あの夏と遊ぼう

 ばたばたばたばたばたばたと、掃射砲のような激しい雨がトタン屋根を打つ。遠くを見れば、青草も白く煙るような雨。


 チョウノは屋根の下で佇み、震える身体を必死に抑えようとしていた。

 全身はずぶ濡れ。しかし震えは寒さのせいだけではない。


 一歩も動くことができない。本当はここから逃げ出したい。驟雨の中へと飛び出して、この朽ちたバス停を後にしたい。だができない。足が動かない。震えるばかりで、そこに据え付けられたかのように、動かすことができない。


 あーあ


 横を向くな。


 急に降ってきちゃったんだね

 見てよ もう下着までびしょびしょになっちゃったんだから


 ちょっとはずかしいな


 さやさやと、小川のせせらぎにも似た、幼い少女の声。だが決して横を向くな。少女を見るな。チョウノは血が出るほど唇を噛みしめる。夕立さえ。夕立さえ止めばきっとここから動くことができる。降り始めてから十分は経過しただろうか。山の向こうはうっすらと明るい。もう少しだ。


 もう少しここで、雨宿りしていかない?

 答えるな。声を出すな。意識を向けるな。意識■■ あの日見た少女の、あの夏の記憶が、鮮明によみがえってくる。

「そうだ。俺は」


 ひさしぶりね、げんきだった?


「十年前も、こうして君と」

 そうだよ あのと

 きとおなじ

「君と ふた■■りでびしょぬれになって■■ 夕立に見舞われて、このバス停で雨宿りをした」


 そこでキスをした。


「■■■」


 チョウノは横を向いた。そこには濡れた夏の天使がいた。

 華奢な少女のラインを浮き上がらせるようにぴったりと身体に張り付く白ワンピース。艶のある黒髪。頬にまとわせた前髪。少しだけ青い唇。栗色の瞳。


 ああなんてこった。

 この子はきれいだ。十年前からずっと記憶の中にあった、見知らぬ少女。

 彼女は細い腕で、ワンピースの裾を絞った。ぼたぼたぼたと雫がおちて、アスファルトにどす黒いシミをつくっていく。スカートの下から覗く脚は陶器のよう白く■■黒く蠢いて■■■■滑らかで、今にでもすがりつき■■舐め取りたいほどの激しい情動へと誘わせる。


「畜生」


 ねえ

 あの日の続き■■ しようか?


 私も■■大人になったんだよ?


―――


 ――数刻前。


 北3ゲートから進行して一時間ほど。

「スズキ、イノクラ。そろそろ区域内に入るぞ。コートを脱いで適宜温度調整、それから、肌を出す場合にはいつものように必ず虫除けを塗っとけ」

「了解」

「了解です。そういえばチョウノ隊長、自慢じゃないんですが、僕、一度も虫に刺されたことないんですよ」

 道を進むごとに次第に気温も上がってくる。季節が冬から夏へと変わる。

「ええ……いいなあ。私なんて肌出してると速攻ですよ。おかげでもう夏なんて痒くって痒くって」

「普段なら刺されないのかもしれんが調査の時は必ず塗っとけ。マニュアル通り、絶対に怠るなよ。単なる虫に見えても、もしそれがアノマリーの類だったら?」

 イノクラと呼ばれた年若い男性隊員が目を丸くし、慌てて肌に虫除けを塗布する。同じく女性隊員のスズキも丁寧に塗り込んでいく。


 チョウノも二人と同じように自身の装備をチェックし、回収保存用ケース(通称:保冷バッグ)を背負う。

「さて、二人とも準備はいいか。仕事の時間だ。ここから、気を抜くなよ」


 ――エージェント・チョウノ。そして部下のスズキ、イノクラ。

 彼らに与えられた任務は、地域調査と異常物体発見時の回収である。


―――


 むせかえるような草木の匂い。蝉時雨。夏山の向こうには見事な入道雲。炎天下の田舎道を三人は歩く。

「比較的楽に回収できるのは”ヤカン麦茶”に“風鈴”。お前達も見たことがあったろ。アーティファクトとしてはコモンレベルだが、サンプル数はあったほうがいい。異常性も全部が明らかになってるわけじゃないからな」

