フェニックス

shomin shinkai

フェニックス

 コロナとかいう極悪非道な殺戮兵器のせいで、俺の聖地「スポーツジム」が閉鎖されてしまった。

 俺は二日ほど寝たきりになった。

 目標を失ってしまったのだ。どれだけやる気がない日でも、ジムに少し顔を出したなら、同じ志を持つ仲間たちが息を吐き、汗を流しながら体の部位一つ一つを丁寧にいじめている姿が目に入る。やる気が出る。やる! しかしどうだ。家で一人ぼっちの生活。六畳の部屋は狭く、壁は無機的な恐怖で淡々と自分を押しつぶそうとする。筋トレやらなきゃ。そう心が言う。だが体が動かない。とりあえずスマホを、とりあえずテレビを、とりあえず昼寝を。

 ……あぁぁ! 

 布団をひっかき、涙を何十リットルも流した。手を伸ばしても届かないベンチプレス。触れることすらできないパワーラック。あまりの絶望で、体重は五キロも減った。

 だが、しかし、だ。

 絶望の闇の中で俺の筋肉が俺に語り掛けてきた。

 それでいいのか? ジムにいけないからって、努力をやめていいのか? コロナが立ち去り、日常生活に繰り出す自分の姿を想像してみろ。たるんだ腹、ぽっちゃりした頬、血管は肉に埋もれ、全身は倦怠感で包まれている。もう一度言う。それで、いいのか? お前の自尊心は崩壊するぞ。

 筋肉を見捨てるな。人生を見捨てるな。希望を持ち続けるんだ。

 お前がどんな状況であろうと向上を目指し続ける限り、筋肉はウイルスに屈することはない!

 俺の筋肉は涙を流していた。俺のことを思って、本気で泣いていたのだ。


 俺は開眼した。布団を蹴り飛ばしてベットから果敢に飛び上がると、コップ一杯の水をグビッと飲み干した。体の隅々にまで水がいきわたり、筋肉と頭脳を明晰にする。

 呼吸を一つ。伸びを一つ。

 腹筋。それは全人類が憧れる魅惑の部位。

 俺はただちに床に寝そべり、膝を立て、上体を上に向かって持ち上げまくった。タイマーが終わりを告げるまで全力でやる。腹筋を押しつぶすイメージ。息を吐きながら極限まで腹の贅肉をぺちゃんこにし、「痛いよ」と喚く腹を冷徹に無視する。タイマーが鳴った。無論これで終わりではない。続けて足を宙に上げ、つま先を天高く掲げた。そしてそのままさらに上体を押し上げる!

 内臓が破裂しそうだ。

 愚かな人間はこの痛みをこう呼ぶ。

「筋肉が悲鳴を上げている。やめてあげなよ」

 しかし、己に強い人間はこの痛みをこう呼ぶ。

「筋肉が喜んでいるんだ。もっとやってあげろよ!」

 八つに割れた腹直筋。それすなわち、筋肉の象徴。キングオブ筋肉。

 俺は体をねじり始めた。横に、横に、ロシアンツイスト。こびりついた腹の横の贅肉をひねりでねじり潰す感覚。ムギュ、ムギュ、と脂肪たちを雑巾のように絞っていく。腹斜筋を侮るなかれ。真正面のエイトパックを引き立たせる両脇のえぐみ。これがたるんでいる者は未熟者。腹筋は割れていればいいというものではないのだ。美しく、魅惑的に割れるべきなのだ。

 泣きわめく腹筋をさすりながら、すかさず次の種目へ。

 腕立て伏せ! 

 大胸筋を押しつぶす。上部、中部、下部。全てを痛めつけるべく、脇をしめて腕立て伏せ! 腕を開いて腕立て伏せ! 腕を狭めて腕立て伏せ! みるみるうちにふくらむ大胸筋、絶叫を繰り返す肩と腕。

 止めるな、やめるな。鉄板のような胸板を手に入れたいだろ。それはダイヤモンドよりも輝き、ダイヤモンドよりも固い最上の宝石となるのだ。世の中の一般人たちは、落としたらすぐに見えなくなってしまうダイヤモンドに一体いくら払うんだ。数百万? 数千万? 数億だって? 馬鹿馬鹿しい。その胸を見ろ。両手で鷲掴みにできるような巨大サイズの原石が眠っているではないか。磨きさえすれば、金という価値基準では収まりきらない煌めきほとばしる宝石が無料で手に入るのというのに!

