第6話 深夜徘徊
夢の中で、数え切れないほど彼に会った。夢の中はいつもあの日の夜だった。そして、私の部屋で決着のついていないオセロを続けていた。夢が覚めるころには、勝敗がどっちかなんて覚えていない。ただ、二人で格好つけてワイングラスを傾けていることだけは鮮明に残っている。現実でも、水道水なんてケチなこと言わずに、一緒に残ったワインを探して飲めばよかった。
「はあ……」
畳と蚊取り線香を混ぜた香りと共に、意識は現実へと戻された。
「あんた、ベッドで寝なさいよ」
はるか上からおばあちゃんの言葉が聞こえ、仰向けに体制を変える。肩まで伸びた白髪を携えるおばあちゃんの顔と、一時を指す壁掛け時計が目に入った。
「寝すぎた? もう一時?」
「夜の一時よ」
中途覚醒というやつで、医者には睡眠薬を処方されているが、今一つ効果はみられない。
「そっか。またあの夢見てた」
「そう」
特にコメントをおばあちゃんは挟まず、私の目を見て、言葉を待った。
「最近こんなこと考える。あのまま用水路から、あいつの手を引いて、逃げて、警察を振り切ってたら、どうなっていたんだろう、とか……」
まどろむ頭で考えた思考は頼りない。話すにつれて自信がなくなり、言葉尻はどんどん小さくなっていった。
「あんたはどう思うわけ?」
相変わらずおばあちゃんは答えや意見を口にしない。必ず私の思考を深める問いかけをしてきた。
「さあ……お母さんのお金もあったし、それ使って遠くに行って、働いて……」
そして、その先に何が私たちを待っていたんだろうか。
「キャバ嬢とか私向いてるかな?」
「やめときなさい」
「失礼な」
その答えだけはいやにはっきりと返してきた。
「そもそも、あいつとの関係悪くなったの、中学の遠足の時だよ。気持ち悪いとか、言わなかったら……いや、そもそもどこかで謝っておけば……いや、そもそも」
「あんたの話にはそもそもが多いわね。いつまで考えれば楽になるのかしらね」
正論にグウの音も出ない。そんなの私が知りたい。
いくつもの可能性を想起し、現実から逃げ続ければ永遠のような苦しみも、いつかは終わるんじゃないか。それくらい期待してもバチは当たらないだろうに。そんな眠れない夜はあの日のまねごとをするに限った。
「おばあちゃん、コーヒーある?」
「余計眠れなくなるのに、懲りないねえ」
そうは言いつつ、インスタントコーヒーの粉をおばあちゃんは出してくれた。そして、あの日のように窓際に座って、コーヒーをすする。
「相変わらずまずいね」
「あんた、わかってて飲んでるだろ」
おばあちゃんはすべてを見透かすように目を細め、粉の缶を手に取り、戸棚にしまった。あの日から、少しだけ飲み干す時間は短くなり、十五分でマグカップは空になった。マグカップをシンクに持って行き、黄ばんだスポンジに洗剤をつけ、カップの飲み口を優しく泡立ててこすった。
おばあちゃんはしばらく考えたのち「散歩、行くんなら気を付けてね」と言って寝室へと戻っていった。マグカップの水気を拭きとり、食器棚に戻した後、布巾で手を拭く。誰もいない室内を見渡し、一息吐いて、玄関に向かった。最近買い替えたランニングシューズを履き、私の深夜徘徊は始まった。
車が一台も通っていない道路を歩く。涼しくも寂しい風が私の顔をそっと撫でた。道中には、亀や虫がのそのそ歩いているため、そっと道の横によけてみた。恩返しに来たことはないし、お礼の言葉はもらえない。この行いが私に何かメリットになることなんてない。ただの願掛けだ。
そして、いつもの流れでコンビニにたどり着き、店員にいつもの注文をした。
「三十七番一つ」
「お嬢ちゃん。毎回申し訳ないけど、タバコは年齢確認できないと売れないんだよね」
初老の店員に申し訳なさそうにいわれるのももう慣れた。
「かっこつけるためです。吸うわけじゃないです」
「駄目なものは駄目」
そして、私は渋々、お菓子コーナーの隅にあるわさびキャンディーをレジへと持って行き、購入する。
「この飴、舐めたことあるけど、おいしいかい?」
まじまじとキャンディーのパッケージを見つめながら店員は言った。
「まあ、慣れれば」
店員は苦笑し、会計を終えたキャンディーを渡してくれた。
夜風の涼しさを感じながら、わさびキャンディーを咥える。こんなことを続けても、結局現実は何も変わらなかった。そして歩きながら、いつもの不毛な思考を繰り広げる。
