第7話 ただあなたを愛していた

 プロとして、子どもの成長を促し、見守る仕事。嫌な仕事ではなかった。

「あなた、どうして先生になろうと思ったの?」

 仕事の初日でぐったり疲れた私に、園長が優しい笑みを浮かべてそう尋ねてきた。

 かつて進路希望を書いた時。思う出したのはあの日、少女と歩いた秋の風の香りと、わさびの味だった。

「まあ……嫌じゃないなって思って。子どもと接するの」

「なるほどね」

「よく、好きなことを仕事にしろとか言うじゃないですか。でも、嫌じゃないことを仕事にするのも、また一つの選択肢なのかなって」

「ふふふっ。あなた、正直ね」

特に嫌味というわけでもないように、園長は私の肩を叩いた。

「いい仕事だと思うよ? 誰かの未来を作っていく感じだからね」

 その園長の胸を張って語る姿を見て、初めて大人を格好いいと思った。

 次の日も。次の日も。園児たちに私はご立派に『指導』なんかをしてしまう。業務上仕方ないにしても中身はあの日の私のままで、子どもたちに偉そうに何かを指導しているときも、まるで大人ごっこをしているみたいで気持ち悪かった。

そんなある日、園庭の隅でみんなの輪から離れ、泣きじゃくっている男児が目に入り、声をかけた。

「どうしたの? 何かあった?」

 私はしゃがんで、男児と視線を合わせる。男児の土で汚れた手のひらには、つぶらな瞳を輝かせる小さなトカゲが乗っていた。

「みんなに、きもちわるいって、いわれた。これ、ニホントカゲなのに」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を私に見せまいと、男児は下をうつむき、そう言った。尻尾の青い輝きを見て、昔、彼がトカゲについて教えてくれたのを思いだす。

「知ってる。大人になったら茶色い尻尾になるんだよね。よく見つけたね。メスの方が背中に線が残りやすくて……」

男児は私の賞賛と知識に一切耳を貸さない。他人に自分を否定された事実にのみフォーカスを当て、暗闇の底にいるのだろう。

「生き物が好きなのって、ダメなの?」

 世界で自分が最も孤独なのだと言わんばかりの切ない声色だった。反射的に私はこう返した。

「素敵だよ」

 自信を持って、明るい声色で励ますのが、プロとしての仕事だ。

 そして、私は言葉を続ける。

誰に言われても、無視していいから。素敵なことだよ。いつまでも大切にしてね。大人になっても覚えていて。みんな誰よりも素敵なあなたが羨ましくて仕方がないんだよ。思いつくままの賞賛の言葉を何度も彼にそう伝える。

少年は泣き止むと、トカゲを持たないもう片方の手でそっと私の髪を撫でた。その暖かく、予想外の感覚に戸惑った。

「……? どうしたの?」

 私が問いかけても、少年は手を止めなかった。

「先生、泣いてるかなって、思って」

「あはは、泣いてないよ」

人の痛みに気づけるんだね。そういうところも素敵だね。言えば言うほど私の目と胸の奥が熱くなる。水をためたコップに穴があいたかのように、涙がぼたぼたと落ち続ける。滴り落ちる涙が、エプロンを伝い、トカゲを持つ彼の手のひらにぽたりと落ちた。

涙を拭いたら、自分が泣いていることを認めるみたいで、何事もないように素敵だよと言い続けた。言葉が出ると、声が涙と共に、上ずってしまう。言えども言えどもまだ言い足りない。だから、何度も素敵だと伝える。

 男児の涙はとっくに止まっている。代わりに私が泣いているだけ。そのまま前を向くのが苦しくてたまらなくなり、下を向いて嗚咽を漏らした。

男児は私の涙が止まるまで、いつまでも私の頭を撫で続けた。



その日の夕方、仕事で醜態を晒したというのに、足取りは軽かった。幸い私が泣いたことを男児が誰かに漏らすことはなく、プロ失格の姿は男児を除けば、目撃者はいない。

帰り道の横断歩道を渡るとき、年甲斐もなく手を挙げてみた。気恥ずかしい気持ちもあったが、悪くはない。そんな自分を祝福するために、スーパーで一番高いワインを買ってやった。ワインを飲むのは、あの日の夜以来だ。十年前の夜、私が握りしめた彼の震える手の感覚が、今でも残っているような気がした。

 家に戻り、ワインのつまみを探そうと冷蔵庫に近づく。その時、未開封の段ボールが足に当たった。アパートに引っ越ししたばかりのため、まだ段ボールを全部開けてなかったのだ。箱を気まぐれで開けてみると、そこには埃をかぶったオセロが入っていた。マグネット式で片付けも不精していたため、コマも盤上に並べたままかもしれない。

 箱から中身を取り出すと、私の想像通り、盤上のコマ配置はあの日のままだ。彼はあの日、私の部屋から逃げる寸前、結局不利な状況になる角の近くのマスにコマを置いていた。置けるマスはもう少ない。あの日の彼と対戦する気分で、オセロを床に置き、じっと盤面を見つめる。酒のあてにはぴったりだと思い、開封したワインを最近買ったおしゃれなグラスに注いだ。

彼のくれたチャンスを意気揚々といただこうと、黒いコマで角をとろうとした。しかし、彼のほくそ笑む顔が脳裏に浮かび、手は止まる。

 オセロの先の展開を思考する。仮に、彼の誘いに乗って角にコマを置くとしよう。すると彼はもう一つの別の位置の角がとれる。全身の鳥肌が立つ。私が角をそこで取っていたら、私の稼いできた黒いコマを、ほとんど真っ白にすることができるじゃないか。

 彼は本当に手加減をしていなかった。だとしたら私も容赦するつもりはない。黒いコマを角ではなく別のマスに置く。そして、彼の手番である白いコマを手に取り、思考する。できる限り彼の立場になるんだ。

 コマを置くたび、彼と私の立場が入れ替わる。一つ置くたび、パチン、パチンと乾いた音が心地よく部屋に響く。静かだった部屋のはずが、今は一人じゃない気がした。

 結果は数分で明らかになり、疲れた思考を手放すように、思い切り床に寝転ぶ。冷たい床が、熱くなった頭を冷やしてくれた。

三十四対三十。その数字を何度も頭で繰り返し、ほくそ笑む。ああ、やった。私の勝ちだ。

 彼にいつか会ったら、この結果を最初に宣言してやろう。そして、彼の悔しがる顔に指をさして笑ってやろう。悔しがる彼は、きっともう一回やろうと言いだすだろうが、絶対に乗ってやるもんか。

 にやにや笑いながら、寝転んだままグラスのワインを一口含む。苦さと甘さが適度に入り混じった味が広がり、これ以上にない幸福感で満たされた。誰かに乾杯するように、グラスを高らかに掲げた。

「大人最高!」

      

ちなみに、この数週間後、幼稚園の企画で、とある天才中学生のアート展示会に行くことになった。割と近くでやることになったから、休日に母を誘ってもいいかもしれない。

 その展示会の名前は

【わたしのクツは、汚れていない】    完

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私の靴は汚れていない ろくなみの @rokunami

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