あの夏に向かって
午後四時半。“夏”の空はまだ明るく、山道のカーブミラーが太陽光を反射している。
ヒグラシの鳴く声が、山中に響き渡っている。
「あー」
山奥へと続く道沿い。ペンキの剥げた手すりに寄りかかっていた女は煙草を吸い終え、後方へと吸い殻を放り投げた。吸い殻は放物線を描き、その下の小川へと消える。
「海行きてー」
海か山かと言われればもちろん海派。ビールを飲み、バーベキューをし、グダグダになるまで騒ぐのが好きだ。それが彼女にとっての夏である。
名はホトハラ。野暮ったいメタルフレームのメガネ、耳まで隠れるボブカットの黒髪と鋭い目つきが特徴の女。
「やっぱ山はクソだな。暑いし面白くねえし」
ぱちん、と二の腕を叩き、ネイルアートの輝く爪でぼりぼりと掻く。
「蚊もいるし」
「海、海ッスか。いいですよね、へへ」
横にいたもう一人がうわずった声で答える。
「私も行きますよ、夏の海。今年も。任務が終わったら」
くぐもったような声で含み笑いをするもう一人の女。
名はエバ。ケアのされきっていないボサついた長髪とギザギザの歯……そして180をゆうに超える身長と長い手足が特徴の女。二人の身長差はほとんど大人と子供のそれである(階級は一応ホトハラが上)。
「マジか。お前、オタクなのに海行くのかよ。湘南? 横須賀?」
「有明」
「ハァ?」
ピピ、と腕時計のアラームが鳴った。
「おいエバ、そろそろ時間だ」
「了解ッス、センパイ」
二人はポーチから錠剤を取り出し、口に含む。
「ん」
ホトハラが顎で促すと、エバは背中に背負っていた“保冷バッグ”から190mlのアルミ缶を二つ出し、一つをホトハラに渡した。
ほぼ同時にプルタブを開ける。プシュ、と小気味よい音が“夏”の山中に響く。
「もうさすがに飽きたな。クソ甘いんだよコレ。そろそろビール飲みたくなってきた」
二人は口に含まれた錠剤ごと缶の中身を一気に飲み干す。黒い缶には『カフェイン・アルギニン増量(当社比)』『エナジー全開』『ハマる爽快感』というコピーと共に、緑の爪痕のようなシンボルが書かれている。
「まあいいや。これで二回目の服用はオーケー、と」
ホトハラは手元のメモにチェックマークをつける。
「お前、カネ入ったら何に使う?」
「私は有明でパーッと」
ギザ歯の間から空気が漏れる。エバはキシキシと笑う。
「何だ、水着か酒か。ああ、肉でも食うのか。アタシも服と……ああライブだ。ライブのチケットだな」
「いいッスねライブ。サイリウム持ってグッズ買って」
「……サイリウム? ま、任務が無事に済んだらな」
「そッスね」
山の向こう、どこからか太鼓と笛の音が聞こえる。
――どこかで、夏祭りが。
だが、二人は特に気にすることもなく会話を交わす。
「しかし遅いッスね」
エバが時計を見た。
「十分経ったら捜索と“介入”だったか。めんどくせぇな」
「あ、帰ってきた」
道の向こうから男が一人歩いてきた。
セルフレームのメガネをかけた、三十代そこそこの、生真面目そうな男だ。
「待たせたね」
男は――ヒルタは手を上げて、メモと地図をリュックにしまう。
「もうちょっとしたら介入するトコだったんスよ」
「あそこは思った以上に資料が豊富だった」
ヒルタは決意も新たに、メガネを取り出したハンカチで拭き、かけ直す。
ホトハラはぐっと伸びをして、寄りかかっていた手すりから身体を起こす。
「――で、何かわかったか、センセイ?」
ホトハラのメタルフレームが、太陽の光に反射した。
―――
――また向日葵が増えた。
これ以上拡大が広がれば、この施設も飲み込まれてしまうかもしれない。
ハチスカは心底この“夏”が憎らしくなってきた。
日本の四季は美しい。
秋が訪れ、冬が来て、そして春になる。次に待つのは夏だ。
夏は始まり、やがて終わりを迎える。それが四季だ。
だがこの“夏”は終わらない。ずっと終わらず、“夏”は続いている。
終わるはずのものが終わらない。それは――地獄だ。
ハチスカは考えた。どうすればこの“夏”を終わらせられるのか。
本格的に夏が来るまでに決着をつけなければならない。
だから彼は一つの作戦を決行に移した。周囲の反対や心配する声を押し切り、調査し、準備に準備を重ね、協力者を募った。
もっとも影響力の低くなるであろう時間帯を見い出し、そこにかける。何が起こるかわからない。誰も知らない。だがやるしかない。あの区域に根付く何か。異常の原因。正体。そこに可能性があるなら切り開く。一気に浸透し、あの向日葵を根ごと引き抜く。
(あの三人が、うまくやってくれれば)
賽は投げられた。やるだけのことはやった。ハチスカに出来ることはもうない。
―――
ほんのりとオレンジ色に染まりだした空の下、三人は山奥へと続く道を歩く。かつて県道と呼ばれた道は、狭くひび割れながらも整備はされていた。まるで誰かが手入れしているかのように。
「あのダムが出来たのが1984年。五年前には村民の立ち退きが済んでいる。そのあたりは台帳でも見れば分かる。でも、あの村で何が行われていたのかはわからなかった」
ヒルタはずんずんと道を歩きながら、得た情報を整理するように話を続ける。