お母さんの件も、あいつの件も、リョウコの件も。私が最初からみんなと出会わなければ何も起こらなかったのだろうか。そしてこんな苦しい夜を味わい、まずいコーヒーを飲むことも、まずいキャンディーを舐めることも、そして家に帰って部屋に戻り、膝を抱えて涙を流す必要もなかったのだろうか。
答えは出ないまま町を足が痛くなるまでうろうろしていると、気が付けば辺りは明るくなり始めた。
こんな夜を何度繰り返したかわからない。時計の針もカレンダーの日付もどんどん進んでいき、いつの間にか高校生活は終わろうとしていた。
ただ、卒業式の一週間前にある事件が起きた。おばあちゃんに一本の電話が入り、珍しく小一時間ほど話をしていた。そして電話を切ると、 おばあちゃんはいたずらっぽく微笑んだ。
「お母さん、元気みたいだよ」
どうやら家を出た後、警察に保護され、精神科で入院する羽目になったらしい。その後私に会うこともできず、専門のグループホームで暮らしていたとのこと。そして、障害年金をもらいつつ作業所通いをしていたとのことだ。
卒業する前に一度会っておこうと思い、おばあちゃんから聞いた施設の住所まで電車を乗り継ぎ、面会することができた。
母は三年前と比較すると少しだけ太っていて、目じりのしわが増えていた。
「あら、久しぶり。元気だった?」
あっけらかんと母はそう言った。私はどんな言葉をどうやってかければいいのか。そんな台本を道中で考えていた。
「あのさ」
「先に言っとくけど、あんたが、あの日の前に何をしてもしなくても、多分、何も変わってないよ。この『今』は何も変わらない」
私の言葉を遮った母の言葉で、台本は意味を失った。
私は心のどこかで傲慢にも、母が泣きながら謝罪してくると思っていた。だから、その諭すような言葉と態度に拍子抜けした。そして私も、弁解も言い訳も辞め、別の話題を選んだ。
「私ね、中学のころすっごい、いじめられてたの」
母に自分の話をするのは久しぶりだった。
「お母さんが、自分であろうとして、職場でいじめられてたからさ。だから、私は自分を殺して、お母さんみたいに苦しみたくないって、たぶん、そう思ってた」
「それで、どうだったの」
「最初はうまくいってたんだけどね。きっとどっかでいじめられフェロモンみたいなのが出てたのかも」
「親子そろって難儀なもんね」
「ほんとにね」
母は悪びれる様子もなく、くすりと笑った。私も一緒に笑うことにした。声を出して笑うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「転校してからはなくなったけどね。つくづくよくわからないもんだね」
「そうだよね……私も作業所行って、人間って優しいだって初めて思えた」
「そんなに職場ひどかったの。慕ってくれた生徒もいたんでしょ?」
「一人だけねえ。まあ、その子にも嫌われちゃったんだけどね。きれい好きで気が合ったんだけどね」
母は残念というより、かつての自分を嘲笑するように笑った。人を形作るのが環境なのだとしたら、母は、私の知らないところで、また新しい人間に生まれ変わったのかもしれない。
「一人になると色々考えるの」
私は、内面のモヤモヤを、母に伝えてみることにした。
「世界にもし私しか人間がいなかったら、傷つくことも傷つけることもないのかなって」
「そんなの嫌よ」
母は笑いながら即答した。
「それじゃあ私が、うつ病のあのイケメンさんとも出会えないことになるじゃない。誰かと焼き鳥とビールを楽しめないなんて、耐えられない」
「……それって、施設のスタッフさんに言っていいの?」
「絶対言わないで!」
母の必死の形相に、思わず笑った。
「わかったわかった。まあ、元気そうでよかったよ」
「まあ、元気ね。あんたもう高校卒業だよね。そっからどうすんの?」
「珍しく親らしいこときくじゃん」
「いいじゃない。教えてよ」
「私ね、幼稚園の先生目指すことにしたから」
最期にそれだけ伝えることにした。母は「そう」と短く答えた。
母のこんな未来は、たぶん中学生のころの私は想像だにしていなかった。だから、もっと別の未来もあったのではないかと性懲りもなく想像してしまう。だけど、あの過去があったから、今母が作業所のイケメンにときめくことができているんならそれもありかと思った。
私は彼と一緒に笑う未来がほしかった。それを捨てたのは彼なのだろうか。それとも自分なのだろうか。
答えが出ないまま、いつの間にか私は短大を出て、幼稚園の先生になっていた。
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