あの夏の青空に

 焼けたアスファルトの道に、一匹の蝉が落ちている。

 生きているのか死んでいるのか、蝉は動かない。


 やがて、道の向こうからビニール袋をぶら下げた男がまっすぐに歩いてきた。

 避けるでもなく、黒い革靴が蝉を容赦なく踏み潰す。


「待たせたな」

「ううん。大丈夫」

 男は少女の元に辿り着く。

「ちょうどこの木の下が日陰になってるの。それより」

「買ってきたよ」


 男はビニール袋から棒アイスを二つ取り出す。一本はソーダ味の氷菓、一本はあずき。

「じゃ、私、あずき!」

「……」

「もしかして、こっち食べたかった?」

「いや、俺はどっちでもいい」

 男はあずきアイスを少女に渡し、ソーダ味の包みを開け、かぶりつく。

「おばあちゃんみたいとか言われるんだけど、私、あずきとか羊羹とか大好きなの」

 少女は笑って、あずきアイスをかじる。

がり、ごり。異様なほど固い音と共に、少女は難なく噛み砕く。

「次、水羊羹にするか」

「わっ! だいすき!」


 夏の日差しが木々の緑を鮮やかに照らし、その下では木漏れ日が地面に美しいモザイク模様を作っている。

「木陰に入ると涼しいんだよ」

 木に止まった蝉が、二人の頭上で高らかに鳴く。


「……ずっと、こんな日を夢に見ていた」

「うん」

「で、ようやくここに来ることができた」

「ちがうよ」

「?」

「ここに帰ってくることができた。そうでしょ?」

「そうだな」

 男は少女よりも先にアイスを食べ終える。残った棒には“はずれ”の文字。

 ハンカチを取り出し、首元の汗を拭う。


 男はベージュの冬用コートに身を包んでいた。コート、よれたスーツの上下。土だらけの革靴。それらを脱ぐでもなく、この夏の暑さを厭うわけでもなく、一人だけ、明らかに浮いた格好であった。