 チョウノは若い隊員二人にレクチャーをする。

「隊長。この前、別のエージェントが”かき氷機”を見つけたって言ってましたけど」

 イノクラが手を上げる。

「アレか。もし見つけても迂闊に触るなよ。三ヶ月前に犠牲者が出た。取扱注意のブツだ」

「犠牲って」

「他の部隊が見つけたとき、そいつはきれいなイチゴシロップにされてた。こう言えば何が起こったかわかるか?」

「げ」

「うえ」

 若い二人は眉をひそめた。

「こんなクソみたいなところでクソみたいな死に方したくないだろ」

「……肝に銘じます」

「ねえ隊長。私もひとつ質問いいですか。その……もしも”彼女”を見たら?」

「……彼女、か」

 スズキの呟きにチョウノはぴたりと足を止める。そして振り向きもせず、言葉を続ける。

「見たら? すぐに目を離せ。見るな。耳も塞いで、他のことは考えずに逃げろ。チームのことも気にするな。あとはマニュアル通りだ。逃げて、施設に戻って――あとはクスリでもなんでもいい――一刻も早く“全てを忘れろ”。こいつが鉄則だ」


―――


 この区域が某県山中に現れたのは数年前のこと。


 きっかけは、山に入った民間人が行方不明になる怪事件が相次いだことだった。神隠しか誘拐か、あるいは動物の手によるものか。すぐさま調査隊の手が入り、原因究明が急がれた。そして異常な区域の存在が明らかになり、最初の調査隊が入った。だがその調査は全員未帰還という結果に終わった。


 さらに区域は徐々に範囲を広げていることが明らかになった。事態を重く見た関係者達によって住民の立ち退きと封鎖が行われ、一帯は立入禁止になり、禁止区域につながるすべての道路にはバリケードと警備員が配置された。県道も線路も電線も、区域を迂回するように引き直され、区域内にあったダムも同じく封鎖された。

 それから半年後、付近には本格的な区域調査の為の施設が建ち、専門的な訓練を受けたエージェントや探索部隊が設立された。


 そうしてまもなく数年が経とうとしていた。人々はまだ抵抗を続けている。

 時が経てば季節も巡る。夏は秋になりやがて冬になった。四季は日々にうつろいゆく。しかしそこだけはずっと夏だ。天候も気温も人工物も何もかもが書き換えられ、異常性を有した現象と物体が発露する“夏”の風景。そして■■――忌むべき存在の目撃談。人々の精神を蝕み伝染する■■■■。


 今でもそこは、少しずつ拡大を続けている。人々を誘い、膨れ上がっていく。

 季節を知らずあざやかに咲く、いちめんの■■■畑と共に。


 すべてが狂った場所。


―――


「日差しは強い……んですけど、何というか、こう、不快な感じではないんですよね。湿気がなくて、風もあって」

「そうだな」

「……」

「懐かしい景色、だと感じたか」

「……」

 田園の風景を遠く見るイノクラの背中に、チョウノは声をかける。備え付けたボトルの水を飲み、垂れた滴を手の甲で拭う。やまのむこうにはにゅうどうぐも。

 チョウノと比べ、二人は探査部隊としての経験が浅い。特にイノクラは少々この“夏”に飲まれかけている。まずい兆候だ。

 ふいん、と耳元で不快な音がした。蚊だ。チョウノは迷わずそれを叩き潰す。血を吸われてはいないようだ。

「イノクラ、お前はどこの生まれだったか。幼少期はどこで過ごした?」

「どっちも東京です」

「私も」

 二人は同様に答える。それはそうだ。わかっていて質問した。そもそもここに投入される人間は過去の経歴を限定している。チョウノもまた東京生まれの東京育ちで、幼少期は下町で過ごした記憶がせいぜいだ。あえてそういう人間を優先して選んでいる。

「青い空。白い雲。広がる田んぼ。バス亭と畦道。どこかから漂う蚊取り線香の匂い―――さて、ひとつ聞くぞ。なんでここを“ノスタルジック”だと認識した?」

「それは」

 イノクラは口ごもり、あらためて周囲を見渡す。入道雲。

「こんな田舎で過ごした経験なんかないだろ。つまりその感情自体がこの区域の罠だ。深く考えるな。そのエモーショナルに飲まれるな。いいか?」

 三人がいる場所はゲートからそこまで離れていない。戻ろうと思えばいつでも戻れるところにある。区域は深く潜れば潜るほど、留まれば留まるほどに侵入者を蝕んでいく。この区域での活動時間は二、三時間が限界。そろそろ探査任務も終わりの時間だ。大した成果はなかったが、戻ればまた――。