「ダム建設の反対運動はひときわ熾烈だったらしい。閉鎖的な村だったようでね」
「アタシからすりゃ、こんな山の中に住み続ける神経がわかんねえな」
「テレビもないし」
「ケータイもつながらねえ。何がおもしれえんだか」
「それはともかく。閉鎖的な村といえば――で、まず調べたのはあの村の風俗だ」
「フーゾクぅ?」
ホトハラは下卑た笑みを浮かべ、メガネの弦を指でなぞる。
「因習だよ。しきたりとか、独自の文化とか。でも県庁には資料が無かったんだ。だから民俗資料館跡が発見できていたのは幸運だった」
以前の調査において、この区域から民俗資料館跡が見つかっていた。
だが場所は区域の奥深くだったため、一度発見できたままなかなかその後の調査が進まず、しかも資料自体もほとんど持ち出すことができなかった――というのがこれまでの経緯だ。元より、この場所から何かを持ち出すのは危険が伴う行為である。
だから今回は、現地調査に踏み切った。
「――“夏”のクソ現象やらワンピースの女の目撃例やら、その原因はあのダムから沸いてると」
「ダムとダム湖を中心にこの“夏”は広がっている。そして“夏”はほとんどが昭和の風景として形作られている。ここに原因があるのは間違いない」
「それは見りゃ分かる。土くせえクソ田舎だ」
資料を紐解くまでもなく、そのあたりは地図を見れば一目瞭然だ。それは施設の研究者も早くから仮説を立てていた。問題は“何故そうなったか”だ。
「んで、あの資料館で何かわかったんスか」
「結論から言えば――特に気になる因習はなかった」
「ハァ?」
ホトハラが怪訝な声をあげる。
「なんスかそれ??」
「これが生贄の儀式でもあれば話は簡単だ。僕だって知識をフル活用できる。でもあそこはいたってまともだった。でも百年前ならともかく戦後日本の――昭和の時代にそんなものが残ってるなんてあり得ない。ファンタジーや伝奇モノの小説じゃないんだ。普通に電気も通っていたし、テレビもラジオもあった。よくある田舎の村だよ」
「なぁンだそりゃ? なら――」
「いや待ってほしい。ここからが本題だ。あの村には差――おっと」
ヒルタは時計を見た。5時過ぎ。
「……しゃべっていたら時間が過ぎていたみたいだ。僕もそろそろ飲まないと」
「早く飲んじまえ」
ヒルタもまたポーチから錠剤を取り出し、ボトルの水で飲み込んだ。
「そろそろ区域の中心部だ。狂ってなんかいねえよな、センセイ?」
「大丈夫」
「変な声とか」
「それも問題ない」
「さすが“能力者”サマだ。頼むぜ。アタシ達はセンセイを守ることだけが任務なんだ」
―――
ヒルタ。民俗研究家にして、霊能力者の血を継ぐもの。
彼の協力を得られたのは幸いだった。
あの区域を探れば探ろうとするほど不可解な現象に見舞われる。謎が謎を呼ぶ。そうこうしている間にも行方不明者は増えていく。もはや限界がある。なぜそうなってしまったのか。呪いか祟りか。口に出せば荒唐無稽な話だ。しかし今はその可能性すらも視野に入れる必要がある。
区域の中心地にあるダムは、昭和末期、ひとつの村を湖に沈めて作られている。そこに鍵があるのではないか。だが、そこからが分からなかった。だから専門家に協力を仰いだ。
「あの区域から来る“瘴気”はあまりに強い。対処しなければ早くに広がっていくでしょう」
ヒルタは快く協力してくれた。実のところ、さんざんに他をあたった結果の人選でもある。ある者は区域に入ろうとすらしなかったし、ある者はそもそもまともな話すらも出来なかった。たまたまヒルタという人格者にあたったのが、偶然にして幸運だったのだ。
「それに、ダムに沈んだ村にも興味があります。これは単純な民俗学者として」
もちろん完全に信頼しきっているわけではない。ハチスカは霊能力者というのはペテンと紙一重の存在と考えている。もし本当に能力があって、あの異常現象を“祓える”ことができれば一番。そうでなくてもルーツさえ掴めれば勝機はある。本業の、民俗学者としての力を発揮してくれさえすればいい。
任務――いや、“作戦”は今回一度きり。忌まわしき“夕立”“に合わないよう出発は遅い時間を選び、特別に調薬した向精神剤と……そして――。
まもなく三人は目的地に着く頃だろうか。
―――
『この先 ■■■ダム』
道の脇にかすれて見えない看板があった。その横を三人は通り過ぎる。
「あそこにあった資料、実は、ほとんどが読めなかったんだ」
「センセイのくせに?」
「いや、解読できるできないという話じゃない。ここにあるものは何もかもが狂っている。それは聞いていたけど、資料館も例外じゃなかった。グチャグチャに書き散らされた落書きやら、ねばついた何かに覆われた巻物やら、文字の形を成していない何かの書かれた本やら。そんな“ありえないもの”がゴマンとあった」
「ゲェ」
ホトハラは不愉快さを隠そうともせず、舌を出した。
「よくそんなバッチイのの中で探し物してたッスね」
「それが役目だからね。で、本題なんだが」
ホトハラが再び時計を見る。
「――と。到着予定時刻にゃちょっと早いな。もう一回休憩だ」
「センパイ、私、まだ全然イケますけど」
「時間調整だ。……それに、アタシも一服してえ」
