あの夏からは逃げられない

 数日後。某施設内。


「アブカワさん、あの子の容態は?」

 喫煙所に入った青年が声をかける。アブカワと呼ばれた無精ひげの男はため息をひとつつくと、三本目のタバコに火をつけた。

「何の対策もせずにあそこまで深く踏み入って、それにしちゃ精神は安定してるほうだ」

「でも“見えた”って言ってるんですよね」

「まあな。どうあれ“認識してしまった”のは確かだ。よく逃げられた――というか、逃げしてもらえたもんだとは思うけどな」

「あるいはわざと逃げさせた、ということでしょうか」

「それは俺も考えた。ハチ、お前にしてはカンが働くな」

「ハチスカですよ。名前、覚えて下さいよ」

 ハチスカは頬を膨らませる。二十三にしては年若い見た目である。

「それに僕だって、もう任務について半年ですよ。それくらいはわかります。――あの子が“汚染”されてることも。アブカワさん、取り調べ、気をつけて下さいね」

「お前こそ……インタビューの録音をするのはいいが、絶対に内容について“深く考えるな”よ。疑問に思っても考えるな。考えたらこちらの負けだ。気になるなら安定剤でも飲んでおけ」


―――


 某施設内。取調室。


「――さてミツダさん。もう一回思い出してほしい。お前さんがあの神社の境内で見たモノは一体何だ?」

「……あの、白ワンピースの少女」

「違う。あんたは最初、そうは言っていなかった。“違うモノ”を見たと言っていた」

「あれは――たしかに女の子だった」

 生気のない、ウツロな目でつぶやくミツダの返答に、アブカワは眉をひそめた。

 時間経過と共に汚染が進んでしまった。


「少女なんかじゃない。そんなものはあの区域にいない。わかるな?」

「ううん。いたの。いた。ぜったいに。向日葵畑の真ん中で、楽しく、踊るように」

 アブカワはそばにあったカゴからダウンジャケットやいくつかの衣類、小物を取り出した。エージェント達が区域探査任務の最中にミツダを発見した際、同様に回収した遺留品だ。いくつかはミツダのものだと判明したが、その他の衣類に関しては持ち主が見つかっていない。“夏から逃げられなかった”のだろう。

「夏……」

 ミツダがつぶやく。

「いいや、今は冬だ。窓を開けてみるか? 今日は雪まで降ってる」

「あつくなってきたんです」

 ミツダの額から汗が出ている。どう考えてもそうなるはずがない。取調室はわざと空調を切っている。気温は一桁、アブカワでもスーツの上からコートを羽織る必要があるほどだ。対してミツダは薄手のシャツ一枚姿である。


 変化が現れ始めた。これはマズいか。


「おじさんには聞こえない?」

「……」

 アブカワは身構えた。

「あの子が、帰ってきて、って呼んでるの」

「あの子が」


 クソ。もうだめか。


「ひまわり畑。きれいな花。一面に咲いた向日葵。ひまわり。ひまままま、まま、あと、あの子もいるの。ねえわかるでしょ。あたし見たもの。もう一度行けばぜったい――」

『ハチ! これ以上は聞くな!』

 アブカワはとっさに耳栓をはめる。ミツダが何か言っている。やがてその語り口は熱を帯び始める。髪を振り乱し、何かに誘うように、きらきらと輝く目で、アブカワに対して唾を飛ばしている。何を言っていかは聞こえない。聞いてしまってはいけない。

 手元のブザーボタンを押す。すぐさま取調室に対応部隊が流れ込んでくる。あっという間にミツダは拘束され、強制退出させられた。


―――


 数時間後。再び喫煙所内。あたりはすっかり夜になっている。


「ハチ、スクリーニング結果は?」

「大丈夫でした。グリーン」

「俺もグリーンだ。間一髪だったが」

「でもアブカワさんが叫んでくれなければどうなっていたか」

「……今回も失敗だったな」

「本当に」

「ん」

「本当に、解決策なんてあるんでしょうか。もう何人飲み込まれたんですか」

「エージェントだけなら、昨日までで三十四人だ」

「もしこのまま、広がり続けたら」

「どうなるかなんてわからねえ。だからやってるんだ。……来いよ」

 アブカワはハチスカを誘う。屋上の喫煙所から離れ、手すりの向こうを見下ろす。


 小雪のちらつく冬の山並み、その一角だけ、まるで絵の具で塗りたくられたように“深緑”の山が広がっている。そしてその間には、みっちりと敷き詰められるように咲いた一面の向日葵畑。冬山の中にあって、そこだけが夏の色合い。


「どんどん拡大してるんだ。何が原因か、何かがきっかけで止められるのか、今はさっぱりわかりゃしねえ。それでも」

「やるしかないってことですか」

「そうだ」

 アブカワはじっと眼下に広がる向日葵畑を見下ろしている。

「アブカワさん、そろそろ行きましょうよ。寒くなってきました。風邪引いちゃいますよ」

「……」

「あの?」

 アブカワはずっとひまわり畑を見下ろしている。

いちめんのひまわり畑を。


「ねえアブカワさん。もう一度確認したいんですけど」

「……」


「――本当に、スクリーニング結果に異常はなかったんですか?」


 ずっといちめんのひまわり畑をみている。


―――


 夏が待っている。あの子も待っている。


 夏には帰ってくる。きっと。


 約束をしたから。

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