第4話 花

せっかく私の話を聞いてくれた彼を置いて帰るなどという選択肢はない。

私はストンとその場に座り直し、彼を待つことにした。

夏の陽に暖められた足はいつの間にかいつもの体温を取り戻し、濡れた服もほとんど乾いている。


目の前の海は、変わらず穏やかな波を届けている。

そのまま見つめているのはなんとなく憚られて、視線を少し横に向けた。彼の消えていった道を見つめる。

何処に行ったのだろうか。


15分程経った頃、先程消えていった道から彼の姿が現れた。

疲れているのか、スピードはかなり落ちている。

ずっと急いでペダルを漕いでくれていたのだろうか。なんだか申し訳ない気分になった。


道路脇に自転車を停め、小走りで駆け寄ってくる。片手には何か、新聞紙に包まれた物が握られていた。

「はあっ…はあっ…お待たせ、しましたっ…」

息を切らしながら、彼が言った。

一旦呼吸を整えるよう告げ、しばしの間待つ。

すぐに落ち着いた彼は、手に持った包みを私に差し出してきた。


「これ、どうぞ」

「これは?」

今開けますと言いながら、彼は慣れた手つきで包みを開いた。

中から出てきたのは、ラッピングもない質素な花束だった。

「あそこまで行きましょう」

彼は私の手をとり、いつもお爺さんが釣りをしていた、近くの突堤に向かって歩きだした。


穏やかな海は夕日に照らされている。

青と、オレンジ。そして波がくっきりと黒い影を落としていた。

私の先を歩く彼は、前を向いたまま話を始める。

「それ、ウチから持ってきました。ウチ、花屋なんで」

まあ売れ残りですけど、と。

海を割る真っ直ぐなコンクリートの道を、私たちは歩いてゆく。

「これって…」

手渡された花束に目を落とし、私は呟いた。

「はい」


「献花です」

彼は歩みを止め、私を見つめて言った。

「お父さんに、届けましょう」


無言で歩く二人は、突堤の先端で立ち止まった。

足元から、コンクリートに波がぶつかる音がする。

「お姉さん」

「………」

少年が私に向き直り、語りかけてくる。


「お姉さんは、お父さんのいる海の底へは行けません」

彼は、私の手を–––その中にある花を強く握った。

「でも、花は…海に沈んだものなら、きっと届きます」


「そこにいる、お父さんに」


彼の手が離れる。

それでも私の手には、小さな花束がしっかりと握られていた。ゆっくりと歩を進める。

少年の傍を抜けた先には、突堤の先端と、どこまでも続く海。

二つの世界の境目が、そこにはあった。


海の遥か彼方から運ばれてきた波が、足元のコンクリートにぶつかって、小さな飛沫だけ上げて消える。

「………」

私は振り返り、少年に聞こえるよう、少し大きな声で告げた。

「ありがとう」

そしてまた振り返り、海に向かって言葉を投げかける。今度は、声を出さず。

花束と一緒に。


––––。


花束は、ぱさりと海に落ち、しばらく水面を漂っていた。

そして、太陽が沈み切ろうとした頃、少し大きな波にさらわれて、完全に見えなくなった。


気づけば瞳からは止めどなく涙が溢れていた。

自分の喉から出てきた叫び声が、やけに遠く響いている。

薄れてゆく残光の中で、私は、深海の墓場に手向けられた花束を思い浮かべていた。

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