魔法少女が守るモノ

埴輪

The little match girl

 ──ガチャガチャ。


 何度となく押しても、引いても、部屋の扉は開かない。


 真鍮しんちゆう製のドアノブは、空しくガチャガチャ鳴くばかり。ガチャガチャ、ガチャガチャ。


 避難を呼びかけるサイレンは、もう十分だろうと、とっくのとうに鳴り止んでいた。


 黒髪の少女は扉から離れ、戸棚に置かれたアルコールランプを手に取った。


 引き出しからマッチ箱も取り出す。耳元で振ると、カシャカシャと小気味よく鳴った。

 

 黒髪の少女はアルコールランプを勉強机の上に置き、帽子のようなプラスチックの蓋を指先で摘まんで取り去ると、マッチ箱から取り出したマッチ棒、その赤い先端を、箱の側面にしゅっと擦りつけ点火。それを芯の先に近づけ、火を灯すと、マッチ棒の残り火を振り消した。


 まだ昼間だが、電気が途絶えた今、窓をカーテンで仕切った部屋は程よく薄暗く、アルコールランプの柔らかな明かりと、つんと焦げた匂いが心地良い。


 黒髪の少女は椅子に腰掛けると、勉強机に頬杖を突き、明かりをじっと眺めた。


 ──果たして、マッチ売りの少女は幸せだったのだろうか?


 もし幸せだったというのなら、この世界に幸せはないのだろうか?


 天国に行ける条件は、貧しく、哀れで、可哀想なことなのだろうか?

 

 恵まれた家に生まれ、寒さで震えることもない私に、お婆ちゃんは現れるのだろうか?

 

 そして私を……幸せなはずの私を、天国へと連れて行ってくれるのだろうか?


 ※※※


 ドンガラガッシャーン! ……などという擬音では表現しきれない程の騒音を響かせ、マギカはタワーマンションの屋上に風穴を空け、有り体に言えば、墜落した。


 ガラガラと崩れ落ちる瓦礫。舞い上がる埃。ハウスダスト……糸くず、ダニの糞に死骸、花粉、カビ、細菌、その他もろもろが、光りの中でキラキラと、嫌味な程に輝いている。


 それもやがて落ち着き、見晴らしが良くなると、今度は人を小馬鹿にしたような青空が顔を覗かせた。マギカはそれを仰向けになったまま見上げると、ご自慢の真っ赤なツインテールを愛でることもなく、ただ、心っ……底っ、思うのだった。ああ、煙草が吸いたい、と。


 ──別に、特別な相手モンスターという訳ではなかった。いつも通り、見た目は普通の──今回は短くした茶髪と、クリッとした瞳が印象的な──女の子で、マギカのような対モンスター戦闘員……「魔法少女」と同じような格好コスチユームをしている。……そう、局地的に露出が高く、防御性能に難がありそうな、よく言えばレオタード、率直に言えばスクール水着な、アレである。


 しかしながら、これほど次元を超越した……もとい、常識離れした存在同士の争いともなれば、視覚情報は当てにならず、見てくれなんぞは甲冑プレートアーマーだろうが、スク水だろうが、大差はない……というわけで、過去の多くの創作物で(なぜか)そう描かれてきたように、魔法少女は、実に魔法少女らしい出で立ちであり、それ故に、魔法少女と呼ばれているのであった。


 ただ、同じような格好とはいえ、モンスターの身長は約三メートルと、女の子にしては少々大きい。また、身長が約百五十センチのマギカを、そのまま二倍に拡大したようなプロポーションなので、観測する距離や角度によっては、人間の魔法少女にも見えてしまうところが、分かりにくいと言えば分かりにくいし、ややこしいと言えばややこしかった。(ちなみに、マギカの体重は約四十キロだが、モンスターの体重はその十倍の約四百キロである)


 ──でもって。そんないつも通りの相手だから、強さもまぁいつも通りだろうと、安易に手を出したのが運の尽き。いつも通りを遙かに上回るパワーとスピードにマギカの愛刀「メビウス」は弾かれ、飛ばされ、くるくる、くるくると、避難区域の境界線、その間際の高速道路へと突き刺さり、一方、マギカ自身は文字通り、叩き落とされたのだった。


 モンスターが放った一撃は、組んだ両手を頭上に持ち上げ、一気に振り下ろす……プロレスで言うところの「ダブルスレッジハンマー」である。単純だが、力をダイレクトにぶつけるという点で言えば、非常に効果的な攻撃であった。(空中戦のため、一回転のおまけ付き)


 それを剥き出しの腹部に食らったマギカは、ほぼ垂直に落下。富と権力の象徴のような……いや、富と権力、そのものずばりなタワーマンションへと墜落し、自身が穿った風穴を見上げながら、煙草に焦がれているのであった。


 ※※※


 まだ終わっちゃいないけどさ、「タバコ休憩」は暗黙の了解ってね……マギカは腰のポシェットをまさぐり、煙草の箱を取り出した。トントンと指先で箱を叩いて一本取り出し、それを口に咥えたが、肝心のライターが見つからない。千草ちぐさ……あのクソ女の仕業に違いない。


