S.U.N.F.L.O.W.E.R. -Blue Sky-
黒周ダイスケ
あの夏が呼んでる
――深緑の山野に雪が降る光景を見たことがあるか?
興味があるなら、遠くから見てみるといい。
青々と色づいた水田。遙か遠くの山々。聞こえるはずのない蝉時雨。どんよりと低く垂れ込める曇り空。漂ってくるはずのない蚊取り線香の匂い。低気圧。聞こえるはずのない小川のせせらぎ。北風。一面の■■■畑。降り始めた雪はしかし積もることなく、茂る夏草に落ちては掻き消えていく。
ありえないはずのイカれた景色。幻想的と思うか異様と思うかは人それぞれだ。
だが、それ以上は近づくな。“あの日の夏”の餌食になりたくなければ。
咲き誇る■■■にとりこまれたくなければ。夏に飲み込まれたくなければ。
あの子に会いたくなければ。
―――
「暑くなってきてるな」
「アリサカ。やっぱりこれ以上は進まないほうがよかったんじゃねえのか」
ダウンジャケットを脱いだコンドウは不安げだった。
気温が、湿度が、明らかに上がっている。
「別にアンタだけ帰ったっていいんだからね。あたしはアリっちと行くから」
携帯を構えてはあちこちを撮りつつ、興味なさそうにミツダが吐き捨てる。
「噂通り、ってやつだ」
山の合間を縫って進むかつての県道は長い時間を経て廃れ、ひび割れたアスファルトの間からは雑草が生えている。三人が車を止め、歩き出してから1時間。真冬の乾いた空気は次第に“夏”へと変わりだし、みぞれまじりの曇天は、いつの間にか薄日が差すまでになってきた。
「ちょっと」
「どうした?」
「蚊がいるんだけど!」
ミツダは耳のあたりを手で払う。
「蚊取り線香くらい持ってくれば良かったかも」
「そんなモン、今の季節にゃ売ってねえよ」
―――
山を抜けるとそこは夏だった。
三人はすっかり朽ちたバス停の傍に立ち止まり、あたりを見渡す。
「あっつ……」
「すげえな。本当に夏じゃねえか」
蝉時雨に包まれた山野は人の姿ひとつなく、天気はもはや雲ひとつない澄み切った青空に変わっていた。錆びたバス停の看板は文字も擦れて何も読めない。
「アリっち、目撃情報、ってどのへんだったっけ?」
「向こうに家がいくつかあるだろ。あの中に古い神社がある。そこだ」
アリサカはノートと景色を見比べ、指をさす。
「……他に人とか、警察とか、いねえよな」
「“禁止区域”だぜ。いるわけない」
「ブツクサ言うならここで待っててもいいんだかんね」
「待てよ。行くよオレも。こんな気味の悪いところで待っていられるわけねえだろ」
畦道を行く。誰が手入れをしたわけでもないのに、山間に広がる水田は完璧に整っていて、青々とした稲が遙か向こうまで南風にそよいでいた。どれだけ見渡しても人の姿はなく、道の端には錆びきったトラクターの残骸が転がっている。その傍には”八谷戸→1km“と書かれた看板が傾いていた。
そして三人は八谷戸集落についた。並んだ家々はどれも無人で、ある家は蔦に覆われ、ある家は支柱が腐り、傾きかけている。人のざわめきも、飼い犬の吠える声すらも聞こえない。あれだけうるさかった蝉時雨もどこか遠く、しんと静まりかえった空間は、まだ明るい昼間だというのに不気味な印象を三人に抱かせる。朽ちた納屋。錆びた消火栓。ナンバープレートの剥がされた、二度と走ることのない軽トラック。いちめんの
「コンドウ?」
集落に入ってから数分が経過した頃、アリサカが異変に気づいた。
後ろを歩いていたはずのコンドウが、いつの間にか道路の真ん中で立ち止まっている。
「なにしてんのよ」
「ここはまだ目的地じゃないぜ。それとも、何かあったか?」
「……」
コンドウは青い空を見上げている。二人の声は耳に入っていないようだった。
やがて。
「……る」
「?」
「ああ……そうだった。なあ、帰ってきたよ……■■……」
呟きが聞こえた。最後が聞き取れなかったが、コンドウは誰かに話しかけているようだった。
いちめんの■■■畑
「ねえ何なのよ。暑さでおかしくなった?」
苛立たしげに放つミツダの声も、彼には聞こえていない。
「――あの娘が呼んでる。オレ、ようやく帰ってきたんだよ。そうだよな、生まれた土地からは離れられないんだもんな。妹みたいなモンだって笑ったけど、今はそうは思わない」
「コンドウ、いい加減にしろよ」
アリサカもミツダも、そしてコンドウも同じ街の出身だ。県外の地方都市で生まれ、そこで育った。こんな集落に関わりなどあるはずがない。