追い抜き用のスペースを思しき場所を見つけ、三人はそこで小休止を取る。日が陰り、あれだけ暑かった空気も少し和らいできた。しゃわしゃわしゃわしゃわとヒグラシの鳴く声が穏やかに三人を包む。
「助かるよ。正直、僕はちょっと息が切れてた」
「よくもまあ、そんだけお喋りしながら歩けると思ってたぜ。おいエバ、“持ち物”の点検でもしててくれ。アタシのも頼む」
「了解ッス」
「迂闊に取り出すなよ。“刺激するな”ってハチ野郎の言うこと、一応聞いとけ」
二人分の“保冷バッグ”を軽々と持って、エバは少し離れた場所へ行く。ホトハラがメガネをシャツの裾で雑に拭こうとすると、ヒルタがハンカチを差し出した。
「僕が言えたことじゃないけど……ホトハラさん達も、こんな場所でずいぶん冷静なんだね」
「エバはどうか知らないが、アタシはただクスリでキマってるだけだ。本当は一刻も早くここから抜け出してえ」
「怖いから?」
「暑くて虫が多くて、クソうざったいからだよ。……あー、センセイも吸うか?」
ホトハラはハンカチを返すついでにポーチからメンソールの煙草を取り出し、軽く振ってヒルタに差し出す。ヒルタは一本を受け取り、火をつける。
紫煙がゆらりと煙る。
「さて――何度も話を区切ったんだ。アタシにも本題とやらを聞かせてもらおうか」
―――
「これ、見てくれないか」
ヒルタは一枚の写真をホトハラに見せた。
「だいぶ薄れていやがるな」
ホトハラは目を細める。写真はどこかの家の家族写真のようだった。古い家の軒先に、数人の男女が立っている。
その中に、明らかに異様な人型がいた。
「……」
家長と思しき中年の男性。その横に、おそらく妻。そしてさらにその横。誰よりも高い身長の女が写真の隅に佇んでいる。白いワンピースで、麦わら帽子をかぶった女。並の身長ではない。2mは超えている。
「この写真だけ、資料館の机にこれみよがしに残っていたんだ。まるで誰かに見つけてほしくてわざと置いたかのように」
「こいつが」
「君たちの目撃している怪異、の元だろうね。この娘の正体ははっきりしている」
「マジか」
「……こんなデカいなんて、報告例にもなかったみたいだが」
独りごちる。何か疑念が残る。
「この村には――いや、たぶんこの村だけじゃない。小さな集落には多かれ少なかれあるものだけど――差別があった」
もっと遊びたいの
あの夏 交わした約束
覚えてる?
ヒルタは情報整理も含めて話を続ける。
この高身長の女はいわゆる“忌み子”であったという。知恵遅れ。あるいはキ……それ故に、家族は世間体を気にして娘をほぼ軟禁状態に置いた。それでも娘はたびたび家から抜け出しては、一張羅のワンピースを着て村を歩き、そして。
「かたっぱしから、村の子供に声をかけたりしていたらしい」
「迷惑な奴だな。で、何だ。実はそいつが悪魔の子でした、とかいうオチか?」
「いや別に」
「なぁんだそりゃ」
「言っただろう。ファンタジーや伝奇じゃないって。生け贄にされたわけでも呪いを起こしたわけでもない。ただ“あの家にはおかしな娘がいた”って資料が残ってただけさ。頭がおかしい女がいるから、村のみんな――特に男児――は、あの家に近寄らないようにしましょう、ってね。古い因習だけど、よくある話さ」
「しまらねえな。だが事実、そいつと同じようなのを探索部隊の連中は目撃してる」
「そこなんだが」
ヒルタは一息おいて続ける。
「ダムの建設が決まって村が沈むって決まった時、その家は最後まで抵抗を続けていたようだった。自分たちが生まれたこの土地から出て行くものか、ってね。特にあの娘はほとんど発狂状態だったらしい。よっぽどこの村が好きだったのか」
「村の連中からクソみたいに扱われて、それでも村にこわだるなんて、イカれてんな。アタシだったら、そんな村が沈むって決まったらせいせいする」
ホトハラは煙草を持っていない方の二本指で前髪をいじりながら呟く。気になるらしい。
「人間、なかなか簡単に生活を変えられないものだよ。村から出て行った先で状況が改善する確証もないっていうなら、なおさらね」
「アー、よし、オチがわかったぞ。そいつがイカれたまま死んで、村ごと沈んで、それでその怨念が――ってやつだろ」
■■■よ
「いや、生死もわかってない」
「何から何までしまらねえな!」
ホトハラはがくっと肩を落とし、煙草を踏み消す。
「そんなものだよ。ところでホトハラさん、“生き霊”って聞いたことがあるかい」
「いや」
■■うよ
私、遊びたいの あの子たちと
「――単純だよ。例え死んだりしていなくても、人間は霊になる。執着する心があればね」
―――
遊ぼうよ
こっちで いっしょに
―――
手にした写真は、まるで出来損ないのポラロイドのように、急激に色あせていく。
■■うよ
まだ遊びたりないよ それだけだよ
「消えかかってんな」
「……あの資料館、どう考えても資料の提示のされ方が意図的だった。この写真も」
「貸せよ」
ホトハラは写真を取ると、端からライターで火をつけた。熱でフィルムがにじむ。やがてにじみは波のように広がり、家族の肖像を溶かし、浸食していく。
消し炭になった写真はふわりと風に舞って、どこかへと飛ばされていった。
あそびこないの?