 常日頃から「未成年が煙草だなんて、もってのほかです!」と、眉間に皺を寄せ、黒縁眼鏡をクイックイッしながら声を荒らげる千草。それなら煙草を抜き取ればいいものを、ライターだけ抜き取るという陰湿なところが、千草が千草たる所以だと、マギカは辟易する。


 ──そもそも。「煙草も吸えねぇガキを、第一線で戦わせるんじゃねぇ!」というのがマギカの主張だったが、「未成年の女の子しか魔法少女として戦えないんですから、仕方がないじゃないですかっ!」と逆ギレするのだから、三十路手前の未婚女も困ったものである。


 ならばなおのこと、煙草ぐらい好きに吸わせろってんだと、マギカは思う。魔法少女としてモンスターと殺し合いを演じる以上に、乙女の身体に害をなす行為は他にないのだから。


「ライターもってないか?」


 マギカは近くに誰かがいることに気付いていた。そうでなければ、わざわざ墜落の直前、軌道を逸らすような、面倒くさいことに力を使うこともなかったであろう。


 避難指示が出ているのに誰かがいるということよりも、その誰かがライターを持っているか否かがマギカには重要で、それは東京の命運すら握っており、マギカが渋々でも戦うか、もういいやと昼寝を決め込むかは、その一点にかかっていると言っても過言ではなかった。


 ──返事はなかった。口がきけないのか、無視しているのか。ただ、ライターが手に入らないということは、煙草が吸えないということであり、それならばと、目を閉じるマギカ。


「マッチなら、ありますけど」


 か細い声が耳に届き、カッと目を開くマギカ。


「OK! 問題なっしん! ちこう寄りたまえ、マッチ売りの少女ちゃん」


 声色から少女だと当たりをつけたマギカだったが、いや、少年の可能性も否定できないかと思い直す間もなく、ちこうに寄ってマギカを覗き込んだのは、黒髪の少女だった。しかも、暗がりの中でもキラリと光る、とびっきりの可愛子ちゃんである。


「マッチ、ちゃんと擦れるか? あたしの知り合いに、マッチ箱のマッチを全て折ってなお、着火に至らなかった伝説の女がいてね。千草っていうんだけど……お、サンキュー!」


 黒髪の少女はマギカの言葉を待たずにマッチを擦り、マギカが咥えているタバコの先端に火を近づけた。ほどなく着火し、マギカは待望の紫煙を堪能する。あぁ、最高……!


 けほけほと、黒髪の少女が咳き込む。


「あー、悪い。ちょっち離れててくんないかな? 一服したら、出て行くからよ」

「あの、あなたは、お婆ちゃんですか?」


 ボフゥッ! と、豪快にむせるマギカ。反射的に拳を見舞いそうになったが、こんな可愛子ちゃんの鼻骨を砕き、鼻血でも撒き散らそうものなら、多分、女として、いや、人として大切な何かを失ってしまうと判断し、務めて冷静に、かつ優しく、たおやかに口を開いた。


「あたしみたいな美少女を前にして、お婆ちゃんとは言ってくれるじゃねぇか! そりゃあ、あんたに比べたら見劣りもするだろうけどさ、あたしにはほら! これ! このツインテールがあるから! 怪獣じゃないぜ? わかるだろ? これだよっ! これっ! なっ!」


 マギカは空いている左手でツインテールを一束握り締め、ブンブンと振って見せる。


「ご、ごめんなさい! 空から降ってきたから、てっきり──」

「あんたのお婆ちゃんは空から降ってくるのか? ほぼほぼ、恐怖の大王じゃん」

「私のお婆ちゃんはもう亡くなっていて……だから、会いに来てくれたのかなって」

「会いに来るにしたって、もうちょっとこう、穏便に済ませられるだろ? こんだけガチでぶっ壊せんなら、もはや生きてるっていうか、めっちゃ元気じゃん、マジで」

「そ、それもそうですよね。じゃあ、もしかして、魔法少女ですか?」


 黒髪の少女は煙草の煙も厭わず、食い入るようにマギカの顔を覗き込んだ。


「正解。空から降ってくんのは魔法少女か、悪漢なら後頭部を酒瓶で殴打してもOK牧場な少女って、相場は決まってんだよ。ま、あんたにとっては、お婆ちゃんもそうか」


「……本当に、いるんですね」

「なんだよその、幻の珍獣ツチノコを見るような目は」

「あ、ごめんなさい!」


 ぱっと顔を上げる少女に、マギカはにやりと笑ってみせる。 


「冗談だよ。あんたの目はとっても綺麗だよ。マッチ売りの少女ちゃん」 


 ぽっと顔を赤くするマッチ売りの少女……っと、別に彼女はマッチを売って生計を立てている訳ではなさそうだし、むしろマッチの販売業者を丸ごと買収できるんじゃないかってぐらい裕福そうだし、マッチを擦ってもヤバイ幻覚を見る訳でもなさそうだし、どうやら、凍死する心配もなさそうなので、マギカは名前を聞いてみることにした。


