終章
斎藤康代が、いつも通りヒーリングを受けるために、クマの家に行ってみると、その家にクマの家という看板はなくなっていた。そして、出窓に置いてある、かわいらしいテディベアたちもいなくなっていた。何か部屋の模様替えでもするのかなと考えていた康代は、あまり深く考えないで、いつもの通りインターフォンを押した。
「すみません、斎藤康代です。ヒーリングを受けに来ました。」
と、康代が玄関の扉の前でいうと、
「どうぞお入りください。」
と、いつもと変わらない声がしたから、康代は安心して、玄関ドアを開けて、その家の中に入る。
「どうもお待ちしておりました。さあ、お入りください。」
いつもの通り、大槻富士子先生は、斎藤康代を案内した。
「ありがとうございます。お邪魔させていただきます。」
康代は、ほっとした顔で、部屋に入った。
「先生、いつも微笑んでくださるクマさんが今日はいませんけど、新しい子がくるんですか?」
康代は、富士子先生がクマのぬいぐるみが好きなのは、よく知っている。確か見てるだけで、いやしの存在になるからと言って、大槻富士子先生は、たくさんのクマのぬいぐるみを集めていた。
「その事なんだけど。」
大槻富士子先生は椅子に座りながら言った。
「このクマの家を、今月いっぱいで閉めることにしたの。理由は、熱海で被災者さんに施術するのが忙しくなったからよ。だから、あなたも、もし私とこれまで通り続けたいんだったら、熱海に来て頂戴ね。」
「えっ!まさか、そんな。」
斎藤康代の顔が真っ青になった。
「先生がいなかったら私、どうなるかわかりません。先生がいらしてくれるから、ここで生きていこうって決めたのに。何をおっしゃいます。先生はまだ富士に残ってくださいますよね?」
「残念だけどそれは無理。私は、もう熱海の引っ越し先も決めてしまったし、あとは、クライエントさんにお伝えするだけの事。もう、ほとんどのクライエントさんは承認してくれたから、私はそれでいいと思ってる。」
と、大槻富士子先生はいつもと変わらない口調で言った。
「待ってください先生。私は、娘から逃れるために先生のところに行って、先生の言う通りに娘を処分しました。そして、これからも警察の手を紛らわす必要があるなら、教えてあげるって、先生は言っていたじゃありませんか。其れは、もう終わりにしてしまったということですか?」
康代が思わずかくしていた本音を言うと、
「あら、私がいつ、そんなことを言ったかしら?」
と、大槻富士子先生はとぼけた。
「そんなこと言ったかしらって先生が、娘を手にかけろと言ったんですよ。これ以上娘さんに縛られるのはやめて、あなたの人生を歩んでみたらどうかといったじゃないですか。先生はいつも娘の事でストレスを感じている私にとって、それを癒してくれる大事な存在でもあるのだし、娘を私から引き離す方法を教えてくれた人でもあります。其れなのに、私の事はもうよくて、熱海に行ってしまうのですか?」
と、康代が思わず言うと、
「ええ。私たちを頼ってはいけないとは、何回も言ったはずよ。私は確かに、あなたにそういうことを言ったかもしれないけど、あなたが実際にやったんだから、あなたが始末するべきでしょう。其れは、私には何も関係のないことよ。だから、私は、ここを離れて熱海行くのも自由だし、あなたが、私のところへやってくるのだって自由なのよ。だから、私は、今回の事件について何も関係はないわ。」
と、大槻富士子先生は言った。其れが何とも言えず馬鹿にしているような、そういう言い方でもあったので、
「先生は、私の事をそんなくらいしか見なかったんですか?」
と、康代が思わず言った。
「ええ。その程度って、私の施術を受けに来た人だけよ。私はただ、あなたの事を、そういう風にしか見ないわよ。大事な人とか、そういうことは一切ない。ただ、阿多の事は、私のところに来ていただけのこと。」
そんな冷たいセリフを言われて、康代の表情が凍り付いていく。
「私を頼ってはいけないわよ。今回したことだって、あなたがあなたの意思で下ことなんだから、あなたが何とかしなさいな。私はただ、娘さんの存在が嫌なら消してしまってもいいといった。でも、それは、殺してしまえとはまた別の事よ。まあ、実際に手をかけてしまったことは確かだけど、弁護士とか、そういうものをうまく使えば、日本では、病人のほうが悪いと判断してくれるから大丈夫だけどね。私は、この事件には何も関係ないのよ。」