「あれ」

 イノクラが何かを見つけた。

 きょとん、とするスズキと対照的に、チョウノはすぐさま立ち上がり、周囲を警戒する。イノクラは田園の風景を見つめたまま、遠くを指さす。

「あの田んぼの真ん中。誰か立ってません?」

 チョウノの顔が険しくなる。

「どこだ」

 指をさした方向を向く。何もいない。

「スズキ、お前は何か見えるか」

「い、いえ、ぜんぜん」

 チョウノはいまだ状況の飲み込めないスズキを近くに呼び寄せ、目をこらして周囲を警戒する。“真ん中に誰かがいる”。それはこの区域においてもっとも注意するべき前兆だ。

「おい! 詳しく教えろ。こいつは冗談じゃ済まないぞ。どこだ。何が見えた?」

 少し声を荒げ、もう一度イノクラを向く。


「あれ」

 スズキが声をあげた。


「……イノクラさん?」


―――


「隊長?」

 イノクラが振り向くと、チョウノの姿がなかった。スズキもいない。

「スズキ? 二人ともどこへ行ったんです?」

 後ろを振り向き、もう一度視線を戻す。青く実る田の真ん中に誰かが立っている。

一本だけ。にゅっ、と、背高く伸びた誰かが。黒く伸びた、不確かな……あれは……?

 イノクラの心拍数が跳ね上がる。二人はどこにいった。再度周囲を見渡して、もう一度見る。


 移動している。

 さっきより近い。うねうねと、風にゆられている。


 誰だ? 

 なんだ? あれは。

 ■■■?


 はぐれた場合の鉄則は動かないことだ。ここで立ち止まって様子を見ようとした。だが目の前にはアレがある。この上なく不気味なものを感じて、その足は気づけば早足で歩みを始めていた。


 なんなんだ、アレ。


 二人はどこに消えたのか。イノクラはにわかに不安になり、周囲を歩き回る。

そうして数分ほど歩いた後、やがてどこかから水のせせらぎが聞こえてきた。


 小川だ。田畑の間に小川がある。雲一つない空の下、太陽に照らされ、きらきらとプリズムを作っている。いつの間にこんなところに来たのだろう。まずいと思いながらも、イノクラは吸い寄せられるように近くへ向かっていく。


 小川には橋がかかっていた。軽トラック一台通れるのがやっとという幅の橋はぼろぼろのコンクリート製で、いかにもただ渡しただけの簡素な作りになっている。小川までの落差は3mくらいだろうか。

「?」

 橋のたもとに誰かいる。四人の子供だ。子供くらいの背丈の”何か“がいた。見れば見るほどそれは不確かで、実体がわからない。きゃっきゃと、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。こんな区域にヒトなどいるわけがない。――いや、こんな田舎だ、子供くらいいるだろう。

「楽しそうだな。地元の子供か」

 イノクラの口から独り言がこぼれる。


 懐かしいな。僕も小さい頃、こうやって遊んだっけ。学校が終わって、そのまま水着に着替えて。真夏の、うだるような暑さの中で、思いっきり川に飛び込んだ水の冷たさといったら。

 どぼん、どぼん、と子供達は橋から川へと飛び込んでいく。飛び込んだ子供はしばらくすると水面へ顔を出して、それから岸まで泳ぎ、土手をのぼってまた橋へと戻っていく。そのサイクルが、皆飽きることなくグルグルとループしている。

 

 暑くなってきたな。僕も涼しくなりたいな。


 おにいさん!

 おにいさんも、いっしょにあそぼう

 おにいさんも


 装備と”保冷バッグ“を外し、イノクラは橋へと駆け寄る。泳ぎは得意中の得意だ。昔こうして同じように飛び込みをしたおかげで、中学に入ってからも誰にも負けることはなかった。


 おにいさん、おにいさん おにいさんも

 とびこもう ■■■になろう いっしょに ■■ 

 とべたら なかまになろう あめがふるまえに もっとあそぼう

 そしたら かきごおりをたべよう


「いいな。かき氷か。暑い日にはぴったりだもんな」


 ふと気づくと、足下に、夏草に紛れるようにかき氷機がひとつ置いてあった。

きっとあの子達のために親が持ってきたんだろう。手回しの、いかにも重そうな鉄製の、昔懐かしいタイプのかき氷機。そのハンドルは誰の手も借りることなくごりごりごりごりとかってにうごいている。氷はない。ハンドルはひたすらに空転している。

 はやくこっちにきてよ ふってきちゃうまえに

「雨なんて、降らなそうだけど」

 イノクラは空を見上げる。


 とべたらなかまだよ

 かきごおり たべたいでしょ いっしょに


 子供達に促されるまま、イノクラは橋へと向かっていく。子供達は笑っていた。その顔があるべきはずの場所はすっぽりと黒く抜けていて、虚無が張り付いている。

楽しそうな笑顔だ。太陽みたいな、■■■みたいな、満面の笑みで。


 さあ、それじゃあ僕も、ひとつ飛んでみようか。今日は暑いもんな。

 それにかき氷も楽しみだ。食べるのなんて何年ぶりか。


―――


 イチゴあじとブルーハワイ


 どっちがいい?