「センパイ、終わったッスよ」
「ばっちりか」
「ばっちりッス」
「じゃ、ご対面と行くか。覚悟キメろよ」
―――
また遊ぼうって約束
おぼえてるよ ここにいるよ
■■■畑がひろがって
きもちいい
きみも覚えてる ぜったいわすれない
なつ
キスをして ひとつになって
―――
午後五時半。夕暮れ時。
「ワア。超エモエモじゃないッスか」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ」
かつてはそこが村の入り口だったという、ダム底へと続く道を見て、エバが奇妙な台詞を吐く。ダム底に沈んだ村。かつては人が住み、田畑があり、家屋があり、営みがあった。それらは人の手により消滅した。夕日に照らされ、ダム湖の水面はきらきらと光っている。
三人がいるのはダムの天端、そのさらに端。
まだ観光地化など考えてもいない頃のダムだ。当然一般人を入れるための施設などなく、ダムはひっそりと山の奥に佇んでいた。使われたのはせいぜい二十年あまり、異常区域の発生によって放棄され、今では管理する者もいない。
「ひときわ強い瘴気を感じる」
「アタシは何も」
「私もべつに」
「わかった。……じゃあ、二人とも下がっていてほしい」
ヒルタはそう言って、荷物から小さな置き台や、いくつかの小道具を取り出す。
大幣、塩、蝋燭立て。それから色々。ヒルタの顔が険しくなる。民俗学者の顔はそこになく、決意に満ちた視線はまっすぐに前を見据える。
ホトハラとエバはヒルタの“式”の準備を見守りながら、少しだけ肩を寄せた。
「ホントにうまくいくんスかね」
「知るか。ともかくまだ動くなよ」
「面白いッスね、こういうの」
「センセイの力を見せてもらおうぜ」
―――
なつかしい景色
みんな思い出すの
きおく
おぼえてないの? みんな
帰ってくる
―――
おぼえてるよ
いっしょにみた
いちめんの■■■畑
―――
ひぐらしの鳴く声がぴたりと止む。
「出てきてくれ。そこにいるんだろう」
天端、欄干の上。女が一人。
―――
■■
―――
白ワンピース、麦わら帽子をかぶった女。異常なほど背の高い女。
「姿を現したか、■■■■」
ヒルタが何かの名前を呟く。二人には聞き取れない。
女は首をかしげ、ヒルタのほうを見る。ヒルタは女を睨み返す。
「ここに未練があるのだろう。自分の生まれた土地を追われた、その無念は痛いほどにわかる。だが、こんなことをしても誰も幸せにはならない。それをわかってほしい、■■■■」
■■うよ
二人からは女の表情は見えない。
女は突然、欄干から飛び降りた。
「げえ」
「ウェッ」
「まて!」
どぼん、とダム湖へ身を投げる音が響き渡り――逆の欄干に、女が再出現する。
うれしい!
きてくれた 約束
覚え
て
てくれた
もう一度飛び降りる。どぼん。どぼん。再び現れる。
「君の心は、いつまでもここに縛られていてはいけないんだ!」
どぼん。どぼん。どぼん。
どぼん。
「話を聞いてくれ! ■■■■!」
どぼん。
どぼぼぼぼぼぼぼぽぽぽぽぽぽ
ワンピースの裾が風に揺れる。懐かしさに微笑む。ずぶ濡れのワンピース。雨に降られたあとの匂い。あの日の記憶。かわしたやくそく 白い肌。黒い何か。影。微笑む■■
「思い出に浸るな! 皆を不幸にするのはよせ!」
ヒルタが大幣を振り、なにかの文言を唱え始める。女は身投げと再出現を繰り返しながら、徐々にヒルタの元へと近づきはじめる。
「もろもろまがごとけがれあらむばはらいたまえ! きよめたまえ!」
一気呵成に文言を読み上げるヒルタの肌に汗が滲む。
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
―――
■■うよ
―――
やがて女はヒルタの目の前に立つ。
「……■■■■」
静寂が訪れる。
「もういい。わかってくれただろう。大丈夫だ。ここにも君のことを心配する人達がいる。きっと君の帰りを待っている人もいる」
ヒルタが文言を読み終え、顔を上げる。
ぽん、と音がした。
「?」
「ウェ?」
ヒルタの首から上が、一輪の向日葵に変わっていた。
―――
ちがうよ
このひとなにぶつぶついってたの
―――
あそびたいのに
遊んでくれないひと 約束してないひと
「はは」
ずれたメガネを直すでもなく、ホトハラの口から笑いが漏れた。
「あー」
エバがギザ歯を剥いて、奇妙な声をあげた。
首から上を向日葵に“すげかえられた”ヒルタは膝から崩れ、その場に倒れ込む。
並べられていた“お祓い”用の道具が、音を立てて散乱する。
この人、遊んでくれないの きこえてなかったの
ひぐらしのこえが、再び。
しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ。
しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ。
女がゆっくりと歩き出す。ヒルタの首(ひまわり)を踏み潰し、残る二人のほうへと寄っていく。背の高い女。年の頃は十九、二十。透き通るような肌。やけに長い手足。黒くよどんだ澱が垂れる眼窩。裾からのぞく――。
いや。白ワンピース麦わら帽子のお姉さんだ。
―――
夏の記憶
思い出
ないの?
なつかしいの
わかんない?
―――
「まあ」
「ええ」
女を前に、二人は顔を見合わせた。
「見ちまったな」
「見ちゃいましたね。概ね予想通りッスか」
「まったく」
―――
おはなし、聞こえない?