「先生は、そんな人だったんですか。」
と康代は、怒りを込めてそういうことを言った。
「起こったって無駄よ。私は私だし、それ以外でもなんでもない。ただ、あなたが、そうしたかったからそうしただけの事。私には何も責任のないことよ。」
「先生は、私の見方だと思っていたのに。」
「味方なんて、そんなモノ何処にもいないわよ。みんな自分で考えることがすべてなの。人のために生きている人間なんているもんですか。みんな、自分の事で精いっぱい。其れだけは覚えておいて。」
そういう彼女に、大槻富士子は平然として言った。そういう態度が、人を馬鹿にしているのではないかと思われるところだった。
「まあ、私のところへ来たいんだったら。また新しい住所も教えるから。交通手段とかそういうものは、あなたが調べてきてね。」
康代は、涙をこぼしたが、同時に何か切れたというか、何かが変わったという気がした。其れは、一種の悟りというか、縛られていたことから解放されたのかもしれなかった。結局のところ、私を良い方に向けてくれる人なんて何処にもいないんだ。そういうことがやっとわかったような気がしたのである。
「分かりました。先生、ありがとうございます。今まで、私の事を何とかしてくれた御恩は一生忘れません。失礼いたします。」
康代は、椅子から立ち上がった。そして、大槻富士子の家を後にしたのであった。富士子は、それをなんとも思わないという表情で見送った。
それから、数日後。何気なく夕刊を開いた蘭は、その大きな紙面のほんの隅に、こういう見出しが書いてあるのを見つけた。
「殺人容疑で母親逮捕。精神疾患のある娘を殺害、死体を川の中に遺棄した疑い。」
なるほど、もし、被害者がそういうひとでなかったら、この事件はもっとセンセーショナルに報じられたに違いない。でも、娘さんが精神疾患を持っているとなると事情は別だ。そうなると、一気に興味のある人から、ただの邪魔者に変換されてしまう。其れを、憤るか、当然の事としてみるかは、個人の意識にかかっている。其れは蘭もよく知っている。蘭としては、こういう態度ではなくて、もっと大げさなくらい報道してもいいと思った。まったく日本というのは悲しいほど、そういうひとたちに対して、寄り付かないというか、放置してしまうというか、いや、最終的には、そういうひとたちの事を必要ないと思ってしまう社会なのだろう。だから、普通のひとのようには報道しないのだ。
「でも、ある意味ではよかったのかな。こういう風にそっとしておいてくれれば、それを使って悪事をしようとする奴らの目にも止まらなくなるし。」
と、蘭は、新聞紙を閉じながら、そういうことをつぶやいた。それにしても、何ともやりきれないというか、そんな思いが蘭の中に沸いた。なんで彼女はそうされるしかなかったのだろう。今まで、聞き込みをした人たちは、すくなくとも、斎藤雅江というひとを悪人呼ばわりすることはなかった。ある人は、三年間問題高校に在籍してすごいといったし、彼女ほどまじめな生徒はいないとほめた人物もいた。そういうことから考えると、彼女はまだ可能性があったかもしれない。彼女を、この世から抹殺することしか、解決方法はなかったのか?それも、一番彼女を知っている人物が、彼女を殺害している。彼女を、何とかして、生かしておくことはできなかったのか。其ればかりが悔やまれる事件でもある。
「おーい蘭。ちょっと風呂を貸してくれ。俺のうちは、狭い風呂だから風呂に入った気がしないんだ。だから、風呂に入らせてもらいたい。」
いきなり声がしたと思ったら、いたのは華岡だった。
「あ、いいよ、入んな。どうせ、炊きっぱなしにしているから。」
と、蘭は言った。実は、こういう風にしておくのは、昼間から風呂に入るのは、障害者にとって珍しいことではないからである。ヘルパーとか手伝い人は風呂を介助してくれることもあるが、それは夜の時間に来ることは少ないのである。
「おう、ありがとうな。じゃあ、蘭の広い風呂の中でゆっくり浸かるとするか。」
と、華岡は、でかい声で鼻歌を歌いながら、風呂場に行ってしまった。まったく、事件が解決すると、華岡は必ずこうなるものだ。杉ちゃんの家か、蘭の家にやってきて、40分以上の長風呂をするのがお決まりなのである。確かに今回も、長風呂だった。一時間近く、華岡は風呂に入っていた。
「あーあ、いい湯だった。いつもありがとうな。今日は、広い風呂に浸かれたからいい気持ちだよ。」