「暑いんだから、コート、脱いだらいいのに」

「大丈夫だ」

 女はサンダル履きで、薄手の白いワンピース姿に麦わら帽子をかぶっていた。この夏にあってシミ一つない白い肌に、汗一つもかいていなかった。


 一匹の蚊が男のコートの袖に止まり、血を吸うこともなく、また飛んでいった。


 あずきアイスを食べ終えた少女は立ち上がり、尻をぱんぱんと払い、そしてくるりと翻って笑った。


「おかえりなさい。アブカワさん」


―――


『本当にやるんですか。……こんなこと、うまくいくんでしょうか』

『やるしかないんだよ』


―――


 エンジン音と共に一台の白い軽トラックがやってきた。


 トラックは二人の目の前で止まる。再度ガラス(ハンドル開閉式)がゆっくりと開く。

「■■■■!」

 顔を出した運転席の男が少女の名を呼んだ。

「アリサカさん! こんにちは!」

「おっ、おっ、■■■■ちゃん?!」

 助手席にいたもう一人の男がひょっこりと顔を出した。


 男の顔は歪んでいた。目が、鼻が、口が、あるべきはずの場所からずれている。それは不愉快に変形した福笑いを思わせた。


「コンドウさんも、こんにちは!」

 男は歪んだ口でギチギチギチギチと奇妙な笑い声を立てる。少女は臆することもなく、笑顔で応えた。

「と……そこの人は」

 縦に置き換えられた目がぎょろりとアブカワを見る。

「アブカワさん。昨日ここに来たの。案内してあげてるのよ」

「そりゃいい! 見てのとおり何にもねえ田舎だけど、空気はうまいぜ」

 ギチギチギチギチ。

「他に誉めるとこねえのかよ」

「パッと思いつかねえんだよ!」

 男二人のやりとりに、少女はくすくすと笑った。


 ランニングシャツ姿の、“一見”健康的に日焼けした若い男。アリサカとコンドウ。


「さっき、向こうの集落のバアちゃん家に寄ってたんだ。その帰りだ」

「扇風機が壊れたっつってな。さすがにこんな暑さじゃバアちゃんもヘタっちまう。そしたら野菜くれたんだぜ」

「わ、すごい!」

 助手席の男が、ビニール袋に入ったキュウリやトマトを見せる。少女はそれを見て目を輝かせる。立派に実った夏野菜だ。

「男二人じゃろくな料理も出来ないから、せいぜい塩ふって食うかサラダにするかくらいだけど」

「あーあ、早いところミツダもこっちに来てくれりゃあな。ずっと呼んでるんだよ。早く来いよ、って。それにあいつ、料理もうまいから」

 アリサカが残念そうに呟く。


「来るよ。こんなにいいところだもん。ミツダさんもきっと、すぐ」


 少女は笑った。

「だな」

 アリサカも笑った。

「おいアリサカ、そろそろ行こうぜ。腹減っちまったよオレ」

「お、そうだな。じゃ俺達はそろそろ。■■■■、困ったことあったら遠慮しないで訪ねてくれよ」

「■■■■ちゃんの頼みなら、いつでも待ってるからな!」

 ギチギチギチギチ。ギチギチギチギチ。


 言うだけ言って、二人を乗せた軽トラックは再び走り去っていく。


「アリサカさんとコンドウさん。集落のみんなの家を回って、壊れた機械を直したりお手伝いをしてくれてるの」

 白く煙る排気煙を遠くに見ながら、少女は言う。

「ここに来てから長いのか」

「うーん。どうだったっけな」

 少女は指を頬にあて、はて、と考え込む素振りをした。


「忘れちゃった」


―――


『もし、うまく“干渉”しなかったら』

『そのときはそのときだ。別の方法になるさ』

『これ以上の、別の方法なんて』

『……何があるんだろうな。俺達には考えもつかないが』


―――


 馴染んでしまったのか。完全に取り込まれてしまったのか。おそらく二人はもう、ずっとああしているのだろう。心配ごとなど一つもない晴れやかな顔で。夏の日常を。毎日。毎日。毎日。毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日同じように。


 少しずつ、飲み込まれながら。


―――


「なんだ、アリサカじゃないか」


 しばらく集落を歩いたところで、作業服を腰に巻いた中年の男が声をかけてきた。

 アリサカも知った顔だ。

「チョウノ」

「おう、なんだ、アリサカもここに来たのか」

「ああ、ようやく来れた。今、■■■■に案内してもらってるんだ」

「今日はいちだんと暑い。もう少し涼しくなるまでちょっと家で休んでいったらどうだ。こっちも午前中に農作業を終わらせたところなんだ」

 チョウノの誘いに、アブカワはやんわり断ろうと口を開きかける。

「冷えたスイカもあるぞ」

「スイカ!」

 少女が目を輝かせた。

「ね、アブカワさん、スイカだって、スイカ! 私食べたい!」

「さっきアイス食べたばっかりじゃねえか」

「それとこれとはべつ!」


 縁側。揺れる風鈴。水滴のついたヤカン。麦茶。豚の形をした蚊取り線香入れ。

「ああああああああああああああああ~~~~~~」

 縁側の奥では、ショートジーンズを履いた女が一人、扇風機に向かって遊んでいる。宇宙人ごっこだ。

「スズキもいるんだな」

「ああ。今じゃ単なる無駄飯食らいの小娘だ」

 三人は縁側に腰掛ける。少女は出されたスイカにかぶりついている。時おりスイカの果汁がぽたりと落ちて、白ワンピースにピンク色のシミを作っていく。ぷっ、と種を庭に吐き出す。

「さすがにコートは暑いだろ。脱いだらどうだ」

「いや」

「まあいいか。お前は昔から頑固だったもんな」

「チョウノ、ここに来て長いのか」

「さあな。忘れちまった。まあ……忘れるくらいにはここがいいところだってことだ。朝早くに起きて涼しいうちに農作業をやって、昼はそうめんでも食ってから昼寝して、夕方また作業して、あとは風呂入ってメシ食って寝る。その繰り返しだが、気分はいい」