「あんた、名前は?」

「ネームレスです」

「……異国の方でいらっしゃる?」

「いえ、日本人ですけど……」


 ──まぁ、見事な黒髪だしねぇと、マギカは頷く。それにしても、「ネームレス(名無し)」とは独特なネーミングセンスを持つ両親を、親ガチャで引き当てたものだ……と、ニコチンの摂取で大量のドーパミンが放出され、恍惚と冴え渡ったマギカの脳は、一つの答えを弾きだした。


「あんた、虐待されてんだろ?」

「え?」


 ネームレスは目をぱちくり。マギカは煙草を一服し、肩をすくめて見せた。


「だってさ、避難命令がずんどこ出ていたのに、なんであんたはここにいる? 大方、家族はあんたをほっぽり出して逃げ出したんだろ?」

「逃げ……避難したのは、そうだと思いますが、別に虐待されてはいない……と、思います」

「あんた、肌艶いいもんね。透視はできねぇから、そのワンピースの下がどうなってるかまでは分からねぇけどさ、こうやってちゃんと話ができるんだ、まともだってことは分かる。それに、何と言っても東京の一等地にそびえ立つ、超高級なタワーマンション、その最上階にお住まいでいらっしゃる……となると、あんたは箱入り娘って奴?」

「箱に入れられた記憶はありませんけれど……」


 小首を傾げるネームレスを見て、マギカははっとする。


「まさか、天然か? 天然さんなのか? じゃあ、うっかり昼寝をして逃げ遅れただけ?」

「いえ、起きてはいましたが、私はこの部屋から出られないので……」

「立派に監禁されてんじゃん! やっぱさ、虐待されてるって、それ!」

「……そう、なんでしょうか?」


 いまいちピンときていなさそうなネームレスを横目に、マギカはすぱすぱと煙草を吹かす。


「何かおかしいんだよな。あんた、監禁の初心者か?」

「……そうかもしれません。こういう生活が始まったのは、一年ぐらい前ですから」

「いくつ?」

「今年で十三になります」

「……てことは、小学校を卒業してからってこと?」

「はい。私は中学校に行くと思っていたんですが、お母さんが、あなたはずーっとここにいればいいのよって。だから、私はずーっとここにいるんです」

「一歩も外へ出ずに?」

「はい」

「その割には健康的というか、痩せても太ってもないけど、そこんとこ、どうなってんの?」

「運動は部屋でもできますから。ほら、あのゲームです……って、壊れちゃいましたけど」


 ネームレスが指さした先には、崩れた天井が幾重にも積み重なっていた。これでは、いかに空爆されても稼働したと言われる携帯ゲーム機の子孫でも、ひとたまりもないだろう。


「あれさ、また新しい奴出るんだろ? 本体もさ? となると、また転売ヤーが……ったく、モンスターよりあいつらぶっ殺した方が、よっぽど善行だって言ってんのによ、千草も人殺しはいけませんって、人の心を持ってる奴が転売なんかするわけないってんだよ! なぁ?」

「え、えーっと……?」


 困惑顔のネームレスを見て、マギカは「ああ、違う違う」と首を横に振った。


「何の話だっけ? あ、運動だ、運動! 今はもう、ぐっちゃんぐっちゃんだけど、相当広いよな、この部屋。日当たりも良さそうだし……勉強は、ネット?」

「はい。パソコンを使って」

「食事は?」

「決まった時間に届けて貰ってます。おやつも。冷蔵庫もありますよ」

「テレビは?」

「見れます」

「トイレは?」

「あります。お風呂にサウナも」

「……至れり尽くせりじゃねぇか! それじゃ、幸せちゃんってこと?」

「……そうなんだと思います、多分」

「何だよ、何か不満でもあんのか? どこか行きたいとこがあるとか?」

「行きたい、ところ……ですか」


 ネームレスは思い詰めたように、かつて天井だった風穴を見上げた。


「やっぱネズミー? それとも、赤い帽子を被ったヒゲ親父の──」

「ずっと、天国に行きたいなって、思っていました」

「おっ、いきなりダークな話になったな。あんた、自殺願望があるのか? こんな世の中が嫌になったのか? それとも、異世界にでも転生したくなったのか?」


 ネームレスは首を横に振って、マギカを見下ろす。


「そういうわけでは……でも、そうなのかな? 天国って、異世界ですか?」

「異世界も異世界、地獄と並んで最古の異世界ツートップさ。異世界ってのは、要はより人間の都合の良い形で描かれた死後の世界でしかねぇからよ。昔は、やっぱり現世の方がいいですねって戻ってくる奴も多かったけど、今では向こうの暮らし最高! ってなもんだから、こんなくそったれな世界で生きていくよりは、死んじまった方がいいって考えてる奴らが多いんだろうな。実際、死ねば何も考えなくていいしな! ずっと寝てられる! これぞ幸せ!」


 ……とはいえ、いずれどうやっても死ぬんだったら、こっちの世界も楽しんだ方がいいんじゃねぇかなぁ、というのが、マギカの持論だった。向こうじゃ、煙草を吸っても身体に害もなさそうだし……それじゃあ、せっかくの楽しみが半減しちまうからなぁ。