と、髪をタオルで拭きながら、華岡が風呂から戻ってきた。まったく、少ししか毛の生えていない頭をどうしてそんなに丁寧に扱うのかわからないほど、華岡はきれい好きだ。今も、髪を、タオルで丁寧に拭きながらやってきたのである。
「よかったね。まったく華岡は風呂が好きだよな。まあ、お前が長風呂をするってことは、事件が解決したということだな。」
と、蘭が言うと、
「おう、お前も報道で知っているかもしれないが、あの、斎藤雅江殺害の犯人、結局母親だったよ。」
と、華岡は言った。こういうことは、警察関係だからさらっといえるのだと思う。だけど、蘭は、華岡のそういう発言を聞いて、一寸気分が悪くなる。
「そうか。母親か。なんかそう考えると、むなしいというか、悲しい事件でもあるよな。そうやって、実の娘を手にかけるしか、解決方法がなかったんだからな。もっと早く、第三者に相談すれば、こんな事はならなかったかもしれないのに。」
蘭は、思ったことを正直に言った。
「ああ、俺もそう思っている。ただなあ、日本人は、恥ずかしいという気持ちがほかのやつらより強いらしいから。それで、助けを求めることは恥だと思ってしまうんだ。だからあの母親は、娘を殺すしかなかったんだよ。」
「なあ華岡。」
蘭は、疑問に思っていることを、華岡に話してみることにした。
「例えばだよ。確かに、あの斎藤雅江さんは、精神疾患というものを持っていた以上、お母さんの前で暴れることもあったかもしれないよ。でもさ、それだけで、お母さんが娘を殺害したりすると思うか?そこが僕はどうしてもわからないんだ。例えばこれが血のつながっていない親子だったらまだわかるが、僕は実の娘を殺害して遺体を川に遺棄するという精神が理解できないよ。」
「うーんそうだねえ。でも、母親である斎藤康代は、自首してから、直ぐに犯行を認めたし、俺たちの取り調べにもちゃんと応じている。まあ、蘭がそう思う気持ちもわからないわけでもない。ただ、そういう障害のある子どもに対して、そういう手をかけてしまう親が、増えていることも確かなんだよ。これは俺たちの管轄ではないが、障害のある子どもの将来がかわいそうだと言って、子供を餓死させた親もいるんだ。」
華岡はそういうが、蘭はまだ疑問をぶつけた。
「そうかもしれないけどね。でも、僕は妻の仕事を見ていてわかるけどさ、子供をつくるのって本当に大変な作業だぜ。其れをするのって、ヒマラヤ山脈を上るのと同じくらい大変だよ。そのことを覚えていてくれれば、自分の娘を役に立たないから殺してしまうということは、しないと思うんだけどなあ。僕は、人間が痛みを感じるのは、それを忘れないようにするためではないかと思うわけ。だから、実の母親が、それを忘れて、娘さんを殺害するというのがちょっと理解できないよ。もしかして、周りの人間が、彼女をそうするように仕向けたのではないか?学校とかかもしれないし、ほかの教育機関かもしれないが、いずれにしてもこの事件は、母親がすべてではないような気がするんだ。母親に何か悪事を吹き込んだ、悪役はいなかったんだろうか?」
「蘭がそう思う気持ちもわからないわけでもない。俺たちも、それを疑ったこともある。でも、あの事件が起きた日、川のそばに斎藤康代が立っていたという目撃証言があるが、それ以外の共犯者らしきものはどこにもいなかったぞ。だからやっぱりこれは、斎藤康代が、あまりにも病状がひどくて、暴れ続ける斎藤雅江を始末したくて、犯行に及んだという結論しかでないんだ。」
と、華岡は一生懸命蘭を慰めた。でも、蘭というひとは、一度熱が入るとなかなか冷めにくいタイプであることは、華岡も知っていた。
「まあそうだけどね、僕は母親の単独犯行とはどうしても思えないんだよ。其れに、あまりにも症状がひどい場合は、どうしようもなくなるだろう。誰かに話さざるを得ない状態になるよ。うちのお客さんはみんなそうだから。そういうことにならなかったのか?本当に、斎藤雅江さんの母親は、誰にも言わないで、ひとりで耐えていたのか?」
蘭がそう聞くので、華岡もかくして置くのはやめた方が良いと思った。華岡は、落ち着け、蘭と言って、こう話を続ける。
「まあそうかもしれないけどさ、彼女、斎藤康代は、あるヒーリングの事務所に通っていたことは確かなんだよ。ほら、よくテレビで話題になっているだろ?あの被災地へ何回も赴いて、被災者にヒーリングを施しているというあの女。」
「そうか!そういうひとのやりそうなことだ。その女が、お母さんに、悪いことを吹き込んだんだな!」