―――


「イチ……いや、ブルーハワイで」


 イノクラは飛んだ。飛び込み台から飛ぶ水泳選手のように、頭から飛んだ。小川までの落差は3m。いや、5m。底が見えるほどに小川は浅く、きらきらと太陽の光を反射している。

 夏の小川は、かき氷みたいに、頭が割れるほどつめたくて。


 頭が割れるほど。


―――


「イノクラさん?」


 スズキの声は震えていた。チョウノも声にこそ出さなかったが、表情はこわばっていた。


 イノクラが立っていた場所に、一本だけ向日葵が咲いている。

 さっき、そんなものはなかったのに。

「おい、スズキ」

「あ……」

「スズキ!」

「はい!」

「逃げるぞ」

「でもイノクラさんが」

「……」

 諦めろ。そう口にしようとしたが、二の句は継げなかった。スズキは泣きそうな表情を浮かべている。じわじわじわじわじわじわじわじわじわじわと蝉の声が大きくなっていく。


 空気がいつのまにかにわかに湿度を帯びはじめ、やがて風が強く吹いてきた。気づけば山の向こうにあったはずの入道雲が、さらに大きく、さらに近く、二人を見下ろすようにあった。


 向日葵は入道雲のほうを向いている。


 ごごん、ごん、と空が唸る。地鳴りのような音が区域に響き渡る。

 あっという間に雲は太陽を覆い隠し、空色と緑の鮮やかな景色を灰色に変えていく。


 まずい。


「走れ」

「どっちへ」

「……入り口だ。逃げるぞ。いいか、”降られたらまずい”んだ!」


 二人は走り出した。夏から逃げられる距離までおよそ1km。入道雲はいよいよ近く――草木のむせぶ、湿気を含んだ生命に満ちた夏の匂いがいよいよ濃くなり、猛烈な暑さと不快感に二人の顔から汗が噴き出る。雨足から逃げる。夏の夕立。降られてびしょびしょになって。それもまた、あの日の懐かしい記憶。

 熱を帯びたアスファルトに、黒いシミが一滴、また一滴。

「あの、夕立なら、すぐ止むはずです。どこか、で、雨宿りを」

「“深く考えるな”! 今は考えるのを止めろ! それが一番ダメなんだ!」

「あっ」

 スズキが、ひゅっ、と息をのんだ。道ばたに向日葵が咲いている。一本だけ。

 まるで行き先を示す交通標識のように、背丈ほどもある向日葵が、道ばたに、曲がり角に、その向こうに、点々と咲いている。ひどい湿気と灰色に覆われた夏の景色に、黄色く鮮やかな花が咲いている。

「あっ、あんなの、いま、まで、なかった」

 チョウノは答えなかった。“夏”が急活性した。兆候などなかったはずだ。精神汚染も軽微だった。それが何故。

 ぽつ。ぽつ、ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。


 わ、すごい さっきまで晴れてたのに

「やだ、隊長。わたし」

 やっぱり夏なんだね

 はやく! そこで雨宿りしよう?


「走れ! 降られようとなんだろうと、立ち止まるな!」


 ゲリラ豪雨やスコールなんて風情のない言葉は似合わない。驟雨。白雨。それは日照りの夏に涼しさを与える。

 さああ、と爽快な音と共に、突然あたりが真っ白になった。

「ふ、降ってきました!」

「濡れる分には構いやしない!」

「でも隊長、私、なんだか、この匂い、知っているような」

「考えるな! お前はこんな景色に見覚えなんかない!」

「やっぱり、どこかで雨宿りを」

「ダメだ!!」

 一瞬、あたりが強い光に包まれた。それから数秒もしないうちに、空気を引き裂くような音が響いた。


 同時に、走る二人の目の前に、いきなり何かが落ちてきた。


 暑い夏だもんな 川に飛び込めば すずしいもんな


「ああああああああああ!?」

 スズキが悲鳴を上げた。空から落ちてきたのはイノクラ――“イノクラだったもの”だった。全身ずぶ濡れの身体。頭部は半分はぜ割れていて、真っ青になった顔色にもはや生気はなかった。