「幸せ……か」


 ネームレスはそう呟くと、自分の頬に手を当てた。


「どうして、私は幸せじゃないのかな?」

「そりゃ、客観的に見たらあんたは恵まれてるし、幸せだ、羨ましいと思う奴もいるだろうけどさ、それは他人の気持ちだ。あんたがどう思うかは、あんた次第さ。それに……」


 マギカは煙草を深く吸った。ネームレスはマギカをじっと見詰めた。切望の眼差しで。


「それに……何ですか?」

「飼い殺しって感じだしな。生殺与奪の権利を握られてるっていうか、生かすも殺すもあんたの両親次第……それじゃ、生きるって実感も湧かねぇだろうしなぁ」

「魔法少女さんは──」

「マギカ」

「マギカさんは、生きていますか?」

「今のところは。まぁ、商売柄、そう長くは生きられねぇだろうけどさ、自分の好きなようにやれているしね。嫌なものは誰が何と言おうが嫌って言えるし、好きなものは誰がなんといおうが好きって言える……まぁ、つまりは生きてるってことだな」

「……いいなぁ」

「マジでっ!」


 ネームレスの言葉に、マギカはぱっと顔を輝かせた。


「それならさ、あんたも魔法少女やってみる? 人手不足で困ってんだよな、マジで」

「誰でもなれるものなんですか?」

「一応、適性ってのはあるけどさ……ああ、だから、あんたは監禁されてるのか」

「……どういうことです?」

「十三歳になるとさ、健康診断の裏でチェックされんだよ。魔法少女の適性って奴をさ。でもって、お眼鏡に適った子には国からお声がかかるってわけ。魔法少女になりませんかってさ。もちろん、断ることもできる……が、そこがお国のやることだからさ、一端、目をつけたらあらゆる手を使って、魔法少女になるよう仕向けてくるわけよ。それこそ、金も、女も、ありとあらゆる、汚い手を使ってな。あんたの両親はそれを知った上で、あんたを魔法少女にしたくなかったのかもしんねぇな」

「なんで、そんな……」

「あんたさ、両親の前で魔法少女になりたいとか、言ったことあるんじゃねぇか?」

「それは……あると思います。私、魔法少女が好きだったので。アニメや漫画の」

「だろうな。そうじゃなきゃ、いきなり部屋の天井をぶち抜いてきて、得体の知れない露出の多いツインテール美少女にライターを要求されてなお、マッチを差し出すなんて機転を利かすことなんてできやしないさ。つまり、あんたは頭よりずっと深いところで理解してたんだよ。あたしが魔法少女だってことをさ」

「それは、お婆ちゃんが──」

「恐怖の大王のことは忘れとけって。とにかく、あたしが魔法少女かもしれないと思った時のあんたの顔を見れば、一発さ。あんたが魔法少女に憧れてるってことぐらいさ」


 きょとんとするネームレスを見て、マギカは思う。実際、こんな非常事態に落ち着いていられる訳がないんだよなぁ。恐怖を上回る期待、願い……そういうもんがないと、人間なんてものはすぐに壊れちまう。それだけ、恐怖の大王……もとい、お婆ちゃんの襲来を期待していたってことは、それだけ天国に行きたかったってことで……いやはや。


「まぁ、あんたが魔法少女になりたいってんなら、全ての謎は解けたようなもんよ」

「謎?」

「あんたの両親はね、あんたを魔法少女にしたくなかったんだ。魔法少女なんて危険な仕事を娘にさせるわけにはいかない……ってことじゃないだろうな。あんたが魔法少女になりたい、そんな夢を叶えたくなかったんだよ。だから、あんたを部屋に閉じ込めることにした。あんたは生まれた瞬間からめちゃくちゃ可愛かっただろうから、まぁ、嫉妬したんだろうね」

「嫉妬? 私に?」

「そうさ。あんたの幸せな未来を思うと、妬ましくって仕方がなかったんだろうよ。あんたは裕福な家庭に、とびっきりの美貌を持って生まれた。産声だって可憐だったんじゃないか? それに、なぜ生きているのだろうかとか、くだらないことを考えられる余裕があるほど平和、かつ、時にはモンスター襲来という非日常すら楽しめるエキセントリックな国、そして時代に生まれたことも含めて、完全に勝ち組、幸せにしかなれないようなものなのさ。そんな娘に、親ができることといえば、一つ、名前を与えないことと、二つ、夢を奪うこと……そんなささやかなことぐらいしかないだろう?」


 マギカが親指と人差し指を折った左手を振って見せると、ネームレスは首を横に振った。


「そんな、まさか……それなら、もっと他にも──」

「親は子供の幸せを願うものなんて、一般論だからね。例外もあるだろうって、個性だ、自由だ、権利だと口やかましいごり押しがまかり通ってるんだ、親が子供の幸せを願わないからって、それを糾弾する権利は他人はないはずだろう? 恵まれない子供達に多額の寄付をしているような善人が、煙草を平気でポイ捨てするようなことだってあるだろうし、愛する人を守るために殺人を犯す人もいる……ま、あんたの両親の場合、殴ったり、育児放棄したりってのは悪いことだって認識はあるんだし、あんたもしっかり育てられてるんだから、その点に関しては文句のつけどころもねぇもんな。まぁ、出生届を出すときは、多少揉めたかもしんねぇけど……あ、ちなにみにどう書くの? 漢字で姉が群れる巣とか?」

