エピローグ:物語は、そして始まる――

 お好み焼きパーティーを終えた、その日の夜。


 文則は自室で机に向かっていた。


 机の上に広げてあるのは、去年の夏に衝動的に購入した、漫画用の原稿用紙と、Gペンだ。半年以上、机の中で眠っていたけど、久しぶりに引っ張り出してきたのだ。


 こうして原稿用紙を前にすると、去年、沙苗に言われた言葉を今でも思い出す。ゴミだ、駄作だと切って捨てられたあの一件は、そう簡単には忘れられない。きっと、一生忘れないのだと思う。


 でも、だからといって、それが前に進まない理由にはならないことを文則はもう知っている。


 傷つくことは、やっぱり怖い。否定も非難もされたくはない。描かなければ傷つかないし、誰かに否定されることはない。


 だからきっと、そんな恐怖から目を背けて、ぬるま湯で生きる人生もあるのだと思う。田舎に帰れば温かく迎えてくれる人がいて、そんな人達に守られながら穏やかに暮らす未来だってあるんだと思う。それにはやっぱり、未練はある。


 だけど今の文則に後悔はない。


 それはきっと、選んだからだ。自分の意志で決めたことだからだ。


「……」


 原稿用紙を前にして、何度か深呼吸をする。


 椅子から立ち上がって、意味もなく屈伸を始めた。なんだか妙に居心地が悪い。心がやたらとそわそわする。思い切り走り出したいような、本当は走り出したくないような、そんな相反する感情を同時に覚える。


 再び椅子に座って、目を閉じる。そのまま一分ほどかけて呼吸を整えていると、なんだかいい感じに覚悟が決まったような気がした。


 目を開いて、Gペンを手に取る。


 ペン先をインクにつけて、原稿用紙の上にそっと下ろそうとした。


「あっ」


 しかし途中で、ペンの先からつけすぎたインクが雫となって滴り落ちる。原稿用紙に、黒くて丸い染みが生まれる。


「やっべ……こういう時どうしたらいいんだろ」


 慌てて服の袖で擦るが、インクが余計に滲んで広がるだけだった。


「ったく、幸先悪いな……」


 そうため息をこぼしつつ、しかし作業の手は止めない。取り出した修正液で染みになった部分を白く塗りつぶすと、文則は再び気合いを入れ直してペンを執る。


 文則は只人だ。


 文則は凡人だ。


 おまけにアメリアの言葉を借りるなら、初心で臆病で、退屈にして平凡な人間だ。


 そんな自分になにが描けるのか分からない。文則の物語は、まだ、最初の一ページ目を刻み始めたばかりなのだ。


 ――だけどいつかは、憧れたあの人達のように。


 そんな願いをペン先に込めながら、ゆっくりと筆を下ろしていく。


 柿井文則の物語が始まるまで、あと、五センチ。


 四センチ。


 三センチ。


 二センチ。


 一センチ。


 ……ああ、ちょっと待ってくれ。やっぱりそこから先は怖いんだ。ぬるま湯にいれば楽だし痛くないし怖くないし苦しまない。本当はずっとそこにいたい。甘い汁だけすすらせてくれ。頑張ったりとかしたくないんだ。


 最後の最後で心が喚く。ぬるま湯に浸かり続けてきて、すっかりふやけた根性が尻尾を巻いて逃げ出そうとする。


 まったくもって、締まらない。だからやっぱり、自分はなにも変わってないし、強くなったりしていないなと思わず文則は苦笑を浮かべる。


 だが、まあ、それがきっと文則の本音だ。


 しかし、その本音を超えた先にある景色だって本当は見たいのだ。


 だから待ってろと、心の中で誰にともなく文則は呼び掛ける。根拠なんてまるでないけど、そこへ行きたいという意志だけは、今は確かに持っているから。


 柿井文則の物語が始まるまで。


 あと。


 一ミリ。

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パンツも穿かないくせに演技だけは天才的なお隣のアメリア・エーデルワイス17歳 月野 観空 @makkuxjack

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