―――
きししししし、とエバが笑う。
「いやあ……白ワンピースに麦わら帽子。ついでに高身長で巨乳のお姉さん? 属性盛りすぎ。エロゲのキャラでも今どきこんなステレオタイプなのいねえって感じで」
「相変わらず意味わかんねえこと言いやがってこのオタク女が」
「センパイもエロゲやってみたらどうッスか。今度オススメのやつ貸しますよ。ちょうど、こういう夏の――」
「死ね」
ひぐらしの声に混じって、どこからから夏祭りの囃子が聞こえる。空はオレンジ色に染まり、どこかでからん、と氷の入ったグラスの音。
夏が。
夏が二人を包んでいく。
「しっかし、あのハチ野郎。こうなるとわかっててやりやがったな」
「いやあ、性格悪いッスね。あの人、無駄死にじゃないッスか」
おねえちゃんたち どこからきたの? こっちおいでよ おいでででででで祭り囃子に混じって子供達の笑い声が聞こえる。おまつり やってるんだよ いっしょにいこうよ おねえちゃんたちも みんなで「エバ。アレの出番だぞ」わたあめ かきごおり かきごおり ブルーハワイ きんぎょすくい いっしょにあそぼぼぼぼぼぼ「了解ッス」ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼきゃはははははは
背後に子供達。正面にワンピースの女。
――銃声。
―――
? ■■? しらない
■■■■
縺翫?縺医■繧?s縺昴l縺ッ縺?▲縺溘>縺ェ縺ォ
―――
エバの両手に握られていたリボルバーから、白く一筋の煙が上がっていた。
撃ち抜かれ、頭部を吹き飛ばされた女から、麦わら帽子がふわりと舞い飛ぶ。
「つーわけで」
ホトハラはおもむろにバッグから何かの機器を取り出し、スイッチを入れる。
しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわと鳴くひぐらしの声をかき消すように――大音量のドラムンベースが、機器から――持ち込んだラジカセから響き渡った。
「プランBだ」
―――
憧憬。あるはずのない、懐かしい記憶。交わしたはずのない約束。思い出を書き換え、やさしく誘う声。あの“夏”はそうやって人々を捕食していく。記憶にとらわれた人間は、その身を夏に変えて消失する。
もしも、それに抗ったらどうなるだろう。ハチスカはそう考えていた。
だから作った。懐かしさに抗うことができ、憧憬を踏みにじる……“まったく夏に興味がない”人間を。
二人の素材を見い出し、記憶の強化と薬物によるブーストをかけ、投入した。
あの“夏”に。あの“夏”に理由があるなら。話してわかる相手ならそれで良かった。
だが“話しても通じない相手”なら? 理由など――ないとしたら?
むしろハチスカにとっては、それこそが本命だったのかもしれない。
二人に任せた任務は二段階。
第一段階はヒルタの護衛“のみ”に徹すること。
そして失敗した場合の第二段階(プランB)。浸透した区域の深部にて夏と相対し、それを破壊する。
作戦名“晩夏バスター”。
―――
・“正しい夏”を想起させるもの。昔懐かしい風物詩。夏を彩るもの
麦茶の入ったヤカン。かき氷機。風鈴。扇風機。スイカ。麦わら帽子。虫取り網。
・“正しい夏”にあるはずのないもの。田舎の風景にあってはいけないもの
エナジードリンク。EDMミュージック。パリピ。オタク。.45-70弾五発を装填するステンレス製フレームの大口径マグナムリボルバー。
ホトハラとエバは胸元から一本のアンプルを取り出し、迷いなく二の腕に打ち込む。精神汚染に対しさらに抵抗する強い薬だ。
「クスリにクスリ。寿命、三年は縮むッスよねコレ」
「いまさら二年も三年も変わんねえだろ」
ホトハラはかけていたメガネを投げ捨て、バッグから取り出したラジカセ(1989年製。単1電池四本使用。本体1.5kg)のボリュームを一気に上げる。耳を裂くような大音量で、ノリの良いEDMが鳴り響く。そして自らの髪――大人しい黒髪のボブカット――を掴み、一気に取り払った。
「問題は」
大人しい黒髪のウィッグに隠されていたピンクメッシュの金髪がほどけ、風に舞う。さらに耳には大量のピアス。
「生きて帰れるかどうかだ」
――憧憬を理解しないもの。
――情緒を破壊するもの。
――絶対的抵抗力を得て“夏”に立ち向かうもの。
ヒルタという囮を用いてぎりぎりまで隠し通し、そしてぶつける。
これがハチスカの持論であり、手段だった。
「アゲてこーぜ」
―――
おねえちゃん
きこえないよよよよよよよおぼえてるはずだよ みんな おまつりに
「うるせぇ!」
ホトハラは背後の子供の“影”に蹴りを入れる。
おねえええねねねねねぼぼぼぼぼべべ
べべおままつつつつつぼぼべべべべべぼぼぼぼ
まとわりつく影は輪郭がぼやけだし、囁く声もやがてノイズが混じりはじめる。気味の悪い嬌声とノイズを、さらにEDMの爆音が塗り替えていく。
「やっぱり音質が悪ィ! クソ不便だな、このカセットテープってやつは!」
ぼやきながらもホトハラはもぞもぞと動く影の一体を掴み、力任せに引きちぎる。そして千切れた上半身と思しき塊を投げ捨て、ダム湖へと放り込む。
「私物のスピーカーなら、もっと低音がキくやつがあったんだけどな!」
調査の結果“区域”に持ち込めるものには限りがあることが判明している。持ち込めないものの多くは2000年代の電子機器……主にケータイやビデオカメラ、MP3プレーヤーなど――要は昭和の夏にふさわしくないもの――である。カセットプレイヤーならいけた。そして、そこに録音されたものまでは“夏”の想定外だった。
この懐かしい景色の広がる場所に、ホトハラは最新のイカしたダンスミュージックシーンを持ち込むことにした。これは彼女自身のアイディアだ。怪異に効いているかはともかく、二人の精神汚染抵抗という面において、それは功を奏しているように見えた。
へんなの
約束したじゃない。もういちど
あのばしょで会おうって
ここじゃない ここ ここで
もうないの あそこ
ぽん、と音を立ててホトハラの足下に向日葵が咲く。ホトハラは容赦なくそれを踏み潰す。気づけば、ダム天端のアスファルトを突き破るように、いくつもの向日葵が咲き始めていた。1mを切るものから2mをゆうに超えるものまで、大小の向日葵が。
夏の夕暮れ。ひぐらしの声。吹き抜ける爽やかな風。きらめくダム湖の水面。夕日のオレンジに反射するリボルバーのステンレスフレーム。咲くはずのない場所に咲く向日葵。蠢く影。異様な匂い。高らかなEDM。夏がバグっていく。
「へっへへへへへへ! 巨乳のワンピースおねえさんがダメなら今度はショタッスか! つくづく攻めたチョイスッスね!」
「オタクは黙ってろ! そのバケモン、まだ動いてるぞ!」
あそぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぽぽぽぽぽぽぽ
吹き飛ばされた首から、蛆のようにうぞうぞと蠢く黒い集合体が流れ出している。そのうちの一本が天高くしゅっと伸び、ひらひらと舞っていた麦わら帽子をキャッチした。
おねえちゃん! 思いいいいいい出したたたたたた?
