かわいそうな菜海

綿引つぐみ

かわいそうな菜海

 いつもニヤニヤしている、その口がとてもいやらしい義父が入院した日、朝のバスの中で菜海なみと一緒になった。

 同じ六年三組のクラスメート。要領が悪くておとなしくて地味な菜海。スカートをはいてんのを見たことない。髪もいじってないし、リップも塗ってこない。いじめの対象にされやすくて、何度か助けてあげたこともある。

 学校に着くまでの間、あたしは菜海と男の子の話をした。それくらいしか女の子同士でする話題なんてない。でも菜海はなかなか乗ってこない。どうしてか聞いたら、菜海は人を好きになったことがないって言う。一度も。かわいそうに。男の子を見てドキドキしたことがないなんて。あたしはあのドキドキのために毎日を生きてるようなもんなのに。どんな子が好み? 好きなタイプぐらいあるでしょ。って聞いても「わからない。みんな同じに見える」だって。それでもしつこく聞いたら「ウミウシ」って彼女は答えた。海にいるあれ。あれがとてもかわいいって。前から思ってたけど、なんかきれいとかかわいいって思う基準がみんなと違うんだよね、菜海は。だから男の子にも興味がないのかもしれない。ほんとにかわいそう。いったい何が楽しくて毎日生きてんだろう。

 そんなことを思いながら教室に入ると、ひとりの知らない男の子がいた。水生人みおと。転校生だった。あたしは一目見てうわっ、と思った。いじめや差別はいけないことだけど、でも本当にありえないんだ。ふつうじゃない。その姿。顔もかっこうもものすごく醜い。たぶんその姿を見ていなかったら想像することも出来なかった、そんな醜さ。でもどこが醜いのかって聞かれたら答えらんない。だって部分部分にはおかしなところなんてひとつもないんだもの。そう。単純に醜いっていうんじゃなくて、存在自体がなんか変なんだ。

 あたしはなんとなく菜海のことを見た。菜海はその子のことを見つめている。あたしはすぐに分かった。

 菜海はその子を好きになったらしい。


 でも。だからといって菜海は告白するとか、それとなく近づくチャンスをうかがうとか、そんなことはぜんぜんしなかった。もったいない。それじゃ男の子を好きになる意味がないじゃん。


 それから何日かたったある日、菜海とあたしはトイレ掃除をしていた。べつべつに暮らしてる弟の学校は掃除の時間なんてないっていうのに。めんどくさい。さっさと終わらせたいのに、菜海はほんとに要領が悪い。まじめすぎるっていうか、小さなところにこだわってなかなか先に進まない。

「あ」

 菜海が声を上げる。見たら便器を詰まらせてる。掃除用のゴム手袋を落としたらしい。

「まったく。なにやってんのよ」

「ごめん」

 すると、あたしたちの声を聞いて隣の男子トイレで掃除していた水生人が入って来た。女子トイレなのに。ぜんぜん気にしてなくて「どうしたの?」って聞いてくる。

「ちょっと見せて。──ああ、これなら」

 と言って何のためらいもしないで便器の奥に手を突っ込む。それを菜海が横からのぞいている。

 水生人と菜海。あたしはその様子を見ていてふと思った。ちょっといたずらしてやろう。

 二人をトイレに閉じ込めて。

 扉を両手で押さえつける。

 ちょっとあけてよ。なにやってんの。

 ふつうならそんな展開が待ってるはずだった。けど。

 そうはならなかった。

 いつまでたっても反応がない。どうしたんだろう?

 と、扉の向こうからかすかな音がする。この音聞いたことある。これって潮騒?

 扉の下のすきまから水があふれた。ざざざざっ。うそ。なにこれ? あふれる水はあっというまに量が増えて流されそうになる。あたしは扉から手を離す。同時にしりもちをつく。瞬間目を閉じて、目を開けると。

 ──あふれたはずの水はどこにもなかった。

 個室の扉は開いていて、中には誰もいなかった。

 二人は消えた。


 翌日、二人が家に帰らなかったせいで学校中が大騒ぎになった。もちろんあたしはトイレでの出来事を誰にも言わなかった。だって人が消えるはずがないもん。言っても誰も信じない。そうだ。ふたりはきっと家出したんだ。かわいそう同士で気が合ったんだ。

 その日家に帰ると義父が退院して家に戻ってた。そしてあたしはいつもと変わらない日々を送っている。けど。

 あれから学校でトイレに入るたび、かすかに海の波の音が聞こえる。その音が、なんだか心地よくて、あたしはトイレでひとりぼーっとすることが多くなった。

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