「そうか」


「チョウノさん、もう一個食べていい?」

「いいぞ。何なら俺達の分も食ってくれ」

「やったあ!」

 少女はぱっと笑顔になり、皿にあったスイカに手を伸ばす。


 少女を横目に、男二人はしばらく無言で空を見上げる。今日の空は雲一つない。夕立は降らなそうだ。

 やがてぱたぱたぱたとどこからか軽い足音が聞こえ、子供達が数人やってきた。

「おねえちゃん! 遊ぼう!」

 奥の間にいたスズキが立ち上がり、子供達の声に応える。

「ねえ、タイチョウさん、タイチョウさん。私、遊んできてもいい?」

「ああ。夕飯までには帰って来いよ」

「わかった! いってくるね!」

 スズキは縁側のサンダルをつっかけて、子供達の元へと走っていった。

「タイチョウ、ねえ」

「ずっとそう呼ばれてるんだ。もう隊長でもなんでもないがな」

「イノハラは?」

「庭にいる。帰り際にでも挨拶してくれ」

 アブカワはコートのポケットから煙草とライターを出し、一本に火をつけた。チョウノは灰皿を差し出す。

「お前は?」

「禁煙したんだ。農作業やってると、息が切れちまう」

「そりゃあ、ただのトシだろ」

「うるせえ。……それよりアブカワ、お前もここに来たってことは、そういうことなんだろ」

「まあな」

 アブカワはコップに入った麦茶を飲む。からん、と氷の鳴る爽やかな音。

「ずいぶん老けたなあ。白髪まじりじゃねえか。あれからどのくらい経ったんだ?」

「そこまで長い時間でもないさ」

「“耐えられなかった”のか」

「“耐えられなかった”な」

「そうか。いや、仕方ないさ。遅かれ早かれそうなる。俺なんていきなりだったしな。でも来てみてわかった。こんなに安心する場所はなかった。思えば“向こう”じゃ嫁にも逃げられてるんだ、未練なんてとっくに無かったんだよ」