「ごめんな。ずいぶん待たせちまった。今行くよ」
コンドウはふらふらと歩き出す。目指すべき神社のほうではなく、集落を外れたどこかあさっての方向へと。
「どこ行くってんだよ、寝ボケてんのか」
「もういいよアリっち。あたし達だけで行こ?」
「そうはいかねえだろ。おいコンドウ――」
「なあ■■! どこにいるんだ、姿を見せてくれよ! オレ達、大人になったら一緒になるって約束しただろ! 十年前にそう交わしただろ!」
引き留めようとしたアリサカの手が、尋常でない力で振り払われる。
「おい!」
まんなかで少女がまっている
「わかった、そっちにいるんだな!」
歓喜の声を上げてコンドウが走り出す。アリサカが追いかける。
「勝手に行くなって!」
「■■! そこか、そこだな??!」
――そしてコンドウはどこかに行ってしまった。
猛烈な勢いで走り出し、曲がり角に入ってすぐに“消失”した。足音ひとつ残さず、どこかに消えてしまった。
「ね、ねえアリっち……」
「……そのうち帰ってくるだろ……」
二人は汗をかいていた。
もはや正常な判断力は失っている。そのことに気づくことができない。
暑さのせいだけではない。
―――
わたしのこと、覚えないのかなあ
約束したのに
―――
古い鳥居が見える。
神社に先回りしたのかと思ったが、やはりコンドウの姿はなかった。
二人はもはや言葉を交わすこともなかった。持ってきたペットボトルの水はとっくに飲み干した。とにかく喉が渇いていた。脱ぎ捨てたジャケットはどこかに落としてきた。
それでも、もう帰ろう、とは言わなかった。何故か言えなかった。あるいは引き返すという選択肢すらも浮かべられなかった。
集落の外れ、そこだけが小高い地形になった森の中。木漏れ日の差す古い神社。苔むした、首のない狛犬。いち
めんの■
■■畑
「ケータイのカメラ、まだ使えるか?」
「うん」
「もう何でもいい。とりあえず不気味なモン見つけたら撮っておきゃいいんだ。それで画像を売り込めばカネ払ってくれるっていうんだからよ」
「不気味なモン、っていうか……既にもうここが不気味なんだけど」
「クソ。何か出てこねえのか。ここまで来て手ぶらで帰れるかよ」
彼らがここに来たのは単なる肝試しではない。
謎に満ちたこの区域に関心を向ける人間は多い。数日前、雑誌記者と名乗る男から三人に持ちかけられたのは簡単な依頼だった。この不気味な場所の謎を突き止め、何か“証拠”を撮ってくればカネが支払われる。だから彼らは柵を乗り越え、この禁止区域にやってきた。時間も夜ではなく昼だ。心霊スポットというわけでもない。だから大丈夫だと思っていた。
「それにしても、あのバカ、どこまで行ったのよ」
だがそれは間違いだった。急変した青い空。季節感の狂った“夏の景色”。人一人いない朽ち果てた集落。例えようのない不快さ。異様な空間。
「マジで頭おかしいんじゃないの。」
見覚えのある神社。懐かしい匂い。子供の頃に遊んだ秘密基地。わたしたちだけのばしょ。
「ほっとこうぜ。もう。――いや、それにしても」
「?」
アリサカが天を仰いでいた。
「俺達、ようやくここに帰ってきたんだな」
「アリっち?」
「この神社。よく遊んだな。かくれんぼだよ。このへんに隠れてさ。秘密の場所だ。ここを知ってるのは俺しかいなかった」
「は?」
「見つからなくて、誰も来ないままそのうち寂しくなって、気づいたら夕方になってて」
「ねえ」
「出てきても誰もいなかった。おかしな話だよな。今なら十分も歩けば集落にたどり着くのに、一歩も足を踏み出せなくて。こんなちっぽけで狭い場所なのに、昔はまるで異世界みたいだった」
「なにいってるの」
「覚えてないのか? そこで俺は会ったんだよ。彼女に」
「かのじょってなに?」
「優しかったな。俺の手を引いて、ここから連れ出してくれた。握った指先は細くて、ちょっとひんやりしててな。ああ、あの背中だ。白ワンピースの、年上の――憧れのヒトだったんだぜ。あのときは。初恋みたいなもんだった。 いちめんの な、お前も見たよな」
「なに?」
「ようやくだ。ようやく戻ってきた。ほら! わかるだろ、 ■■■ 約束を果たしに来たんだ。向こうもそう思ってたんだよ。ああようやくだ、■■!」
何かいる。
ミツダは全身から汗がふき出るのを感じていた。
神社の、朽ちた境内。その裏に”何か”がいる。
決して少女などではない。
黒い。うごめくもの。形容しがたいなに■■■が。
「ひっ」
