もしもインザワールド

山南こはる

八人の柿澤優子たち

 わたしの名前は柿澤かきざわ優子ゆうこ。みんなにはいろいろな呼び方をされているけれど、おもに『柿澤』とか『優子』ってふつうに呼ばれている。中には『カッキー』とか『ゆっこ』とか呼ばれることもあって、『さわこ』とか『かきこ』とか、ちょっと変わった呼び方をする人もいる。高校時代のギャルのクラスメイトには『ゆうこりん』って呼ばれていた。ゆうこりん。最後に星でも付きそうなあだ名。あれはちょっとバカみたいで、恥ずかしかった。


 そんなわたし、柿澤優子にはちょっとした楽しみがある。気分が晴れない時、憂鬱になった時、生理痛が重い時、せっかく出かけようと思ったのに雨が降った時、満員電車の月曜日エトセトラ。そんな時、わたしは目をつむるのだ。会社のデスクだってすし詰め電車の中だって、はたまた友人とおしゃれなカフェで過ごしている時も、わたしはいつだって、その世界に『トリップ』できるのだ。


 わたしは空想の中に『わたし自身』を飼っている。

 わたし自身。


『柿澤』のわたしと『優子』のわたし。『カッキー』のわたしと『ゆっこ』のわたし。『さわこ』と『かきこ』もいて、もちろんそこには『ゆうこりん』もいる。そして今、あなたと話しているこの『柿澤優子』自身を加えて総勢八人。それがだいたい、わたしの空想の中を出入りしているわたし自身たちである。


『柿澤』がわたしの方を振り返って、


「あら、『大家さん』じゃない。久しぶり」

「最近来ないから、心配していたのよ」


 ここではみんな、わたしのことを『大家さん』と呼ぶ。みんなはわたしの空想に住んでいるから。わたし以外の七人が、久々に来た大家のわたしを各々のぞき込む。


 髪型やメイクや服装や体型は違っても、

 みんなわたしと同じ顔をして。


「大家さん大家さん」


 いちばん貧乏で、でもいちばん人生を楽しんでいる『かきこ』が、矯正していないガタガタの歯をニンマリさせて、


「久しぶりに、『女子会』しようよ」



 わたしの空想世界の『女子会』は、たいがいカフェで行われる。テレビや雑誌で取り上げられた有名なお店の景色を、強く、細かく思い描くのだ。そうすればそこはカフェになって、うららかな日差しが差し込むテラスに座り、わたしたち『柿澤優子』はそれぞれの飲みものを手に、楽しい『女子会』をはじめるのだ。


 女子会。


 それぞれ呼び名も境遇も、今の生き方もまったく違う『柿澤優子』たちの女子会。


「優子の子どもはどう?」


 ゆうこりんがカクテル片手に訊く。昼間っから酒とか人間として終わっていると思う。いや、ゆうこりんもわたし自身だけど。


「最近はイヤイヤって、そればっかり。もうほんとうにやんなっちゃう。産んだこと、後悔しちゃう」


 優子の深いため息。彼女はゆうこりんとふたり、身を乗り出して子どもの話題に花を咲かせる。空想世界の中で、子持ちなのはこのふたりだけ。でもわたしたちの年代において、子どもの話題ってけっこうセンシティブ。いつも通りというか案の定、ゆっこの表情がくもり始める。ゆっこは不妊治療中だ。ダンナは優しいし経済的に恵まれていてしかも専業主婦というみんなのあこがれをすべて持っているような彼女だけど、こと子どもに関してはそうはいかない。最近の彼女はいつも元気がなさそう。そんな彼女の肩をカッキーが抱いて、ビールのおかわりを注文する。


「カッキーは最近どう?」


 カッキーは中学校で国語の先生をしている。


「毎日まいにち、残業ざんぎょう! 服なんていっつもジャージ。わたしも柿澤みたいにおしゃれしたいなあ」

「あら、わたしはハイヒール履いて仕事するのがツラいけど」


 柿澤は仕事一筋のキャリアウーマン。わたしたちの中でいちばん学歴があってオシャレで経済的にも恵まれているけれど、彼氏が欲しくてたまらない。


「そういや、さわこは最近どうなの?」


 ふつう、女子会の「最近どうなの?」のフレーズは、「男とどうなの?」って意味に違いなくて、でもさわこに向けられた「最近どうなの?」は、もちろん、さわこ自身の最近に向けられた言葉である。


