二両目

 入るや否や飛び込んできたのは悪臭だ。恐らくアンモニアであろう臭いが辺りに充満している。

 理由はすぐに分かった。一つ目の長椅子に見るからに不潔そうな男性が鎮座している。

 服もかなり前に洗ったと思われる程、酷く汚れて破れてしまっていた。

 その隣の三つ目には刑事と思われる人物が煙草を吹かしながら膝を組む。マナーが悪い事この上ない。

 五つ目には空っぽの虫かご。どうして入っていないかを訊ねるほど野暮な真似はしない。これも何か意味があるのかもしれない。

 九つ目はうってかわって絵本が置いてある。どんな絵本かは手に取らねば判らないが、これもまた意味があると思われる。

 二両目と三両目を繋ぐ扉に紙が貼っており、そこにはこう書かれている。

『13354322614694』

 意味が分からない。この数字の羅列は見たことが無い。フィボナッチ数列でもリュカ数列でもない。

 取り敢えず話を聞いて回ろう。先ずはアンモニアの人だ。長ったらしいので、杏とでも呼称してみよう。

「貴男は誰ですか?」

「俺かい? 俺はホームレスだよ。かなり前からこの生活をしている。ところでよ、煙草持ってねぇか? 横のジジィが吹かしやがって俺も吸いてぇんだわ。一本くれよ。」

 この杏は中毒者のようだ。それに口も悪い。煙草なんぞ吸わない僕にとって邪魔な貰い文句だ。

 次は立派そうな刑事さんに尋ねよう。

「刑事さん、貴男は誰ですか?」

「俺は刑事だ。かれこれもう四十年のベテラン刑事よ。今日は仕事がねぇんだわ、それでこの列車応募して当たったのは良いものの、どうしてこんな臭い輩と同じ車両に乗っちまったんだか。自分を批難してもしきれんわ。」

 この刑事もまた同じ穴のムジナだった。けれども、何故この人と距離を取らないのだろうか? 少々ばかし疑問が出る。

 次は虫かご。中を開けてみるが、特に変わった様子もなく、ごくごくありふれた様相である。ただ、大きさだけが気掛かりだ。横幅が十センチにも満たなく、縦幅もまたそれに合わせて縮んでいる。虫もいない事に加え、この許容量。虫かごとしての意義を呈している様には思えんとばかりに疑問視してしまう。

 最後に絵本。実に素晴らしい表紙だ。子供とその親であろう二人組が手を繋ぎ、遊園地へと向かっていく絵だ。だが、外装ばかりが目を引いていた。中を開けてみてみるが、そこにあったのは手を引かれる子供と男女。二人は微笑ましそうに喜んでいたが、子供は顔を涙で滲ませていた。

 これは何か可笑しい。何かが可笑しすぎる。

 杏と刑事、虫かごと絵本、謎の数列。この三つの謎を解かなければならないとはまた難儀な物に首を突っ込んだ。

 これならまだ一両目の方が明らかに楽であった。面倒云々の次元を超えて、不明瞭があまりにも多い。

 情報収集する事になったが、杏と刑事の二人から何か有力な情報は得られるのだろうか? 刑事に至っては自分と同じ乗客。訊いたとて、何か有益な情報は得られない。であれば、杏からしかない。

「ホームレスの方と呼ぶのもアレなので、御名前を教えてくださいませんか?」

「名前だ? そんなもん無いよ。戸籍がない以上、名前もないも同じだ。………いや、けっかん…欠陥と呼んでくれ! 物が欠けるの欠けるに陥るって字を書いて欠陥だ! いやはや素晴らしい呼び名を考えたものだ! 俺は現代社会の欠陥品だとわかりやすい!」

「そっそうですか。では、質問いいですか?欠陥さん。」

「あぁ、えぇえぇ。なんでもせぇせぇ。」

 深呼吸を二回程し、訊ねる。

「あの絵本と虫かご、あの数字がわかりますか?」

 一分ほど時間を置き、欠陥は言い出す。何度も何度も頷いた後に。

「虫かごだけはわかるぞ。」

「本当ですか!?」

 嬉しさのあまり舞ってしまった。こんな自分を大人二人に見られるのは終わると共に恥ずかしさが込み上げてきてしまう。

「あの虫かごはな、俺のなんだわ。ガキの頃、オヤジのやつが三歳の俺でも扱えるようにって、特注品のを作りよったんだわ。それがある意味形見みたいなもんだ。と言いつつもまだどっかで生きてると思うゾ。俺まだ二十三歳だし。」

 有り得ない。こんな見た目、こんな老けた顔をしているのにも関わらず、まだ三十路にもなっていないだと? 理解出来ないというよりも、したくない気持ちが募るばかりとしか言い表せない。

 ただ、虫かごの謎は解けた。恐らく持ち主に渡せば良いだけ。ならば、絵本もそういうことだろう。

「刑事さん、この絵本お渡しします。」

 刑事は数度まばたきをしていた。なぜだ?

「兄ちゃん。これは俺のじゃないぜ。誰のかも知らねぇがな。話は聞いていたが、あの虫かごとやらはそこのくせぇやつのもんらしいな! とっとと渡してやって退散させてやれ。」

 厚顔無恥とはこの事かと思わせる怒りっぷりに、欠陥さんも怯えている。

「まぁまぁ、刑事さん。ついでではありますから、刑事さんの過去も聞かせてくださいよ。」

「ケッ、聴いたらはよ渡せよ。んじゃ、幼少期から話すか。俺はな、庸中佼佼だったんだよ。小中高の全てでな。親が勉強勉強勉強と何度も言い聞かせて来たからだな。その後は会話するのも苦手だから、無口で過ごせる警官にでもなろうと思ったわけよ。んで、結婚して子供ももうけた訳だが、産まれて早々嫁が死んじまってよ。死ぬ前によ、まだ四歳の子供を男手ひとつで育てられないから施設に預けた。嫁と相談してな。バカな親だって事は重々承知。言い訳はしない、俺が悪い。んで、今に至る。以上だ。ほら、さっさと散れ散れ。」

 今の話で確信が持てた。この人の話と欠陥さんの話。

 欠陥さんに虫かごを渡した。そして、双方の間に絵本を広げる。表表紙と裏表紙、その内表を刑事さん側に、裏を欠陥さん側に向けた。裏は1人で出てくる子供のみ、それなのに子供はとても笑顔であった。

 刑事さんはその後立ち上がり、貼り紙を剥がした。そして言う。

「合格だ。進め。」

 言われるがまま、扉を開けた。

 三両目へと歩を進める。

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八両編成の電車 @23922392

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