「そういうもんか」

「そういうもんだ。今はのんびりやってる。一足も二足も先に定年が来たような感じだ」


「ごちそうさまでした!」

 少女がぱん、と手を合わせた。

「おおすげえ、半玉、まるまる食っちまったのか」

「夕飯食べられなくなるぞ」

「いいの! スイカってほとんど水分だっていうじゃない」

 少女は笑った。つられてチョウノも笑った。

「じゃ、行くか」

 コートの裾についた灰を手で払い、アブカワは灰皿に煙草を揉み消す。

「まだ暑いぞ」

「いや大丈夫だ。チョウノ、世話になったな」

「いいってことよ。どうせこの時間帯は暇なんだ」

 縁側から立ち上がり、アブカワは振り返って礼を言った。

 少女は一足先に庭から出ていった。よく動く子だ。

「ああそうだ。アブカワ。じゃあ、最後にひとつ頼みを聞いてくれないか」

 縁側から立ち上がるアブカワに、チョウノが声をかける。動きが止まる。

「お前は“まだ”大丈夫なんだろ」

「ああ」


「じゃ、俺を終わらせてくれ」


 ちりん、と風鈴の音がなる。

 じわじわじわじわじわじわじわと蝉が鳴く。


「見ただろ。スズキはもうダメだ。イノハラもダメだ。俺はまだかろうじて元に戻る時がある。そのたびに、この先にもう希望はないと突きつけられる。だから」

 チョウノはアブカワの目を見据える。

 よく見れば、チョウノの顔面は不規則に微細な痙攣を起こしていた。

「後悔とかはねえのか」

「判断は早いほうがいい。そこにお前が来た。それに俺の人生なんて、昔から後悔ばかりなんだ」

「わかった」

 アブカワが頷くと、チョウノは満足げに微笑み、懐から自分の煙草を取り出した。

「何だ、禁煙したんじゃなかったのか」

「いま止めた。“耐えられなかった”んだよ」

 チョウノは深くひとくち煙草を吸い、うまそうな顔で紫煙をくゆらす。

 アブカワがコートの内側に手を入れる。


「またどこかで会えるといいな、アブカワ」

「そうだな」


 コートから出てきたのは、銃把と銃身を切り詰めた一丁の狩猟用上下二連散弾銃。


「ああ、すげえ、青い空だ」


 ――どん、と重い銃声が、夏山の向こうまで響き渡った。


―――


『今日はいい天気ですね』

『ああ。絶好の日和だ』


―――


 チョウノの頭部がスイカのように砕け、縁側と畳敷きの間に肉片が散る。放たれた散弾の何粒かが当たったのか、近くにあったヤカンも吹き飛び、残っていた中身の麦茶がこぼれ出た。


 黒く蠢く何かに変質するわけでもない。一人の男の死体が、大の字に転がった。

どれだけ待っても、死体が何に変わることもない。


 これでよかったのか。


 次に、アブカワはチョウノの言葉を思い出して、庭の裏手に回り込む。

 家庭菜園をやっていたのだろう、そこにはよく実ったナスやトマト、インゲンがあった。傍には何本かの向日葵も植えており、その中にイノハラの姿があった。

 イノハラは腰から下が土に埋まっており、突き出た裸の上半身はよく日に焼けていた。頭部は左半分がはぜ割れていて、そこに小さな向日葵の花がひとつ咲いていた。残った半分の目が、歪んだ視線でアブカワを見る。生きてはいるが、もはや喋ることはできないらしい。


 その目が何を伝えたかったのか、アブカワにはわからない。柵に引っかかっていた軍手をはめ、イノハラに生えていた向日葵をおもむろに“摘んだ”。ぶち、みち、みちみちみち、と生々しい音がして、向日葵が抜ける。思ったよりも力は要らなかった。向日葵の根には脳片がこびりついていた。そうしてイノハラは悲鳴一つあげることもなく絶命した。


 アブカワは引き抜いた向日葵と軍手を捨て、黙って庭を後にした。


―――


 少女と共に集落を抜けるまでに、他に何人もの人間を見た。皆が“夏を満喫”していた。将来への不安も、しがらみも、煩わしさもなく。あるべき夏。理想の夏。老若男女、様々な人間が行き交い、賑わっている。誰もがこちらを見るなり、穏やかに微笑みかけてくる。


 時折、集落の隅で奇妙な“もの”を見た。頭部だけが肥大化していたり、骨の皮だけになった長身の人型など……数体の異形を見た。家の裏で壁に頭を打ち付けていたり、畑の真ん中で天を仰いだまま微動だにしないものなど、夏の風景にあって異様なそれを、しかし夏の住人はもう誰も気にすることがない。彼らもまた、夏を満喫しているようだ。あるいは“満喫しきった者の末路”と言えるのかもしれない。