 さわこは視点を外しながら、


「えっと……。最近は、あんまり」

「コンビニのバイトどうなったの?」

「……えと、やめちゃった。店長怖くて、バックれて」


 仕事のことになると柿澤は誰よりも厳しくて、すぐに逃げるクセのあるさわこを叱り飛ばすのだ。それをカッキーがなだめる。しかたないよ柿澤さわこにはいろいろあったんだよあんまり怒らないであげてよさわこだってわたしたちだってみんな同じ柿澤優子の可能性なんだから――


 さわこが涙目になり、柿澤はますます怒り、カッキーは教師の声でふたりを諭す。そんなとなり、わたしとゆっこ、それからかきこは小さくなってひそひそ話す。


「かきこはどうなの?」


 かきこにも恋愛の話は通用しない。かきこはわたしたちの中で、唯一矯正していない歯をにんまりさせて、


「それがさあ、この間書いた小説、最終選考まで残ったんだ」

「すごい!」


 かきこは夢追い人だ。わたしたち『柿澤優子』の中で、唯一、小説家になるという夢をあきらめなかったし、今もなお、あきらめてはいない。貧乏だし歯はガタガタのままだし、ついでに彼氏もいないし結婚の話なんて空の彼方だけど、彼女は会うたびに、いつも楽しそうである。


 ゆっこが優しくて穏やかな笑みを浮かべて、


「大家さんは、最近どうなの?」


 わたしは『柿澤優子』。ここにいる八人の『わたし自身』の代表。


「うーん、そうだな……。わたしはね……」




 最近いろいろあった。結婚の話が出ていた彼氏と紆余曲折があって別れ、失意のどん底。仕事はうまくいかないし、時短勤務の子持ちママのフォローばかりでうんざり。子どもはかわいいと思うけど、他人の子どもの話を聞くとなんだかモヤっとする。自分が母親になる未来はいまいち想像できなくて、でも結婚して子どもを産んだ同級生の姿を見ると、意味もなく焦りが生じてくる。金曜日の夜にはひとりで居酒屋でヤケ酒。声をかければ付き合ってくれる友だちは何人かいる。実家の両親、それから兄弟たちは健在。甥っ子と姪っ子にとってはいい叔母さんで、家に帰れば愛するネコちゃんがわたしの足にまとわりついてくる。



 仕事一筋で、オシャレで、学歴があって、でも彼氏が欲しい『柿澤』。

 子どもがいて、主婦で、幸せそうで、でも自由が欲しい『優子』。

 中学校の先生で、仕事が大好きで、でも過労死寸前の『カッキー』。

 専業主婦で、ダンナは優しくて、でも子どもが欲しくて仕方ない、不妊治療中の『ゆっこ』。

 引きこもりで太っていて、でも二次元の彼氏と幸せに暮らしている『さわこ』。

 ものすごく貧乏だけど、小説家の夢を追いかけ続ける『かきこ』。

 派手でシングルマザーで恋愛体質で、でも誰よりも人生楽しそうな『ゆうこりん』。


 みんなこのわたし、『柿澤優子』の空想の住人。わたし自身の可能性。わたしの代わりに存在していたかもしれない『もしも』の世界のわたし。


 それぞれみんな、何かで苦労していて、でも何かの幸せを持っている。『柿澤優子』には『柿澤』の経済力はないし、『優子』のような幸せな家庭像とは程遠く、『カッキー』のような仕事に対する姿勢はない。『ゆっこ』みたいな優しいダンナさんはいないし、『さわこ』が心の支えにしている推しのような存在はいないし、『かきこ』のような夢を追いかけるバイタリティはないし、『ゆうこりん』のような明るさもない。


 幸せはそれぞれ。でも苦労もそれぞれ。


 自分の心が弱った時、心の奥底が、嫉妬や羨望や自分の不幸でにごった時、わたしはいつもこうやって目をつむるのだ。


 自分の持っているものを確認するために。自分の持っている『幸せ』の尊さを、再認識するために。


「大家さん、何笑っているの?」

「ううん、なんでもない」


   ※


 わたしの名前は柿澤優子。みんなにはいろいろな呼び方をされているけれど、おもに『柿澤』とか『優子』ってふつうに呼ばれている。中には『カッキー』とか『ゆっこ』とか呼ばれることもあって、『さわこ』とか『かきこ』とか、ちょっと変わった呼び方をする人もいる。高校時代のギャルのクラスメイトには『ゆうこりん』って呼ばれていた。


 今までのわたしにはいろんな可能性があった。そしてその可能性は、これからも目の前に広がっている。


 他の人から見たらどうかは分からないけれど、わたしはたぶん、幸せだ。

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