて言うのですか」

 そっと都築が話しかけてきた。あやうく隣に人がいることを春子は忘れそうになっていた。


「あ、新田春子です。あの、できれば先生にはここにいることを知られたくないんですけど・・・」

 サボっているのは誤魔化せないが、春子の唯一の安らぎの場所を奪われたくはなかった。


「もちろんです!先生には言いませんよ。なにせ私もこの場所気に入ってましたからね。私も秘密にしておきたいんです」

 そう言って都築は顔をくっしゃとさせて笑う。笑うととても幼く見えた。


「あの、もしよければ陶芸教室に来ませんか?日曜日、特定の人に開放してるんです。土、気持ちいですよ」


 春子は陶芸に、というより何にも特別に興味はなかったが、都築の「土、気持ちいですよ」と言うのがおかしくて、すんなり何も考えずに行くとうなづいてしまっていた。


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砂の星 月野 @tsukinohi_

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