やかんむぎちゃ っくす
「こちとら、こんなネットも電波もないクソ田舎に用事なんかねーんッスよ」
もう一度トリガーを引く。破裂音と共に撃ち出された銃弾が白ワンピース胴体の脇腹をえぐり、後方の向日葵畑に突き刺さる。
ホトハラもそうなら、エバもまたこの“夏”に興味などない。
帰郷する家族達を放って一人家にこもり、FF11を夜通しプレイし、そして掲示板に入り浸る。それがエバの夏であり青春時代だ。誰にも文句など言わせるものか。死ね。
抉り出されたワンピースの白い切れ端が散る。
■■■■■■!
白ワンピースの怪異は衝撃に悶絶し、意味不明の叫び声を上げる。
「もしかして効いてるってヤツなんスかね、コレ?」
エバは歯を剥き、心底愉快そうに笑った。
元々は“狩猟用”の、探索時の害獣対策として施設に導入された備品である。一番つよいやつを、とオタク根性でエバが注文したらこれが来た。熊でもノックアウトできる代物だという。化け物に効くかどうかはわからなかったが、少なくとも吹っ飛ばせることは確認できた。
おせわになっております?
あのなつが まっ ■■ てる
しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ
頭部と脇腹に穴を開けられた怪異は、必死に人型を形作ろうと黒く蠕動を続ける。ぽ、ぽ、ぽぽぽぽ、ぽぽ、ぽ、と泡を吹くような音と共に、やがてそのあちこちから目や口のようなものが開き始める。怪異は地面に伏せ、日に焼けたコンクリートの上でもんどり打っている。
ひぐ■■らしの■■■■なくころに!
ふと、エバはその後ろに立ち上がる影を見た。
「げえ」
エバが不快感に顔をしかる。向日葵男――ヒルタの服を着た“何か”がゆっくりとその身を起こし始めている。
ホトハラさん エバさん わかったんだよ 僕は夏の全てを理解した
向日葵男は両手でシャツのボタンを外す。はだけた胴体にヒルタの顔があった。
割れたセルフレーム。欠けたレンズ。変形した顔の筋肉。しかしその表情は向日葵のように、にっこりと笑っていた。
そう 夏は僕たちの――
「うらァ!」
子供の影を左手で鷲づかみにしたホトハラがのしのしと歩いてきて、勢いよく向日葵男へと投擲する。地面に濡れ雑巾を叩きつけたような快音がして、影を巻き込んだ向日葵男が仰向けにぶっ倒れる。続けてエバがリボルバーを撃つ。
黒い塊が、黄色い花びらが、四方八方へと飛び散った。
「あいつはこの“夏”を深く考えすぎた。あの資料だって罠だった。それで誘い込まれた。マトモに見たから“あの写真の通り”のバケモノが出てきた。だからアタシは写真を燃やした。身長がデカいのも理由なんてわからない。身体がデカけりゃ強くなる。たぶん、そういう考えだったんだろうよ」
「写真て何スか」
「ま、気にするな。気にしたら負けだ。センセイは災難だった。そもそもこのダムだってそうだ。ダム湖に沈んだ村には“何かがある”。“ある”と思って考えれば考えるほど……きちんと考えて、理由に悩んで、それで真っ向から立ち向かったどうなるか――そしたらコレだ。つまりセンセイは身をもって教えてくれたってこったな」
格闘戦によって割れたネイルを引き剥がし、ホトハラは明るく染めた金髪をかき上げる。全身からは汗が噴き出ている。
「最初から理由なんて無かったってことッスか」
「こいつらにとっちゃどうでもいいのさ。クソばかばかしい」
このなつはぼくたちの理想!