「いえ、カタカナでネームレスですけど」

「名字は」

美月みつきです」

「泥水の水に、枯れ木の木?」

「美しい月、と書く方です」

「美月ネームレス。うん、下手なキラキラネームよりは立派なもんだよ、マジで」

「……私は、愛されていなかったんでしょうか?」


 深刻そうなネームレスを見て、それでも絵になるなぁと、マギカはしばし見とれる。


「さてねぇ? こればっかりは当人次第というか、それこそ、愛の形は千差万別だからねぇ。ガキが悪さをした時、言葉を尽くしても通じないからって諦めるのか、叩いてでも止めさせるのか……いかなる場合も暴力はいかん、うんうん、ごもっとも。でも、実際に迷惑をかけられてる方はたまったもんじゃないからなぁ。結局、他人が口出するようなことじゃない。大事なのは、あんたがどう感じているかってことだよ」

「私には……わかりません」

「さもありなん。でもさ、次の一手は決まってるんじゃない?」


 マギカは「よっと!」と反動をつけて立ち上がると、ポシェットから携帯灰皿を取り出し、ちびた煙草をしまった。そして、足下のネームレスに向かって手を伸ばす。


「さ、行こうぜ!」

「え……?」

「天国に行きたいんだろ?」

「……連れていってくれるんですか?」

「ああ。エスコートが魔法少女じゃ不服かい? やっぱ、お婆ちゃんがいい?」


 ネームレスは首を横に振り、マギカの手を取って立ち上がった。


「そうだ、あんたの名前、今からマリーな」

「マリー、ですか?」

「そ。魔物の裏の胃袋じゃなくて、首切られた王妃の方な!」

「それは分かりますけど……」

「アネ・マリー・アナスダター……マッチ売りの少女を書いた、ハンス・クリスチャン・アンデルセンっておっさんの母親だよ。ネームレスよりは、マシだろ?」

「……はい!」

「よし、いくぞ!」


 マギカは空を見上げ、軽く足を蹴った。そのまま浮き上がり、蒼穹を貫く。このまま成層圏まで……と、そんなマギカの上で待っていたのは、モンスターだった。マギカは急ブレーキをかけ、反動で浮き上がったマリーの身体をぎゅっと抱き寄せる。 


「やっべー……完全に忘れてたぜ」

「あれが、モンスター……」


 マリーは頭上で静止している少女……モンスターに目が釘付けとなった。モンスターは腕を組み、二人を見下ろしている。クリッとした、だが底知れない闇を持った瞳で。


「そ。とんだ失敗作だと思ってた地球が、なんだかんだで、意外に住みやすくなってんじゃんと、功労者の人間様を押し退けて、とりえあず、太陽が燃え尽きるまでは幸せに暮らしていこうかしらんっていう、困ったちゃんが送り込んできた、人型の可能性兵器さ」

「それは……困りましたね」

「まぁ、いきなり全面戦争とはならず、お互いに可能性を担う存在同士の争いで決着をつけようってんだから、公平っちゃ、公平なのかもしんねぇけど」

「あの、私がいて、大丈夫なんですか?」

「問題なっしん! カモン! メビウス!」


 マギカの声に応じて、高速道路に突き刺さっていた愛刀「メビウス」が飛び上がり、一直線にマギカの元へ。その柄を握ったのは……ツインテールの一房だった。


マギカはマリーをお姫様のように抱き直すと、真っ白な歯を見せて笑った。 


「マリー! 特等席でしっかり見とけよ! スーパーハイビジョンより鮮明な、この世の天国って奴をな!」

「はいっ!」


 ──マギカとモンスターは同時に動いた。刀と拳がぶつかり、火花が散った。マリーは目を大きく見開き、これから起こる全てを焼き付けんとして、瞬きを忘れた。

 

 ※※※


「もーっ! 何を考えてるんですかーっ!」


 ──対モンスター対策組織「Ozオズ」東京支部の事務所。通称「魔女殺し」で、千草は机をバンバン叩いた。先代の、そのまた先代のマネージャーから受け継いだという、紫檀の机を。


 マギカは焦げ穴のある革張りのソファーであぐらをかき、煙草を吹かしていた。モンスターの返り血をもろにかぶったため、全身が赤黒く染まり、また、独特な異臭を放っている。


「……うっさいなー、モンスターはちゃんとぶっ殺したんだから、いいだろ!」

「ああっ! 座るんなら、お風呂に入ってからにしてくださいよーっ!」

「うっせぇ! そうしようとしてたのに、しつこく呼び出したのはてめぇだろうが!」


 千草は長い黒髪を掻き毟ると、黒縁眼鏡のブリッジに中指を置き、クイックイッとした。


「ああん、もう……魔法少女が女の子を誘拐するなんて……」


 クイックイッ。クイックイッ。


「人聞きが悪いこと言うじゃねぇ! 同意の上だ、同意の! なぁ?」

「はい!」


 大きな声で応じるマリーもまた、全身赤黒く染まっていた。つい先程まで、至近距離で繰り広げられていた人知を超える戦いに、興奮冷めやらぬといったご様子。


「なお悪いです! ……マリーちゃん、でしたか。ご両親もさぞ心配なさっているでしょう。すぐにご自宅……いや、避難所までお届けしますから、この不祥事については何卒、その、他言無用で……あ、これは、迷惑料と言いますか、ささ、遠慮なく……」