 押せ! 押せ! 大地を、地球を、その上半身で動かすんだ。

 破裂寸前の大胸筋は輝いて見える。男は荒ぶる息のまま地面に寝そべった。休憩? そんなものない。

 背中に鬼が宿る。背筋。これは自重トレの中でもとりわけ鍛えにくい部位である。そうとも、普段我々は背筋を鍛えるためにもっぱら器具に頼っているのだ。だが、今の世界に器具はない。鍛えにくくてもやるしかない。何故なら、物事とは背中で語るもの。背中に獰猛な獣を背負っていなければ、誰に何を語れよう。それに、背筋を統べる者は腹筋を統べる。腹筋を統べる者は背筋を統べる。背筋と腹筋は繋がっているのだ。どっちかだけを極端に鍛えれば、文字通りの死が待っている。

 さぁ、うつ伏せになり、胸を床から持ち上げろ。腰で動くな背中で動け。広背筋の収縮を噛みしめろ。

 汗が零れ、体から蒸気が発せられた。

 錆びた時計のようにぎこちない動きになった背筋。

 男は顔をしかめながら起き上がった。

「さぁ、もう一セットだ」

 二セット目はよりキツイ。蓄積された疲労にさらなる追い打ちをかけ、筋肉たちをさらなる高みへと強制浮上させてやる。

 腹筋が痛い! いいや、喜んでいるんだ。

 腹筋が痛い! 黙れ、腹筋は喜んでいるんだ!

 もう腕が上がらない! 違う、それはドMな腕がもっとやってくれと言っているだけなのだ。

 もう腕が上がらない! 馬鹿野郎、腕を上げようとするな。腕立て伏せは腕で地球を押すものだ、腕を上げるものではない。

 筋肉が瓦解する音が聞こえる。そう、それでいい。一度筋肉をバラバラにするのだ。そしてそれらが再結合することで、筋肉は肥大する。

 無論、無理はダメだ。怪我はダメだ。だが、無理をしろ。怪我を恐れるな。

「これだ。これなんだよ」

 冷蔵庫から水を取り出す。棚からプロテインを取り出す。混ぜる。飲む。喉仏が暴れ、漲る栄養。俺はまた一段と強くなったのだ。この瞬間の達成感たるや、とても言葉で表現することなどできない。

 

 一か月後。依然コロナの猛威は世界を覆うが、対策を念入りに施してジムが再開された。久々の再会に胸躍らす人々。しかし彼らの話題は情けないものだった。

「いやぁ、家にいるとついつい飲んで食べちゃいますよね」

「わかる、わかる」

「ビールがうまいのよ」

「やることないから食べちゃうし」

「五キロ太っちゃいましたよ」

「動く気おきないよね」

「ずっとベットの上で暮らしてます」

 かつてのストイックな緊迫した空気など微塵もなかった。

 しかし。自動ドアが開き、大きな男が入ってきた。雑談を交わしていた人間たちはすっかりその口を唖然と開け、入ってきた男のその姿に見惚れる。

 彼だけこっそりジムにいっていたのではないか、誰もがそう思わざるを得なかった。

 タンクトップからはみ出そうな大胸筋、山脈が連なる腕、パンツが今にもはじけ飛びそうな太もも、自我を持った八つの腹筋。何よりその瞳は赤く爛々と光っていて、極限と自信の狭間でにこやかに筋線維一つ一つが笑顔を放っていた。

 男が一歩を踏み出す。

 他の人々は一歩後ずさる。

 男が受付で会員証を手渡す。

 他の人々は尻もちをつく。

 彼らは自分が自粛という概念に屈服していたことに恥じ、そして、コロナという兵器に打ち勝ったこの男を拝みたい衝動に駆られていた。

 男は人々の畏敬の眼差しを全身で浴び、最上の愉悦に浸った。自尊心の誉れ高き高波が心をこねくりまわし、筋肉に宿っている地獄のトレーニングの日々がまるで成仏されていくようにじんわりと快感に変わっていった。

 これだ。俺はこの日のために筋トレをしているといっても過言ではないのだ!


 閑散としたジム。ガラス越しに見える器具たちは汗とうめき声を久しく聞いておらず、暗がりの中寂しげにうなだれていた。開かない自動ドア。灯らない電気。

 マスクをした男は、そんな聖地を物憂げな表情で見つめた。

 コロナは広がった。自粛は延長された。終わると思っていた鬱屈は終わるどころかその足取りを加速させ、人々を各々の聖地からより一層引き離しているのだった。

 だが、男の心身は死んでいなかった。いや、死んだとしてもまた生まれる。いつかジムが再開されたときに、自分の理想が現実になることを本気で信じ、同士たちとの再会を切に願う限り、決して死んだままになることはないのだ。

 男はランニングを続けた。軽快な足音、弾む呼吸。

 そう、それはまさに、筋肉を壊して壊して増大させていく、筋力トレーニングそのものだった。死んでも死んでも生き返る。

 男はこれからも、この危険で退屈な世界で自重筋トレをやり続けるのだ。

 

 

 

 

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