ぼくのなつやすみ (8月 32日 )
おどろうよ たのしいよ
二人の周りを取り囲むように咲いた大小の向日葵が、EDMのリズムにあわせてくねくねと動きをつけていた。
ホトハラとエバは背中合わせに立ち、周囲の異常に備える。
「……昔、こんなオモチャあったな」
「あったッスね。中途半端にブッ壊れて動き続けるようになっちゃったんで捨てました」
欄干から子供達の影がよじ登ってくる。
「またか。キリがねえ。エバ、あいつの弱点とか無いのか」
「わかってりゃ真っ先にブチ込むところなんスけどねえ」
「このままじゃラチがあかねえ。どうしたモンか――」
その隙を見せた一瞬、ワンピースの切れ端をまとった怪異(上半身のみが“かろうじて人型”と呼べる程度の体躯だった)が体勢を持ち直し、ホトハラに向かって恐るべき勢いで突進してきた。
ぼぼぼぼぼぼぼ! ぼぼばばばばばばばば!
「センパイ!」
エバは咄嗟に間へと割り込み、伸びてきた一本の触手を左手で受け止める。続けてもう一本。すぐさまエバはリボルバーをその場に落とし、残る右手でも受け止める。
180cmを超える身長のエバと怪異が取っ組み、ホトハラの頭上で力比べをはじめる。
「そのリボルバー!」
エバが叫ぶ。
「アア!? これか?! いやクソ重っ……おい、どうやって撃ちゃいいんだ!」
「レバーを下げる! 銃口をバケモノに向ける! トリガーを引く! なるべく腰をしっかり踏ん張って反動に――」
突然の銃声。怪異の肩(?)から先が吹き飛ぶ。
「だああああああ! 手が痛てぇえええええッ!」
「ああああああ耳があぁああああああ!」
二人と怪異の間で、大口径リボルバーが破裂音と共に火を噴いた。2kg近い銃が手のひらで跳ねるような衝撃を受け、ホトハラは手の痺れに悶える。そして、耳元で銃声を食らったエバもまた。
「せっ、せっ、センパイ! 私は“しっかり踏ん張って反動に気をつけて、撃つ時は合図して下さい”って言おうとしたんスよ!」
「ンな悠長に構えてる余裕なんぞあるか! 祭りの射的じゃねえんだぞ!」
■■■■ おまつり! わたあめ かきごおり
しゃ■き けいひん! けい■ン!
エバはミドルキックを怪異に叩き込み、距離を大きく取る。
「いや、いや、とにかく助かったッス。あとは――」
「エバ!」
もうすぐ 夏祭りがはじまるの
一緒に行こう? ゆかた 着てくるから
背後に怖気を感じ、二人は周囲を見渡す。這い上がってきた子供達の影。異常増殖した向日葵畑。蠢き再生を始める怪異。そして――白ワンピースの少女。浴衣姿の少女。大小の、様々な少女。こども。
着替えてきたの
どの浴衣がいいかな
■■■くんの為だもん おばあちゃんと一緒に
選んでもらったの
「……ウソだろおい」
―――
夕暮れはいよいよ深まり、ダム上にいちめんのひまわり畑が広がる。山の隙間から黄色く鮮やかな花々が咲き乱れ、あたりを浸食していく。二人の“招かれざる者”を取り囲み、夏を彩っていく。
ひまわり畑の足下には蛆虫の集合体じみた触手が這いずり回り、大音量のEDMを奏でていたラジカセが破壊される。
■■■!
「増えるなんて聞いてねえ」
「一体じゃなかったんスかね。それに……あのバケモノ、いくら撃ってもねちょねちょするばかりで、あんまり効いてるようには」
「……こりゃあ、ケツまくって逃げた方がいいかもな。戻ってあのハチ野郎に報告だ。ついでにぶん殴ってやる」
「戻れたら」
「戻るんだよバカ。こんな山奥でくたばってたまるか」
息を切らすホトハラとエバの背筋に汗が流れる。暑さのせいだけではない。熱く冷たい汗。
おねえちゃんたちもいっしょにあそぼぼぼぼかわあそびせんこうはなびゆかたもきてぼんおどりすいかも■■■あるよよよ■■しか宇よよよよよーーー懐かしいでしょ十年前もこうしてあそんだのののの■■のーーーん
囁き声はノイズになり、奇声になり、二人の脳内へと直接響いてくる。幻覚、幻聴、幻視。あらゆる不快感。
「夏なんてろくでもねえ」
一歩後退するホトハラの足下に、エバはふと違和感を覚える。
「……センパイ」
「?」
ホトハラの右下腿に、小さな向日葵が一本生えていた。
「ハァ?」
「それ」
続けて猛烈な痛みが襲う。
「いっ――!!!!」
ホトハラが声にならない悲鳴を上げ、その場に倒れ込む。
「センパイ!」
右脚を押さえ、ホトハラは激痛にのたうち回る。
「やば、ヤバくないッスか!?」
「見りゃわかんだろ、見……あああクソ!!!!」
二人の四方を“夏”が取り囲んでいく。黒い塊の怪異はもぞもぞと蠢めきながら少女の囁きや子供のはしゃぎ声を模写し、それに応じてひまわり畑の間から似たような子供や少女が次々と出てくる。首がないもの。腕がないもの。上半身だけの少女。短パン姿の子供――の下半身だけ。出来損ないの人型。
「おいエバ、これ引っこ抜け」
「いいんスか?」
「とっとと抜いてくれ。アタシはこんなところで連中のお仲間になりたくねえ。怪人向日葵女なんて冗談でも笑えねえ。んで、抜いたらその銃よこせ。五発入ってることはそこに一発残ってんだろ」
ホトハラの言葉に、エバは無言で目を細めた。
「そしたら逃げろ。一人で。他人のことも考えずに逃げて、施設に戻って、あとは全部忘れる。な? “規則通り”だ」