 突然の事態に足がもつれ、スズキは蹴躓いて転倒する。

「たたたたた隊長、これ、これ、これこれって」

「スズキ!」

 チョウノは素早く手を伸ばし、スズキを起こそうとする。だが腰が抜けたのか、ひょこひょこと足をばたつかせるも立ち上がることができない。

「そいつはもう死んでる! “夏”にやられた! お前も“こんなの”になりたくないだろ! 立て!!」

 チョウノは喝を入れ、無理矢理にも引き起こそうとする。スズキの身体は鉛のように重く、少しも動かない。

「ほら、隊長。やっぱり、雨宿り、ですよ。雨宿りする、べき、だったんです。夕立なんですから。すぐ止む、んです。そうすれば、あの子も、きっと」

「スズキ!」

 ぱっ、とスズキの手が離れる。チョウノは後ろに尻餅をつく。同時にスズキがへたり込んだ場所の上から、いくつもの影が降ってきた。

 ぼと、ぼと、ごと、ごととと。

 直撃だった。その衝撃に、スズキが声にならない悲鳴を上げた。イノクラの死体に続いて、子供ほどの”何か”が四体降ってきた。黒くねばつく、ヒト型の何か。それが四体。スズキに覆い被さるように。


 おにいちゃん

 しっぱい■■■しちゃったんだ へたくそだよね


 ぼくたち もっと■■うまくとびこめるんだ


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 掴まないで! ひっぱらないでええええええ!!」

 おねえちゃんはとべる? ほら あめがふってきちゃうよ

「やだやだやだやだやだやだやだわたしならもっとうまくとぶからひとりでとべるからおねがいしにたくない」

 スズキの身体が四体の■■に飲み込まれていく。子供だ。チョウノはなぜかそれを”子供”だと認識した。こんなところに子供などいるわけがないのに。子供の顔など見えないのに。

 あめがふるまえにかえるから

「そうだよね。夕方だもんね。雨が降ル前に帰ろう。帰って、ご飯ができるまで眠るの」

 雨はいよいよ強さを増していく。スズキが断末魔の悲鳴をあげる。彼女は動けないまま四体の影に飲み込まれていく。影は融合して一つになり、イノクラの死体もまとめて飲み込み――そうして道の真ん中に出来た黒く大きな塊は、やがて雨に流されるように消えていった。


「……な」


 そして。


 チョウノはそれを見届けて、何かをつぶやいた。

 激しい雨音にかき消されそうな、小さな声で。


 ほら

 あそこにいこう?


「……ただの夕立だもんな。雨宿りして、待ってりゃ止むよな」


 チョウノは背中の”保冷バッグ“も何もかも外し、ブーツにたまった水も気にすることなく、身軽な足取りで駆けだした。


 そうだ。


 ――あそこに、ちょうどいいバス停があるじゃないか。


「お前も来いよ。あそこまで競争だ」


―――


 一週間後。施設内。


「……」

 ハチスカは文書を保存し、ため息をついた。

 一週間前のインシデント。三人の隊員が未帰還になった事件の報告書。

同時間に別働隊として投入されていた部隊の報告によれば、入道雲が発達するのは異常なスピードだったという。彼らはすぐさまゲートに戻り事なきを得たが、巻き込まれたあの三人は帰ってこなかった。

 もちろん、これまでも“夕立”にまつわる現象の活性化は報告されていた。だが分隊がまとめて犠牲になるのはこれが初めてである。他の二人はともかくチョウノはアノマリーの対策にも慣れたベテランだった……にも関わらず、だ。


『入道雲を見たらすぐ逃げてください』

『雨が降る前に帰ってください』

 対策とはいえ、こんな子供に向けるような一文を書き加えなければならないのか。


 ハチスカはノートPCを閉じ、屋上の喫煙所へと向かった。時刻は午前三時。


 来るたびに、彼はここで一つの違和感を覚える。


(ここに誰かがいた気がする)

(僕はここで誰かと話していた気がする)


 おそらく自分が一度“処理”される前の出来事だろう。

 不完全だったのか、もう一度検査と処置を行ってもらうべきなのかもしれない。


 消したいような、消したくないような記憶。ハチスカが煙草を吸いはじめたのもそこからだ。何がきっかけだったのかはわからない。

 この施設で“処理”をされた研究員やエージェントは少なくない。誰が何を知っていて、かつて誰とつながりがあったのか、かつて何を知っていたのか。もはや何もかもがあやふやだ。ハチスカだけでなく、誰もがそうした状態になりつつある。


 煙草を半分ほど吸い、殻入れに放り込み、屋上の手すりから区域を見下ろす。


 あの場所には何があるのか。あの場所は一体何なのか。


 闇の中に咲き誇る向日葵畑は、今日も少しずつ拡大を続けている。


―――


 夜のひまわり畑を見たことあるか?

 花が、太陽のほうを見てないんだ。


 こっちを向いているんだよ。

 全員。

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