 マリーの手に封筒を握らせようとする千草を、マギカは冷ややかに眺める。


「いたいけな少女を買収しようとするんじゃねぇよ。それに、薄給から断腸の思いで捻出した諭吉さん数枚じゃ、どうしようもねぇぞ? マリーの家、とんでもなく金持ちだからな」

「そんな、買収だなんて……おほほ、失礼しましたわ」


 そそくさと、封筒を懐にしまう千草。クイックイッ。


「……それにだ。そいつを連れて言ったところで、迷惑がられるだけだぜ?」

「そんなはずありませんっ! きっと、やむにやまれない事情があって──」

「だろうな。そして、それはまんまとうまくいったわけだ」

『え?』


 千草とマリーの声が、見事にハモった。マギカは煙草の煙を輪にして吐き出す。


「……まぁ、これはあたしの推測でしかねぇけどよ。マリー、あんたさ、ノストラダムスの大予言……じゃなかった、マッチ売りの少女の話が好きだったんじゃない?」

「ノストラダムス?」と、首を傾げる千草の脇で、マリーは頷く。

「ええ。お母さんはよく読み聞かせをしてくれましたけど、中でもマッチ売りの少女は、私のお気に入りでした。私には悲しいお話というより、希望のあるお話だ感じていて、何度もおねだりしてしまったことも……でも、それが何か?」

「いくら魔法少女がいる世界でもさ、マッチを擦ったら死んだお婆ちゃんが出てきて、天国へ連れて言ってくれるなんてことはありえないけどさ、魔法少女が空から降ってくる可能性ならあるんじゃねぇか?」

「そんなこと……」


 マリーは口を閉ざした。否定することはできない。だって──


「それじゃ、全部この子のご両親が仕組んだことだって言うんですか?」と、千草。 

「そんなことできるわけねぇさ。だが、そうなるといいなとは願っていたかもしんねぇし、千載一遇のチャンスだってんで、お膳立てしたって可能性はあるかもしんねぇな」

「なんでそんな……一歩間違ったら、命を失う可能性だって──」

「それならそれで、天国に直行できて、めでたしめでたしじゃねぇか」

「マギカさんっ!」


 千草が悲鳴のような声を上げると、マリーは肩をすくめて見せた。


「冗談だって。ま、そこは娘がなりたい魔法少女ってのを信頼してたってことで。何かあって恨まれるのも慣れてるし。まぁ、それにしたってクソ面倒くさいことするもんだって思うけどさ、子供を想う親ってのは、クソ面倒くさいことを嬉々としてとしてやるもんじゃないのかねぇ。そもそも、子育てなんてクソ面倒くさいことの代表格だしよ。ま、未婚で子供のいない千草さんには一生わからねぇことだろうけどさ」


「何言ってるんですかっ! 未婚で子供がいないのは、あなたも同じじゃないですかっ!」

「あたしには未来があるからなぁ。あんたの半分も生きてないし」

「くっ、そ、それなら、煙草なんて──」

「止めるよ。そん時がきたら、スパッと。ただ、不確定な未来なために今を犠牲にするような生き方はできないもんでね。ヘビースモーカーだったくせに、将来のためとか言って表向きは禁煙しながら、その欲求に抗えないどこかの誰かさんとは……あっ、てめぇ! 人のライター持ってったのは、自分で吸うためだったんだな!」

「えっ? あっ! な、なんのことでしょうかねぇ~! 私には、ち~っとも、わかりませんわ~! おーほっほっほっほ!」


 クイックイッしながら高笑いする千種を横目に、マギカはソファーから立ち上がった。両腕を軽く回しながら、俯いているマリーに向かって歩み寄る。


「……お父さん。お母さん」

「ま、実際のところはわかんねぇけどさ。どう考えるかは自分次第って奴さ」


 マギカはマリーの肩にぽんと手を置いた。マリーはその手に自らを手を重ねると、マギカに向かって頷いて見せた。笑顔。マギカもニカッと笑うと、大きく伸びをした。


「……んんーっと、さて、あとのクソ面倒なことは千草先生にお任せして、あたしたちは温泉としゃれ込みますか! この浴場はマジもんの温泉引いててさ、めっちゃ広いんだぜ!」

「わぁっ、それは楽しみです! 私の部屋も天然温泉でしたが、狭くって……」

「あんたの家、どれだけ金持ちなんだよ……」

「あ、コラ! まだ話は終わってませんよっ!」

「そんなん、あとあと。あ、着替えの手配もよろしくな!」


 手を振りながら、揃って部屋を後にするマギカとマリー。一人残された千草は「まったくもう……」と椅子に腰掛け、引き出しを開けた。煙草の箱とライター。千種は引き出しを勢いよく閉めると、パソコンのモニターに目を向け、マウスを操作してメールを開く。


 娘をよろしくお願いします……要約すると、それだけしか書いてないメール。差出人はネームレス……いや、マリーの両親だ。くれぐれも、このことはご内密にとも書いてある。「娘を魔法少女にするだけでなく、魔法少女に娘の名付け親になってもらおう大作戦」のことは。