「……」
エバはホトハラの右下腿に生えた向日葵の根元を掴むと、勢いよく抜く。
「あああああああああああああああああああッ!!!!」
筋肉と神経ごともっていかれた。想像を絶する痛みにホトハラは絶叫する。
「が、は、ああ……てっ、て、テメェ、この、く、クソオタク……抜く時は、ぬっ、抜くって言ってから抜」
根に肉片の残った向日葵を投げ捨てると、エバは怪異へと、視線を移すこともなく最後の一発を叩き込む。肉片が飛び散る。しかし効いていない。致命打にはならない。どこまで撃てばいいのか。バラバラにするしかないのか。だがリロードしている暇はない。ならば。
「おい」
ホトハラを背負う。
「なにしてん――」
「……なに、って、逃げるんスよ、二人で」
―――
身体がデカいことでからかわれたことは二度三度ではない。くわえてこの顔だ。体つきだけなら体育会系だが、エバは自分の身体があまり好きではなかった。運動部に所属もせず、かといって文化系のノリも合わず、とにかく他者とのコミュニケーションが苦手だった。合えばまず“いじられる”。それが不愉快だった。そんな自分がどうしてこんな仕事に応募してしまったのか、今ではもう理由など覚えていないが。
ホトハラとはじめて会った時、ああまた嫌なタイプだと思った。概ね、それは当たっていた。一番合わない“人種”だ。開口一番オタク呼ばわりされて、気持ちのいい気分であるはずがない。
ところが話していてすぐ、エバはあることに気づいた。ほぼ確実に話題にされるであろうこと――つまり身長――について、まったく“いじられていない”のである。
思わずこちらから聞いてしまった。ホトハラの答えは単純だった。
「ハァ? そんなモンどうでもいいだろ」
―――
にげるなにげるなにげるなにげるなにげるななつかならにげるなにげるなにげるなにげるなにげるな
向日葵畑を駆け抜ける。全力疾走したのはいつくらいぶりだろうか。体育大会はほぼ毎年サボっていた。特に走る意味などないと思っていたからだ。マグナムリボルバーを難なく扱うほどの優れた体躯と筋力に、スプリンターの走力とマラソン選手の持久力を併せ持つ者。それがエバである。
どこいくの? そっちじゃないよ
もどってきて 戻って 戻れ
逃げるな にげないで
夏から逃げるな 私たちから逃げるな
向日葵を薙ぎ倒し、蹴り飛ばし、踏みしだき、荒く熱い息を吐きながら、さながら猛獣のように駆ける。向日葵の葉が擦れ、肌に無数の傷を作っていく。すれ違う花々は皆ぴったりとこちらを見据え、その“視線”を移してくる。まるで駅伝の観客のようだ。一歩でも立ち止まれば後ろのバケモノどもに襲われる。逃げろ。とにかく逃げろ。向日葵畑はいよいよ鮮烈に咲き誇り、その勢いは区域を覆い尽くさんばかりだ。
耳元ではホトハラが呻き声を上げている。
にげるな わたしたちから なつから ■■■からにげるな
にげるなにげるなにげるなにげるなにげるなにぃーーーげーーーるーーーなー
エバは吠えた。
―――
いつでもまってるよ
―――
――どれくらい逃げただろうか。
「……」
「……」
今は何時だろう。腕時計を見ることすらできない。
暗い夜の山道を、ホトハラを背負ったエバがゆっくり歩いている。吐く息は白く、冬の寒さが二人を包み込む。今はそれすらもが心地よく思える。
遠く後ろでは、夏祭りの賑やかな音が聞こえてくる。
「おいエバ」
耳元でホトハラが小さく呻く。
「なんスか」
「海行こうぜ、海」
「二人で?」
「二人で」
「いいッスね」
「家から出ねえとバカになるぞ。バーベキューやるぞバーベキュー」
「私、肉食えねえんスけど」
「……肉も食わねえでどこにそんな力があるんだ?」
「さあ?」
「音楽ガンガンにかけて、パーッとやるんだよ」
「正直、全部同じに聞こえるんスけど」
「わかってねえな」
「アニソンとかも入れましょうよ。あ、ピアノアレンジは無しで」
クスリの効き目はとうに切れ、二人の顔は青く、猛烈な頭痛と吐き気に襲われている。それでも気分は良かった。
施設に戻れば事情聴取と報告が待っている。報告が済んだらホトハラはハチスカを殴るつもりでいるらしい。ついでにエバも殴ることにした。
「少なくとも銃弾で倒せるバケモノじゃない、ってのは確かだったッスね」
次に待っているのは記憶処理だ。スクリーニングをするまでもなく、報告が終わり次第速攻で処理に回されるだろう。あれだけ怪異に暴露して、その後どんなことになるか、周囲にどんな影響があるか、前例はない。当然といえば当然である。
ついでに言えば、おそらくホトハラの右脚は二度と動かないだろう。もう感覚もないという。そこに“夏”が残っていれば、切断されることになるかもしれない。
―――
二人は報告を残し、あとは全てを忘れる。忘れさせられる。
一夏の記憶。儚い記憶。
祭りが終わり、山道を歩き、帰路について、家に帰って、ゆっくり眠れば、あとはまた元通りの日常に戻る。
「忘れた後」
「?」
「忘れた後、また思い出すんスかね」
「“夏”をか?」
「じゃなくて」
「ああ」
ホトハラは何かを察し、ぽん、とエバの肩を叩いた。
「大丈夫だろ」
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