「みんな、ここに来て良かったって言ってるよ。楽しそうでしょ」

「確かにそうだな。ここじゃ何の悩みもない。穏やかな夏の一日。ずっと過ごしていられる」

「コート、脱がないの? 暑いでしょ」

「いや、大丈夫だ」


―――


「アブカワさん、あそこ!」

 少女が指さす。小川にかかったコンクリート製の橋。

「おねえちゃん、泳ぐの、へったくそ!」

「ち、ちょっとまってよぉ!」

 川で遊ぶ子供達に混じって、スズキがきゃあきゃあとはしゃいでいた。

 子供達。子供達のようなもの。四人? 五人? 見るたびに人数と形が変わる“子供達のようなもの”の群れ。

「あーっ、ずるい! 私も遊びたい!」

 少女は目を輝かせる。

「いいけどお前、着替えとか持ってないんだろ。濡れると風邪引くぞ」

「大丈夫、足だけだから。それに、濡れてもすぐ乾くもの!」

 アブカワの忠告にそう応えると、少女はサンダルを脱ぎ捨て、ワンピースの裾を両手で掴みながら走っていった。


 アブカワは土手に座り込み、煙草に火をつける。箱に残る最後の一本。もう一箱くらい持ってくれば良かったか。仕方ない。俺もこれを期に禁煙するか。

 少女は子供達に手を振り、川遊びを始める。小川の真ん中で、裸足の少女は控えめなダンスを踊っている。水の流れが、きらきらと輝いている。

「ああ、青い空だな」

 チョウノの言葉をなぞる。


 ずっと頭から離れなかった景色。来るべきだった場所。理想の夏。一度考えてしまったら、もう逃れることはできない夏。


 少女と入れ替わりに、スズキがこちらに来た。着の身着のまま泳いでいたせいで、身についていた薄手のTシャツはすっかり透けてしまっている。その肌はやはりよく日に焼けていた。

「よお」

「ひどいんだよ、あの子たち。コンドウさんより泳ぎが下手なんて、私をからかうの」

「お前、他はいいけど、運動神経だけは悪かったもんな」

「アブカワさんまで! ひっどーい!」

 ぷう、と頬を膨らませながら、スズキはシャツの裾を絞る。


 コンドウもスズキもルーキーだった。チョウノというベテランに連れられた初任務、思えば不幸で酷なことだった。インシデントに巻き込まれ、そのせいで――いや、そのおかげで、三人はこの“夏”に取り込まれることになった。

「なあスズキ」

「なに?」

「ここは楽しいか?」

「もっちろん」

 白い歯を見せて、にかっとスズキが笑う。いい笑顔だ。以前に施設で見た真剣な顔つきはそこになく、今の彼女は精神年齢も退行している。

「毎日ここで遊んでるんだよ」

「チョウノはどうだ」

「タイチョウさん? いい人だよ。ちょっとイビキはうるさいけど、毎日ごはん作ってくれるし、やさしいし」

「そうかあ」

 まんまるの目がアブカワを見る。アブカワはその瞳を見返す。


 スズキの左目はぎょろぎょろと不規則に動いていた。瞳の奥がくすんだオレンジ色に変色していて、光彩は奇妙なマーブル模様を作り出している。


「アブカワさんも、やっとここに来たんでしょ。いつでもうちに遊びにきてよ。タイチョウさんも絶対喜ぶよ。ごはんの時とか、たまに私にお話してくれるもの」

「そうだなあ。じゃあ、また行くよ」

「やったあ!」

 スズキがぴょんと飛び跳ねた。向こうを見れば、子供達がこちらに手を振っている。

「あっ、じゃあ私、もう一泳ぎしてくるね! もっと練習するんだ。コンドウさんにはまけないんだから!」

 すくっと立ったスズキが大きく伸びをし、橋の方へと歩いていく。


 アブカワはコートから再び散弾銃を取り出し、スズキの背中へと銃口を向ける。

「……」

 しばらくスズキの背中へとその銃口を合わせ続け――やがて銃を静かに下ろす。


 煙草を夏草で揉み消す。そして立ち上がり、少女に声をかけた。


「おい、■■■■! そろそろ行こうぜ!」


―――


『そろそろ、ですね』

『ああ。じゃあ、やるか。今はただ……うまくいくことを祈るしかない』


―――


「秘密の場所、教えてくれるんだろ」


 焼けたアスファルトの上で、少女は楽しそうに、軽やかなステップを踏んでいる。

 その背中を見つめながら、アブカワは言う。

「うん。アブカワさんは特別だから」

 てん、てん、と軽くステップを踏み終え、背中越しに少女は応えた。

「ありがとうな」

「あの場所は、今まで誰にも見せたことないの。本当だよ。でもアブカワさんは行きたいって言ってくれた。だから教えるの。やっと来てくれたんだもん。もっとここを気に入ってもらわなくちゃ」