 この大作戦を実現させるために、一体、何枚の諭吉さんが必要だったことか。


「……子を思う親ってのは、大変なんですねぇ」


 千草は机に置いてあるマッチ箱に目をやる。マリーが自宅から持ち出してきたものだ。手に取って振ってみると、カサカサ音が鳴った。千種はマッチ箱からマッチを一本取り出すと、しゅっと火を……点けることができず、ぽきりと折ってしまうのだった。


 ※※※


 ──カポーン。広々とした浴槽には、マギカとマリーの二人のみだった。貸し切り状態。


「あーっ……、極楽極楽……」と、マギカ。


 ご自慢のツインテールは解かれ、洗われ、今治タオルで巻かれているため、ソフトクリームの化身のように見える。まさに白い巨塔、ロングソフトクリームもかくや、である。


「……これこそ、天国かも知れませんね」と、マリー。


 黒髪はお湯に濡れてより艶やかに。こちらはタオルで巻かれてもなお、優雅だった。マギカは

「座布団0.2枚」と評価を下すと、隣のマリーに顔を向ける。


「そういやあんた、なんでマッチなんて持ってたんだ?」

「私、アルコールランプが趣味なんです」

「……アルコールランプが、趣味?」


 異星人を見るかのようなマギカの眼差しに、マリーは慌てて両手を振った。


「ええっと、その、マッチ売りの少女が好きって話をしたじゃないですか!」

「ああ。でもあれにはさ、アルコールランプなんて近代兵器は登場してねぇだろ?」

「そうなんですけど、私、あのお話を読んで貰ったあと、ランプがあればもっと長い間、楽しむことができたのかなって。そう言ったら、お母さんがランプのお店に連れて行ってくれたんです。それで、マッチの擦り方と、ランプの点け方を教わって……部屋を暗くしたとき、ほんのりと明るいアルコールランプの輝きを見たら、すっかり好きになっちゃいまして」

「なるほどね……放火魔に目覚めなくて良かったな」

「あっ……」

「どうした?」

「マギカさんが来る前も、私、アルコールランプを点けてて……」

「おいおい、ちゃんと消したんだろうな?」

「……多分」

「……それ、やってない多分だろ?」

「……えへへ」

「……まぁ、大丈夫だろ。耐熱素材とか、使ってるだろうし」

「で、ですよね! ……ですよね?」


 ──カポーン。広々とした浴槽には、ただ、緩やかな時間が流れるのだった。


 ※※※


 ──まさか、こんなことになろうとは、アルコールランプも思っていなかった。


 周囲は火の海。黒煙がもうもうと、赤く染まりかけた空へと立ち上っていく。赤い炎はメラメラと温度を上げ、自分が溶け出すのも時間の問題かなと、アルコールランプは思った。


 僕の役目は、優しく彼女の世界を照らすこと。少なくとも、彼女の世界を焼き上げることではなかったはずである。それに、自分の炎がこれほどの力を秘めているとは、アルコールランプ自身にも意外なことだった。正しく扱われてさえいれば、僕の炎は安全だったから。


 それでも、アルコールランプは彼女を責めるつもりはなかった。


 突然の震動、轟音、粉塵……あの状況下で、アルコールランプの火を消すということが、どだい無理な話であった。とっさに蓋を手に取っただけでも上出来であろう……続く衝撃で、蓋はその手から滑り落ち、カーペットの上を転がっていってしまったとしても、だ。


 何よりも問題だったのは……と、アルコールランプは思う。僕が思っていた以上に、僕自身が脆かったことにある……それを今、アルコールランプはまさに身をもって痛感していた。


 ──ヒビが入ってしまったのである。勉強机の上をゴロゴロと転がり、その下へと落ちていった際に、だ。それがなければ、これほど早く燃え上がることはなかったはずで、うまくすれば、周囲を焦がすぐらいで済んだかもしれなかったが、ひび割れからじわじわと滲み出てきたアルコールほど、引火しやすいものもなく、いくらアルコールランプが、引火するなよ、引火するなよと繰り返し、強く願ったとしても、運命を変えることなどできようはずもなく、あれよあれよと、炎はアルコールを伝い、燃え広がっていくのであった。


 その致命的な現場を、彼女に見られなかったことだけが、今やアルコールランプにとっては唯一の慰めだった。願わくば、もう自分のことを思い出さんことを……と、そんな願いとは裏腹に、思い出して貰えなくなるのは寂しいと感じる、アルコールランプであった。


 不可逆な運命の奔流、そのただ中で、アルコールランプは次々と過去の思い出が蘇ってくることを感じていた。たとえアルコールランプの記憶であっても、それは「走馬灯」と呼ぶに相応しいものであった。(「アルコールランプ灯」では、一つの記憶しか思い出せない}


 とはいえ、作られた時の記憶まで、遡ることはできなかった。その時はまだ、記憶を記憶と留めることができなかったからではないかと、アルコールランプは思う。


 そのため、最古の記憶は必然的に、彼女との出会いとなった。


 ※※※


 僕を選んだのは彼女だったが、選択肢を与えたのは彼女の母親だった。子供が何を見て、触れるのか、その全てを握っているのは親だ。親が用意した世界の中でしか、子供は生きることができないし、そうした存在こそが、子供であると言って良かった。


