ついてる日④ 終
ついてる日④
「今何歳ですか?」
「もう四十ですね」
「見えない……」ビール片手に、彩子は目を丸くした。
何となくわざとらしい驚きように孝道は苦笑した。
「私、三十五なんですよ。栄えた町の方まで行って、看護師として働いてたんですけど……。前にも言ったかもしれませんが、夫と喧嘩する回数が増えて、精神的にも病んじゃって、璃子を引き取って離婚したんです。あ、シャレじゃないですよ?」
「わかってますよ」孝道はさきいかを口に入れて、チューハイをあおった。
「何だか私一人で必死になってた気がしたんです。璃子は璃子で小学校上がる前で、夫は夫で遊び呆けてて、私は夫と璃子の服を洗って、部屋の掃除もして、それプラス、食事も作らなきゃで、目が回るんですよ……。私馬鹿みたいだなって思ったんです。璃子の親権をどちらかにするときも夫は何も言わなかったから、そんな無責任な人には任せられないって思いもあって私が璃子を引き取りました。璃子には色々としつけて、私の手伝いをさせるようにしました……」
「苦労されてますね……」
孝道は本心からそう言った。
その後、彩子の好きな映画に話題を振った。すでに軽く十杯は越すくらいの勢いで缶ビールに手を伸ばしていた彩子は、開缶してそれを口につけようとしたが、一旦缶をテーブルの上に置いた。
「孝道さん……」
深刻な表情だった。夜も更け、深酒をしたようにも見えたのだが、彩子は酒に関して頓着がなく、ざるのようにも見えた。
改まった様子で彩子は孝道の名を呼んだ。ほのかに火照った顔に思わず見とれそうになる。
「私たち恋人としてお付き合いしません?」
突然の告白だった。
これこそ千載一遇のチャンスか――
孝道は心の奥底で思った。志半ばで故郷に帰り、何の取り柄もない自分に思いを寄せてくれている、そんな一人の女性が今、目の前にいるのだ。
これはチャンスなんだ、と彩子の申し出に勢い付いた孝道だったが、長年の独り暮らしがそのチャンスを無下にした。
「お気持ちは嬉しいんですが……。僕も今無職ですし、これといって取り柄もないクズだと思ってます。自己肯定感が低いっていうか……。それに僕、今まで恋愛したことがなくて……。それも収入が安定しなかったというのと、少なかったのが原因で、そんなんじゃ女性とお付き合いなんてとても……って感じで、職場とかで脈ありに思えるときもあったんですが……。ごめんなさい。今の僕ではちょっと難しいです」
孝道がそう話している間、彩子はビールを飲むことに集中しているようだった。
飲み干して深く息を吐くと、
「そうですか。その……ちょっと待ってください……。今の私が言ったことノーカンにできませんか? 思えば酔った状態で告白するのも失礼だったかと。ごめんなさい……」
彩子は頭を垂れた。
「あ、ああ、そうですか……。今のをなかったことにするんですね……わかりました……」
「また孝道さんが再就職して落ち着いたら、告白するかもしれません。でも、もしかしたらそのとき私の気持ちも変わっているかもしれません……」
告白をすること自体がなくなる可能性もあるということだろう。
孝道はそれならそれで仕方がないと割りきっていた。
一生に一度あるかないかの機会だったのかもしれないが、孝道は本心で彩子に答えた。
彩子は小さく手を動かして、孝道にもっと飲めと促した。
孝道には酩酊したためか、強い眠気が訪れていた。
はっと目が覚める。
自分の家と同じ間取りだったので、今何時か慌てて時計を確認しようと部屋を見回すも、ここが他人の家だったことに気づき、目の届く範囲に時計がなかったため、ポケットからスマホを取り出し時間を確かめた。
朝六時前くらいだった。
彩子はテーブルの脇で横になり寝息を立てている。
伸夫も静かにしているし、璃子が起きている気配もない。
おもむろに立ち上がり、あることをしようとこの部屋に入ったときからの欲求を満たすために脱衣所へと向かった。居間のすぐ隣にある脱衣所には洗濯かごがあった。
ノーカンと言ってくれた彩子が少なからず自分に好意を抱いていることは明らかだろう。
それは孝道の将来の嫁になることを意味していたし、そうした経緯からある願望を成すための理由付けができたことに、孝道はそれを実行に移す理由付けがあるように思えた。
洗濯かごの中を覗き込む。
璃子と伸夫、そして彩子の脱いだ衣服や下着がそこに山積みになっていた。
彩子はまだ眠っているようだ。
服をまさぐって、つまみとった黒いレースの下着。
大きさや下着のデザインから間違いなく彩子のものだろう。
孝道は計画を完遂させようとそれを鼻に押し付け匂いを嗅いだ。
彩子の匂いがした。
下着を洗濯かごの奥底へ押し込み、外の空気でも吸おうかと、玄関の方へ向かった。
玄関から見て左にはトイレがあり、それを横目に靴を履こうとしたとき、
「帰るの?」と璃子が声を発した。
心臓が飛び出すくらいに驚いた孝道だった。もしや今の行為が見られていたのか、と心は忙しなくなる。
しかし何とか冷静さを維持して、璃子にはこう言った。
「少し外の空気を吸ってこようかなって。十分くらいで戻るよ」
璃子はわかった、と言うとトイレに入った。
寝不足だったために、足取りも重く、朝日がまだ昇りかけのほの暗い道を歩きながら、自販機でコーヒーでも買おうかと、横断歩道の前で立ち止まった。
騒々しい鳴き声が頭上から聞こえてきた。鳥が群れて電線に止まっていたのだ。
肩や腕にある感触があった。
雨か、と空を見上げると鳥の群れの向こうの空は雲ひとつ浮かんでいない。
雨ではない――
そう思ったとき、孝道の額や頬に雨粒が降り注いできた。
しかしやはりそれは、雨ではなかった。
白い液体が孝道の体に次々と落ちてくる。
たくさんの鳥の糞が一斉に降りかかってきたのだ。
「うおおおお……」
鳥の糞まみれになった孝道は呆然としつつ、その呻き声しか出ていかなかった。
ついている。
将来の嫁候補を得たと同時に、今日は鳥の糞までついている。
ラッキーともアンラッキーとも言えるどっち付かずの運勢が、ある日、孝道に到来していた。
了
ついてる日 ポンコツ・サイシン @nikushio
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