~打ち上げ花火~

 小学生のあるとき、夏のあいだ、私は母方の祖父母の家に預けられていた。


 山を背負い、海が間近に迫った典型的な田舎の村で、私はつまらない夏休みをすごしていた。



 その夜、私はなんらかの花の柄が大きくプリントされた浴衣を着ていた。


 今も昔も花の名前に疎い私には、今もってあの浴衣の柄がなんの花であったかはわからない。


 しかし祖母が私のためにわざわざ買ったのだと言われてしまえば、その趣味じゃない柄を見てもなにも言えなくなってしまった。


 あっという間に浴衣を着付けられた私は、そのまま祖父の軽トラに乗せられて隣町へ行くことになった。


 なんでも小規模ながら花火大会があると言う。


 屋台や出店もあるから楽しいよ、などと祖父は言うが、出不精な私はひたすらめんどうくさいという気持ちを押し殺すのに追われていた。


 そして祖父はそんな風に私の関心を呼び起こそうとした割には、花火大会の会場で私を降ろしていくらばかりかの小遣いを渡したあと、とんぼ返りしてしまったのであった。


 いくら田舎の大らかな村で暮らしていると言えど、小学生の孫をひとり隣町に送り出すだなんて、ちょっと防犯意識が希薄すぎる気がするのだが、当時の私はそこまで思い至らなかった。


 花火大会の会場である隣町は、祖父母宅がある村から山を越えた場所にある。


 つまり、いくら私が花火大会などに興味がなくても、さっさと切り上げて祖父母宅に徒歩で帰るのは無理な話だった。


 いつまでも興味のない花火大会の会場へと放り出されたことへ、ヘソを曲げていても仕方がない。


 私は気持ちを切り替えて、小遣いの入った赤い巾着袋を握り締めた。


 私が単純なのもあるだろうが、屋台でわたあめを買って口にすれば、その非日常感と甘味に少しだけ気分が上向いた。


 けれどもわたあめなんてあっという間に食べ終わる。


 花火大会へ送り出すにしては夕食をしっかりと食べさせられた私は、焼きそばだとかに手を出す気にはなれず、手持ち無沙汰になる。


 この花火大会の目玉は打ち上げ花火だそうだ。川面かわもに花火の光が反射して、きれいだと祖父は道中の車内で言っていた。


 その割には私に付き添う気配がなかったのは、今をもって不思議であるが、小学生当時の私は特になんの感想も抱いてはいなかった。


 時計をつける習慣もなく、携帯電話――スマホではなくガラケーの時代の話だ――も当然のように持っていなかった私は、とうに今が何時くらいなのかわからなくなっていた。


 打ち上げ花火がいつごろから始まるのか、どこでするのかも見当がつかない。


 けれどもすでにやることを失っていた私は、時間をつぶせればそれでいいという考えのもと、屋台が並んでいるゾーンを離れて、河川敷を目指すことにした。


 山に囲まれた、夜の闇の中で、月はとてつもなくまぶしく感じられたのを覚えている。


 ……さすがに「とてつもなく」は言いすぎだが、しかし私の足元に濃い影ができていて、それをしげしげと眺めたことは鮮明に覚えている。


 そうやって月明かりがあってもさすがに周囲の人間の顔まではハッキリとは確認できない場所まで、いつの間にか私はきていた。


 河川敷へとつながる斜面の上にある道を、すごすごと行く。


 月の光が川面を反射しているのがわかる。それで、それなりに川幅があることが知れた。


 そうして川から目線を進行方向前方へと戻すと、人間のようで人間ではない、黒いシルエットが一〇メートルは先に立っていた。


 私の心臓は一拍置いてからおどろきにドクンと跳ねる。


 そのままジェットコースターが降下するかのように、心臓の鼓動音が速く大きく、鐘を打つように耳元で響き渡る。


 どう表現すればいいのか、今をもってわからない。


 しかし、前方にいるその黒いシルエットは生きたマトモな人間ではない、ということだけはわかった。


 ただ厄介な事態に遭遇したことだけは、小学生の私にもよく理解できた。


 なんとなく、その黒いシルエットは私に対して背を向けているような気がした。


 私は、そのまま気づかれないようにと願いながら、川が流れているのとは反対側の茂みへと身を隠した。


 私はクラスの中でも小柄で背が低かったので、茂みへ身を隠すのは容易だった。


 後年、「くねくね」と言うネット都市伝説とでも言うべき存在を知ったとき、この黒いシルエットを思い出したが、しかしあれは特に見つめていても気が狂うというほどの凶悪な性質は持っていなかったように思う。


 それでもイメージとしては「黒いくねくね」とでも言うのがもっともわかりやすい表現かもしれない。


 月明かりがあれど夜闇の中であったから、その黒いシルエットに顔があるのかはわからなかったし、ゆらゆらと揺れているような気がしたが、それは闇が見せた幻だったかもしれない。


 私は茂みの中で「プーン」という不快な蚊の音を聞きながら、息を殺す。


 首筋から背中にかけて、汗をかいているのがわかった。


 蚊の音も緊張からきているのだろう汗も、不愉快だったが、なぜかその場から動くのは最善ではないと感じていた。


 黒いシルエットは徐々に移動しているようだった。


 しかしその動きは微々たるもののように思えた。だが、確実に動いている。


 目的や意図が推察できないというのは、案外と恐ろしいものだ。


 そしてあの黒いシルエットに気づかれたらどうなるのか、ということも私にはさっぱりわからず、それが逆にひどく恐ろしく思えた。


「あー、おったおった」

「こんなところにおったんか」

「おった、おったでー」


 私は一瞬、黒いシルエットが発した声なのかと早合点し、大いに心臓の鼓動を速めた。


 しかしじきにそれはただの勘違いであったことがわかる。


 ぞろぞろとやってきた三人ばかりの、声から察するに中年から初老にかけての男の声。


 彼らは早足で黒いシルエットに近づいたかと思うと、手に持っていた長い棒のようなものを勢いよく振り下ろした。


 同時に、月が輝き星が瞬く紺色の夜空に、花火が上がった。


 大きな音が空を伝って私の元まで届き、火薬は色とりどりの花を咲かせる。


 夜空に咲く花火の光を受けて、男たちの真っ黒な影だけが絵のようにハッキリと見えた。


 男たちは長い棒のようなものを振り上げては、下ろす。


 打ち上げ花火の音にかき消され、男たちの声は聞こえないし、黒いシルエットを殴打する音も、私の耳には届かない。


 やがて三人の男に、あとからきたふたりの男が混じって、しばらく黒いシルエットを打ち付けているのだけが、影でわかった。


 黒いシルエットがどうなったのかは、わからない。


 ただ私は茂みから黒いシルエットのようなものが、男たちに引きずられてファミリータイプのボックス車に押し込められ、どこかへと連れて行かれるのを見ているしかなかった。



 ……あのときの黒いシルエットがなんだったのかは、わからない。


 あのときの男たちは黒いシルエットについて知ってたのだろうか?


 あのあと、黒いシルエットはどうなったのだろうか?



 いずれにせよ真相は闇の中であるし、その闇をわざわざ暴くのは賢明な人間がすることではないだろう。


 小学生の私は一刻も早くその出来事を忘れるよう努めたが、あのときに刺された蚊の痕は、だいぶ長いこと残っていたように思う。

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