 なので、僕は世界中にある全てのアルコールランプの中から、彼女に選ばれたというわけではなかった。彼女の母親が選んだ店、そこに品物として並んでいる、ごく限られたアルコールランプの中から選ばれたに過ぎない。


 それでも、僕は彼女に選ばれたことを光栄に思っていた。何せ、その店には趣向を凝らした見た目にも鮮やかなアルコールランプが数多く並んでいたので、まさか僕のような至ってシンプルを絵に描いたような、誰もがアルコールランプと聞いてまず思い浮かべるイデア的な僕が選ばれるはずもないだろうと思っていたからだ。


 ただ、却ってそのシンプルさが良かったのか、選ばれたのは僕だった。僕を手に取った時の彼女……その満面の笑みは、僕がきっと他の存在に変わり果てたとしても、忘れることはないだろう。絶対に。


 それから、僕は彼女のお気に入りになった。白い手で僕の蓋を取り去り、マッチを擦って僕の頭に火を灯す。最初こそ、マッチを擦るのもおっかなびっくりで、その一挙手一投足を彼女の母親が近くで見守っていたものだが、彼女はとても器用だったし、度胸もあったので、すぐに一人でマッチを擦り、火を灯すことができるようになった。


 僕はずっと彼女の部屋で、彼女と共に過ごしてきた。僕を……正確には、僕の炎を見る彼女の瞳はキラキラと輝いて、それを見るのは僕の楽しみであり、喜びだったけれど、僕の頭に蓋を被せた後に見せる、暗く沈んだ表情は、何度見ても胸が締め付けられるようだった。


 だからこそ、彼女は僕に火を灯すだろうし、それで彼女を笑顔にすることが僕の使命であることは重々承知していたが、彼女にはいつも笑顔でいて欲しいというのが、僕の一番の願いでもあった。それによって、彼女が僕を必要としなくなる……そんな日が来るとしても、だ。


──そして、そんな日はやってきたのである。


 彼女を新たな世界へと連れ出す存在は、僕の炎の中から現れることはなく、天井を突き破って落ちてきた。きっと、彼女がこの世界に戻ってくることはないだろう。そもそも、この世界は間もなく焼け落ちようとしているだから。他ならぬ、僕の炎によって。


 ※※※


 ──アルコールランプ過去はそこまでだった。彼女との出会いで始まり、彼女との別れで終わる……それが、アルコールランプの記憶の全てだった。


 その先に持つのは、焼け焦げたタワーマンションの一室のみ。だが、それだけでは終わらなかった。アルコールランプの過去は終わったが、その先に、まだ未来が残っていたのだ。


 燃え盛る炎。その中に、アルコールランプは人影を見た。それが年老いた老婆であると悟ったとき、アルコールランプはそんな馬鹿なと、我が目を疑った。だが、それが紛れもなく自分の祖母であると心が認めたとき、こう叫ばずにはいられなかった。


「お婆ちゃん!」


 呼びかけられた老婆はアルコールランプに向かって歩み寄ると、その皺まみれの手で、愛おしそうにアルコールランプを持ち上げた。


「えらかったねぇ」


 アルコールランプの耳には、そう聞こえた。そして、流した涙はアルコールではなく、炎によっても消えることはなかった。アルコールランプは、今やアルコールランプではなく、利発そうな少年の姿になっていた。そして、その小さな手は、祖母の手の平にあった。


 ──少年は思い出す。アルコールランプになる以前、まだ少年が少年だった頃の記憶を。


 その記憶は始まりから終わりまで、とても幸せと言えるような代物ではなく、ただ、優しかった祖母の温もりだけが唯一、希望の光となって、暗い記憶を照らしていた。


 だから、僕は明かりになったんだと、少年は思う。誰かにとっての明かりに。立場や、状況や、時代や、世界や、そんなもの関係なく、ただ、求めるものに、希望を与える明かりに。 


 ふわっと、祖母の身体が浮かび上がった。手を引かれた少年も浮かび上がる。黒煙の中にあってもなお白く、汚れのない光となって、二人は天に昇っていく。


 最後に少年が想ったのは、やはり彼女のことだった。これからきっと、彼女には素敵なことが沢山起こるに違いない。それと同じぐらい、辛いことも。


 だけど、この世界で最後まで生き抜いて欲しいと、少年は切に願った。別の世界に旅立とうとマッチを擦り、両親だけでなく、多くの人を巻き込んだ上で辿り突いたのは、暗く、冷たく、何も感じない世界だったから。


「慌てなくたって、お迎えは来ますよ」


 そう語る祖母の顔に刻まれた幾重もの深い皺を見て、少年はその通りだと思った。


 だから、次こそは……僕は生き抜いてみようと思う。最後まで、何があっても、抗い続けてやるんだ! そう意気込む孫の顔を見て、祖母は微笑んだ。


「でも、子供は親ガチャ次第ですからねぇ」

「……お婆ちゃん、それは言わない約束でしょ?」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法少女が守るモノ 埴輪 @haniwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説