第3話 喪失

それは、いつも通りの朝だった。

父は仕事で海に出て、私は学校に行って、母はそれを見送って。

特に嵐でも何でもない、普通の日。

だけど父だけが、帰ってこなかった。

静かな海に、父は消えた。


遺体が上がることはなかったが、それでも時間が止まるわけもなく。

母と私はとりあえずいつもの生活を続けて。

そうこうしてる内に母も働き始め、私も家の手伝いをしたり、高校に入ってからはバイトをし始めた。


5年ほど経った頃に、区切りをつけようという事で、お葬式もあげた。

だけど、棺は空っぽで。


「実感湧かないまま、お別れを言っちゃった感じなのかな。それでなんとなく、まだ引きずっているのかも」

私はつらつらと身の上話を続ける。

少年は何も言わず、黙って耳を傾けてくれていた。

「…今日はたまたま、すごく久しぶりに海に入っちゃったから、色々噴き出してきちゃったんだと思う」


行方不明。それはただ生死が不確定という事ではないのだ。

それは言わば、不確定な状態で固定されてしまった状態。

死亡届さえ出さなければ、書類上は100年でも200年でも生き続けていることになる。

現実の世界でも、同じ様なものだ。

もう何も確かめられない。何も、変えられない。


「………」

目の前の海は、変わらず静かな波音を響かせている。

「海ってさ、広いじゃない。

本当、果てしなく広くて、私たちなんかが紛れ込んでも一瞬で覆い隠されちゃう」

少年は何も言わない。

彼も海の近くに住む人間だ。その恐ろしさは、十分に知っているのだろう。

「目に見える分だけでもそうなのに、水の中にまで潜っちゃったら、もう、さ」


水面を見つめていた視線は、気がつくと下の方へ下がっていた。

その先に思い浮かぶ光景。それを言葉にする。

「知ってる?クジラ、特にマッコウクジラなんかはさ、餌を食べるために深海2000mとか3000mくらいの深さにまで潜るんだって。

でも、そんなクジラよりも深くへ潜るもの、なんだかわかる?」

不意に質問を振られた少年は、慌てた様にこちらを向き、答える。

「なんでしょう、ダイオウイカとか…アンコウとか、ですかね?」

私は間髪を容れずに返した。

「死骸」


「深海で見られるマリンスノーはプランクトンの死骸だし、クジラだって死んだら海底まで沈んで、深海魚の餌や住処になる。海で死んだ生き物はどこまでも沈んで、みんな最後には海の底に辿り着くの」

「………」

少年が息を飲む音がした。

「人間も…まぁ実際はその前に魚とかに食べられたりして、バラバラになっちゃうんだろうけどさ」

「…お姉さん」

「まだ、そこに居るような気がするんだよね」


「そこに行けば、また会えるんじゃないか…って、気がしてる」

どうしても、そんなイメージが頭から離れなかった。


私の言葉が途切れ、波の音が浮かび上がる。

少しして、少年が遠慮がちな声で問いかけてきた。

「あの、すごく失礼な事聞きますけど…お父さんがまだどこかで生きている可能性って…」

「ないよ。ゼロパーセント」

あっさりと私は言い切る。

「確実に、何年も前に、あの人は死んでる。わかっては、いるんだ」

現実的にも、書類的にも、私の心の中でさえ、確定している事だ。

それは、間違いない、はずなのに。


再び、沈黙が訪れた。


無機質な潮騒だけが聞こえる。



「あの!」

急に、少年が立ち上がった。

傾き始めた陽の光を背に、顔には陰がかかっている。

それでもその目には、強い光が宿っていた。

「ちょっと、待っててもらえますか!」


「え…」

私の返事も聞かず、彼は走り出した。

道路に停めてあった自転車に跨り、全速力で走り去ってゆく。あっという間に彼の姿は見えなくなった。

呆気に取られた私は、しばらくその場で立ち尽くしていた。

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