蘭が思わずそういうと、
「ああ、そうなのかもしれないが、彼女、つまり、大槻富士子は、斎藤雅江の死亡推定時刻、熱海市の被災地へ恒例のヒーリングに行っている。其れは、駅員が彼女が電車に乗るのを目撃しているし、熱海市役所の職員も、同行しているのではっきりしている。つまり、彼女が斎藤康代の犯行時刻、一緒にいて何かするというのは物理的に不可能なんだ。蘭、これはしっかり覚えておいてくれ。」
と、華岡は蘭を落ち着かせた。
「では、その大槻富士子という女性が何か事情を知っているんじゃないのか?彼女に会って話を聞くことはできないだろうか?」
蘭が急いでそういうと、
「いや、そいつは無理だ。大槻富士子は熱海で被災者のヒーリングに専念するため、富士を離れて熱海に移住ずる予定だという。まあ、熱海の警察署にお願いしようかと思うが、たぶん、熱海は災害の事で事件の事はほとんど手が出ないだろう。其れに管轄外の事件は俺たちがどうにかしようということはできなくなるしね。そうなっている以上、俺たちは手も足も出ないよ。」
と、華岡は申し訳なさそうに言った。
「そうか、、、。悔しいな。」
蘭は、大きなため息をつく。いずれにしても大槻富士子という女性が、どこかで自分の間違いに気が付いてくれるか、それを祈るしかなかった。
そのころ、杉ちゃんはというと、またのんきに何処かへ出かけようと富士駅にいた。
「おい!お前さん、お前さんだよ!」
目の前を歩いてきた、大きなトランクを持った女性に杉ちゃんは声をかけた。女性は急いでどこかに出かけるような感じだったが、杉ちゃんのでかい声でそういうことを言われて、足をとめた。
「悪いけど、これで静岡までの切符を買ってくれるか。僕、文字の読み書きができないもんでさ。」
と、杉ちゃんが言うと、彼女は馬鹿にしたような顔つきで、
「あなた、ちゃんとわかっているんだったら、自分で買おうとしてみてから、人に頼んだらどう?」
というのだが、
「何を言ってるんだ。車いすの人間が切符販売機に手が届かないってことは、お前さんだってわかるんじゃないのか?」
と杉ちゃんに言われてしまった。
「それでも、お前さんは、僕の方が悪いというのなら、僕みたいな人間が電車に乗ってはいけないということになるな。お前さんはそれを主張しているのかな?」
「いえ、そういうことじゃないわ。でも、あなたは、人にちょっと頼りすぎなんじゃないかしら。いくら、切符販売機に手が届かないからと言って、まず自分でやってみることのほうが大切だと思うけど。」
と、女性はそういうが、
「でもさ、僕みたいに、明らかにできないやつもいるんだよ。そういうやつは、電車に乗って、どこか出ちゃいけないというのは、一種の人種差別にもなるよ。お前さんは、そういうことを積み重ねてきてるから、すぐに手が出せないだけだ。其れをかっこいいと思っている。其れじゃないのかな。大槻富士子さん。」
と、杉ちゃんはいう。彼女は、自分の名前を言い当てられて、なんだか名前を当てられた怪物みたいに、急に動揺した顔つきになった。
「ほら、お前さんは、そうなっちまうんだ。そんな奴に、他人を何とかしてやろうという気持ちは全くないね。ただ、自分がかっこよくなりたいから、そういう気持ちで生きてるんだろう。そういうやつに、被害を被っているやつは、ずっとその気持ちから抜けられなくて、ずっと苦しみながら生きているっていうのによ。」
と、杉ちゃんに言われて、彼女は、もう反論する言葉がなくなってしまったらしい。
「悪いけど、急用ですぐ行くわ。申しわけないけど、手伝ってほしいのなら、駅員さんにお願いしてちょうだい。そうすれば何とかしてくれるはずよ。」
「はあそうだねえ。」
そういう彼女に杉ちゃんはにこやかに言った。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな。ちょっと駅長さんでもきてもらうか。そうすればいいよな。」
と、杉ちゃんは、駅の事務所のある方へ車いすを動かし始める。其れを見た彼女は、もうこんな人にかかわりたくないといった顔をして、一目散に杉ちゃんの前から姿を消していった。
「また来いよ!」
その背中を見て、杉ちゃんはカラカラと笑った。
クマの家 改訂版 増田朋美 @masubuchi4996
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