 二人は行く。集落の外れ、そこだけが小高い地形になった森の中。木漏れ日の差す古い神社。境内の裏――そのさらに先。草木をかき分け、進んでいく。夏の秘密。村のみんなも知らない、あの少女だけの、お気に入りの、秘密な場所。教えてほしい、と言ったら、少女はあっさりと答えてくれた。

 ああ、もうすぐだ。もうすぐ。


 やがて木々の間から、鮮烈な“黄色”の群れが見えてきた。


「ずっとここに来たかった。ずっとお前のことを想っていた」

「私も、ずっと来てくれることを信じてた」


 いちめんの■■■畑

 いちめんのひまわり畑。いちめんのひまわり畑。いちめんのひまわり畑。


「行ったこともない場所。見たこともない景色のはずなのに、どうしてこんなに憧れるんだろうな」

「みんな、それを望んでいるんだよ。望んでここに来たの。そうさせているのは自分自身なの」


 いちめんのひまわり畑。いちめんのひまわり畑。いちめんのひまわり畑。

 青い空の下、黄色と緑と茶色、大小の向日葵が咲く。美しい、現実離れした、絵画のようなコントラスト。山々の中にあって、向日葵畑は遙か向こうまで広がっている。


「みんな、楽しそうでしょ」

「お前はどうなんだ」

「もちろん、楽しいに決まってるよ」

「ああ、そうだ。この光景だ。お前のことが頭から離れなかった。ずっと、十年前から、いや、もっと前から――■■■■のことを」

「私も。アブカワさんのことをずっと想ってた。本当だよ」


 来て、と手を引かれ、アブカワは少女とともに向日葵畑の中へと向かう。

 この暑さのなかで、その細く白い掌はしかしひんやりと冷たかった。


―――


 いくら記憶処理をしても頭から離れなかった。

 アブカワは浸食されていく精神の中で、どこか冷静にその感情を分析していた。

 それは衝動的で、慢性的で――考えてみればひどく単純だ。“夏になったら、いい場所に出かけたくなる”。“夏らしいことを満喫したくなる”。たったそれだけ。それだけなのに、日を追うごとに想いはいよいよ増幅していく。


 夏だからな。出かけたいよな。それにあの子にも会える。一度想ってしまえば、それからの一日一日がひどく長く感じた。衝動を抑えるのも、いよいよ限界だった。


 だから、ここに来た。


―――


『なあ』

『はい?』

『お前、あそこに……あの“夏”に、行ってみたいと思うか?』

『いいえ。僕は死んでもゴメンです』


『だよな』


―――


 白ワンピースに麦わら帽子の少女がくるくると踊る。

人の背丈ほどもある向日葵畑の中で、まるでステージの上にいるかのように、少女ははっきりとその姿を見せている。さっきまで、160cmにも満たない背丈だったはずなのに。