アリサカはうわごとを呟きながら境内の裏へと歩いて行く。“彼女”と呼ばれるものに導かれるように。吸い込まれるように。
―――
おかえり
まってたよ
―――
境内の裏に彼女――いや、“それ”の姿が見えた。
黒いヒト型。しかしシルエットも■■■■不確かで、それは流動的に蠕動する集合体のようにも見えた。そして見上げるほどの高さがある。ヒト型であってもぜったいに人間ではない。ましてや女の子などでもない。これが怪異ではないというなら何が怪異なのか。この"証拠”をしっかり撮って持って行けば、あの記者は喜んでカネを払うだろう。しかしミツダはカメラを向けることなどできなかった。
「なにこれ」
あれだけ静かだった空間を、再び耳障りな蝉時雨が包み込み始める。うるさいくらいに。耳を塞いでさえ聞こえてくる蝉の声。何かの断末魔。水の音。■のささやき。
いち
めんの■
■■畑
力が抜ける。やばい。逃げなくちゃ。
「おい、何してんだよ。こっちへ来いよ。せっかく戻ってきたんだ。また一緒に、みんなで遊ぼうぜ。ずっと。ずっとおおおおずっとずっと■■とここで」
知らない。そんなの知らない。アリサカはそんな話などしたことがない。コンドウと同じだ。いきなりおかしくなってしまった。彼は一瞬で狂ってしまった。目の前にいる“彼女”である自分を放っておいて、知らない場所の、知らない過去と、知らない■■とやらの話をしている。何なの。何なのこれは。あれは誰? いや、あれは“なに”?
「あそぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼおおおおおおおお」
―――
ミツダはカメラもバッグも何もかも投げ捨てて逃げ出した。
ところどころが欠けた古い石造りの階段。いくら降りてもたどり着かないなんて、そんなことがあったらどうしよう。顔にかかる蜘蛛の巣や虫刺されのかゆみ。そんなものも気にせずミツダは走る。駆け下りる。
やがてあの鳥居が見えた。やった。帰れる。コンドウもアリサカもどうでもいい。早くここから帰ってやる。
走る。とにかく走る。途中でヒールが脱げる。裸足のまま気にせず走る。陽に焼けたアスファルトは鉄板のように熱く、足の裏を容赦なく焼く。もういやだ。夏なんていやだ。このクソみたいな夏から抜け出して、現実の世界に帰るんだ。山を抜ければ冬。冬が待ってる。夏から逃げる。遠くに山が見える。集落を抜ける。水田の畦道を駆ける。さっき休憩した、あのバス停を通り過ぎる。そして晴天の下、いちめんの■■■畑が
「?」
向日葵?
知らない。こんなのは知らない。さっきはなかったはずだ。朽ちたバス停を囲むように咲いた一面の向日葵畑。
「なんなのよ」
嗚咽まじりの声が漏れる。答えてくれる人はいない。
声が聞こえた。何かの影が見えた。自分の背丈くらいある向日葵が、見事に咲いている。黄色。緑。黄色。緑。黄色。黄色。そして中心に誰かがいる。
笑い声が聞こえる。楽しそうに笑い合う、男の子と女の子の声が。
―――
ねえ
またあそぼうよ
約束だよ
―――
向日葵畑から顔を出すように、少女の姿があった。麦わら帽子の、白ワンピースの少女。
美しい景色だった。黄色と緑に彩られる真ん中に、白いワンピースが翻る。
――普通の人間の背丈なら、見えるわけもないのに。
いちめんのひまわり畑
出口は見えない。前を向いても後ろを向いても、向日葵しか見えない。
「あ」
ミツダはそれでも走った。出口はどっちだっけ。あの山まで逃げ込めばここから抜け出せる。夏から逃げられる。夏から。いやだ。ここからはやく逃げたい。でも逃げられない。
夏から逃げられない。
「あああああああああ!!!」
出口がない。向日葵畑が広がっていく。とめどもなく広がっていく。白いワンピースの少女が笑う。遊ぼうよと笑いかける。また会えるよねと誘いかける。いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑白いワンピースの少女いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑黒くうごめく何かいちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑いちめんのひまわり畑
夏を刻み込む怪物が。
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