格好良い自分ばかりじゃ生きられないよ

 2023年5月2日(火)。22時57分。


 こんにちは。井上和音です。


 書くのか書かないのか迷っています。


 この時間を見てもらえれば分かると思いますが、本当に書く気が無くなってきたというか。書く気が無いわけでは無いのですが、書いても無駄じゃないかとか。特に毎日書いたところで本当にただの無駄ではないかと思ってしまいました。


 とうとう本当に自由になり過ぎたのかもしれませんね。note に移植した自分の文章を眺めてみて「気持ち悪い」と本気で思いました。今の、今日の自分は何一つ書いていないのに、昔書いた自分の文章に対して「気持ち悪い」と本気で思ってしまったのですね。多分、毎日、毎日、書くのが当たり前で。継続することが当たり前の、継続した、継続することの出来る自由の上に自分が立っているから、過去に時間を掛けて書いた自分の文章に対して、当事者ではなく外野から「気持ち悪い」と評価をすることが出来たのかなと思います。


 何様やねん、今日の自分は。という感じですが。


 何も思い付きません。統合失調症が治ってきたのでしょうか。しかしながら、「まだ生きているなあ」とか感じてしまいます。正直言って、鬱状態ではありませんが──実は鬱状態なのかもしれませんが──、生きているだけでも自分の行動全てが恥だと思うようになってしまいました。電車の中で優先席に座ることだったり、自転車にヘルメットを着用して乗ったり。仕事中に自分だけ休憩時間が与えられていて、堂々とお菓子を食べていたり。何かを書いて、一発当てようとか思って、誰にも読まれない文章を延々と書いていたり。職場の人の一人に「私は実は井上和音です」とか白状してしまった一人がいるのですが、なんとなく嫌われているような気がします。言わなければよかったと本当に後悔していますが、もう遅い気がします。多分ですけれども、例えば、今日ここで更新をしてしまわずに、そのまま布団に入ってしまえば、その人からも少しくらいは距離を縮めてもらえるかもしれません。ただの妄想に過ぎないのかもしれませんが。


 そう。全ては妄想に過ぎないのかもしれません。嫌われているわけでもなんでも無いのかもしれません。そもそも私が文章を更新しようが更新しまいが、人に影響を与えることが出来ると思っている時点で妄想なのかもしれません。人はいいとして、自分に対する罪悪感、自分に対する影響などを与えてしまうと思い込むのもまた妄想のたぐいの一つなのかもしれません。一回くらいならば更新をやめてみてもいいじゃないか。多分、一回やめてしまったら二度と更新することは出来ないかもしれませんが。


 グリッドってそんなものでしょうと私は思っています。


 指がカチコチで動きづらいですね。脳が書くことを拒んでいるかのような気がします。


 無駄な努力はやめろと言い。


 ムダナドリョクハヤメロトイイ。


 アメニモマケズですね。


 カクヨムコンテスト8の最終選考まで残ったわけですが、残ったからこそ、とても余計な妄想だらけになっています。トリップとでも言うのでしょうか。授賞式には行くのだろうか、とか。顔を出してもいいのだろうか、とか。有名になってしまったら電車の中で声を掛けてしまわれないだろうか、とか。映画化とかしたらどうなるのだろうか、とか。「とうおこ」が受賞したら、5ちゃんねるとかではどんな言われようがされるのだろうか、とか。授賞式までに前髪は伸びてくれるだろうか、とか。ヘアワックスを着けて授賞式には臨むべきだろうか、とか。


 幻聴で「死ね死ね」とものすごく聞こえてきているので、今日はもう文章を綴るのはやめようかなとか思っています。短いですね。中身も何もありませんね。今日の記事一つで授賞式からは遠のいたのかなとか、また勝手に妄想が広がっていますね。妄想が広がるのはいいのですが。いいのですが。結局何も起こらないと思いますよ。本当に。今日の投稿が授賞式を遠ざけたわけではなくて、最初から授賞式の可能性はほぼゼロだったと考えていたほうがいいでしょう。


 ところが、最初から受賞する可能性がほぼゼロだったら、「じゃあ、なんで毎日書く必要性があるの。今日だって12PVだぞ。誰からも期待されていませんよ。誰かを裏切る形になるのでしょうか。過去の自分でも裏切るのでしょうか。しかし、過去の自分は『気持ち悪い』と評価しています。『気持ち悪い』と評価している人から嫌われたり、疎まれたり、憎まれたりされたとして、今の自分に対して何かしらの悪い影響でも与えてくるのでしょうか」


 とか思いましたが、今の自分が他人に対してつっけんどんな態度を取っているかのように思われていても仕方が無いのかなとか思ってしまいます。


 そういう態度のほうが格好良いもんね。外野からとやかく言ったほうが格好良いし気持ちもいいもんね。


 過去の自分すら受け入れられない器量の狭さ。それこそが気持ち悪い人間そのものなのかもしれません。他人を受け入れることなど到底出来そうもないでしょう。


 明日はマリオの映画を観に行くそうですね。3D。一人で。格好良いですか。そうですか。楽しんでください。頑張って。あれ。なんだこれ。未来の自分すら受け入れられていないような気がしてきました。というか、今の自分が決断したことすら受け入れられなくなっているような気がします。明日から5連休で楽しいはずでは。天気も良くなりましたよ。ちょっとちょっと。何でナイーブな気持ちになっているのですか。明日映画を観に行くのですよ。休みの日が続くからPokémon レジェンドアルセウスだってやり放題ですよ。ほら。ほら。


 私は私を受け入れることが出来ていない。


 格好付け過ぎようとしている天罰からなのか。


 それとも、他人がいないから、自分ばかり見つめてしまい、自分を他人の一人と位置付けてしまい、他人が誰も居ない中で、たった一人の過去の自分や未来の自分をさげすんで、いじめて、なんとか今の自分が格好良いと自分のプライドでも保とうとしているのか。


 それって格好良いのか? それって生きやすいのか? いや、生きやすそうだね。何もしない自分は格好良いよね。後出しじゃんけんで必ず勝つ自分は格好良いよね。そうだそうだ。勝者だ勝者だ。貴方は勝ち組。おめでとう。誰に勝ったの? 自分に勝てた。というか、過去や今や未来の自分を敗北者にして、何かしら文章に残している自分の宣言文、自分の概念たちが、自分の実存に対して勝ったのかな。そいつはおめでとう。ところで実存が消えたら概念を新たに生み出すことも出来なくなるし、概念が勝ったとしても、概念が勝った時にはもう既に実存は敗北していて、認識する自分の本体は何処どこにもいなくなってしまうこと間違いなしだよ。


 自分を大切にするべきだろうけれども、いくつもの自分が顔を出してきていて、格好良い自分ばかり選んでいたら、いつの間にか自分本体が消えてしまってさようならという日常で終わりそうな気がしています。


 早く調子に乗って、自分の実存を感じることが無く文章を書くことが出来るようになれれば幸いですね。あれ? これって格好良く無い? 格好良く無いけれども、格好良い自分だけが自分だったらどうやって生きるのさ。生き抜くのさ? 自分は田舎ださいことくらい自分が一番よく分かっているでしょう。散々自分と対話を重ねてきたでしょう。延々と続く閉鎖病棟隔離室の天井の記憶は、自分に生き残ってほしいと語り掛けてきている。みにくくとも。

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