「この夏はすべてをかなえてくれる。この夏は永遠だから」

 これが現実なのかそうでないのか。アブカワにはもはやどうでもいい。

 無数の向日葵に囲まれた中に――自分と、少女だけがいる。


「アブカワさん、コート脱いだら?」

 少女は両手を広げる。日光に透ける白ワンピース。

 細くしなやかな肢体のシルエットが露わになる。

「そうだな。“夏”だもんな」


 アブカワはコートを脱ぐ。同時に散弾銃を抜き、少女へと突きつける。

 少女はそれを見てなお、まったく動じることはない。

 両手を広げたまま、にこにこと太陽みたいに笑う。

「私、あなたのこと、大好き」

「俺もだよ」

 アブカワはトリガーを引――引けない。指が動かない。人差し指にほんの少し力を込める。それだけなのに。

「……」

 つつ、と銃身を少女から逸らす。その瞬間、人差し指に力が入り、銃声と共に散弾が放たれる。

「みんな、ここには来なかったの。ここに来れば永遠になれるのに。ずっと、夏でいられルのに。望めば、すぐなのに」

 放たれた散弾は向日葵を引き裂き、弾けさせ、破壊する。花びらが、種が、茎が、ふわりと宙に舞う。

「不思議だよな。こんなに、最高の場所なのにな」

 額から汗が滲む。シャツの袖で汗を拭い、アブカワはスラックスのポケットから新たに二発のシェルを取り出す。シェルには『FLARE』の文字。


「アブカワさん。私と、ひとつになろ?」

 少女は笑う。笑う。ただ笑う。

「この夏はとってもあまいよ」


「……夏といえば、まだ見てないものがあったな」

「うん」

 アブカワは再び上下二連散弾銃の銃身を上げた。そのまま銃口を少女――ではなく、真上に向ける。

「花火だ。まだ、お前と一緒に見てない」

「まだ昼なのに?」

 くすくすと笑われる。

「夜まで、待ちきれなくなっちゃってな」


 ど、どん、と続けて二発、アブカワは照明弾を打ち上げる。

 撃ち終えた散弾銃を足下に捨て、アブカワは少女の元へと歩み寄る。

「ずっと、お前と一緒になれる時を夢見てたんだ」

「うん。いいよ。来て」

 見上げるほどの背丈があったはずの少女が、いつの間にかアブカワと同じ丈にまで戻っている。


「私と、ひとつになるの。それはきっと、すごく、きもちいいこと」


―――


『照明弾が二発! 見えました。座標、送信します』

『了解。偵察機は大至急離脱しろ』


―――


「あっ!」

 小川で遊んでいた子供達が空を指さす。川から上がったスズキも空を見る。

「わあ」

 みんなで目を輝かせる。


「飛行機雲!」


 彼らは川遊びを止め、青空に白く尾を引くそれを、いつまでも見つめていた。


―――


 青い空、低く小さなジェット機の音が、蝉時雨に混じる。


 暑く、静かな夏の縁側。灰皿の吸い殻。飲みかけの麦茶。

 畳に転がったままのチョウノの死体には、無数の蠅がたかりはじめている。


 ちりん、と風鈴が鳴る。


―――


『安全圏まで離脱』

『了解』

『これで、本当にうまくいくんでしょうか。人を……犠牲を、払ってまで』

『大丈夫だ。きっとうまくいくさ』


―――


「また素麺かよ!」

「しょうがねえだろ、お中元のあまりだっつって、バアチャン達がくれるんだから」

「まあ美味いからいいけどよ。そろそろめんつゆも無くなってきたぞ。そういえば、あの野菜はどうした?」

「トマトだけ切った。味付けなんてよくわからんけど、塩かけりゃイケんだろ」

「料理かそれ?」

「素材の味ってやつだよ」

「いや、もっとこう、豪華なサラダとか……まあいいや。んじゃ食うか」

「ああ」

「はやくミツダも来ねえかな」

「そうだな」


 窓の外、伸びた飛行機雲の白い線が、やがてゆっくりとほどけていく。


―――


『座標確認。“デイジーカッター”投下。あの忌々しい向日葵どもを薙ぎ払ってやれ』


―――


 向日葵畑の真ん中で、二人は抱き合っている。


「うれしいな。私も、ずっと憧れてたんだよ。キスをして、ひとつになって。私達、ずっといっしょになるの」

「そうだな」

「アブカワさん。私に、もう一回、好きっていって」

「ああ」


 少女の麦わら帽子を取り、強く抱きしめる。


 夏。理想の夏。正しい夏。青空の下、のんびりと穏やかな時間が流れ、無邪気に遊び、暑くなったら昼寝をする。あの子と一緒に。いつまでも、あの子と一緒に。

 ずっと、終わりは来ない。いつまでも終わらない、最高で、永遠の夏。


「■■■■。ずっとこの時を待っていた」

「うん」

「俺もお前に言いたいことがあった。だからここに来た。今、言うよ」

「うん」


 終わりは来ない。

 来ない。


 来ないならば――しかし――“終わらせる”しかない。


 アブカワは少女の耳元で呟く。


「くたばれ」


 数十メートル上空。数千Kgの爆薬が、パラシュートと共にゆっくりと降下する。

 二人はもう、それを見上げることもない。




 “夏”を終わらせる花火が咲いた。

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