それは夢の香



 大丈夫と理解していても的場は一瞬怯んだのに、北瀬は躊躇なく五階の高さを飛び降りてきた。警察というのはどうかしていると、焦りに思考を焼き切らせながら、自分を捕まえようと伸びてきた男の腕に、彼女は右手の刃物を振り上げる。とっさに台所から掴んだ包丁だ。それを力で見えなくした。避けられないどころか、避けようと思い至りすらできない。そのはずであったのに――


「危っな!」

 鮮血が宙へ噴き出すより先に短く言い捨て、北瀬は後ろへ飛びのいた。

 見えているのだ、と分かった。なぜなのかは分からない。


(〈あやかし〉であっても、感知できないはずなのに!)

 そうだとしても逃げなければと、的場は歯を食いしばって、包丁を振り回した。


 それを難なくかわしながら、どうしたものかと北瀬は思案する。力で押し切るのは苦もないが、安全な逮捕になる保証はできない。異性の相手となると、同性の時より多少厄介になる。逮捕後、警察への抗議の種とされるのは避けたいところだ。


(最悪、一発負傷してってのもありだけど・・・・・・)


 刃らしきものがあるのは分かりはするが、はっきりとは見えない。正確な長さや形状が不確かなため、どうしても大ぶりなよけ方になる。それが、距離の詰めづらさになっていた。仮にわざと刃物に腕を差しだしても、特殊な刃でもない限り、いまの北瀬の頑強さなら無傷で済むか、あって掠り傷程度だ。だが、犯人に危害を加えられたという事実は出来上がる。それならば、上もいささか強引な手に出ても仕方ないという判断をしてくれるだろう。


(とはいえ、万が一ということもあるし・・・・・・ここは一応、めんどうだけど力押しはやめとくか)


 興奮状態で凶器を振り回す的場から、いったん身を引き距離をとり、北瀬は顔の脇で両手の平を掲げた。柔らかな声音で、威圧的にならぬよう呼びかける。


「的場さん、ちょっといったん、その刃物を置いてもらってもいいかな? 俺もこれ以上、近づかない。互いに落ち着いた状態で、君の話を聞きたいんだ」


 肩で息をしながら、的場が北瀬を睨み見る。刃物を手放す気はなさそうだが、動きが止まりはした。「どうして」と、荒い呼吸混じりに、小さな呟きがこぼれ落ちる。


「どうして、〈あやかし〉の女しか殺してないのに、警察がちゃんと捕まえに来たの?」

「警察が仕事してるのがおかしい。そういうことかな?」


 警察を怠慢と罵る犯人は多い。その場合、北瀬としてはたいてい、瞬時に口から言い放つ暴言の弾丸を、いくつも脳内に装填できるのだが、今回は引き金は引かずに、穏やかに笑いかけ続けた。


「君にとって、俺たち警察は力及ばない存在だった?」

「あんたは違うけど、警察はそうね。警察だけじゃなく、人はみんなそうよ」


 的場がゆっくりと後ずさり、離れていく。しかしいま一歩でも詰めれば、話す気も摘んでしまうだろう。追う代わりに、北瀬は静かに首を傾げた。


「・・・・・・どういうことかな?」

「人はね、どうせ〈あやかし〉なんて気持ち悪いと思ってるの。あんたも私も、そう思われてるわ。人のために頑張っても、あんたは便利に使われてるだけで、影で怖れられ蔑まれてる。私がそうだった。あんたの契約者だって、そこは同じよ。〈あやかし〉のために、力を尽くしてくれる人間なんていないの」


 気づきなさいとばかりに笑い飛ばす彼女に、「そうかな?」と北瀬も微笑んだ。

「俺はそうは思わない。そりゃ、好き勝手言う外野もいるけどね。俺は気にしない。人だ〈あやかし〉だ、契約者だなんだという以前に、大切な相棒だよ。だから、誰より信じてる」


 強く、不遜に、真っ直ぐに。彼の視線は彼女を射ぬく。底冷えして見えたその視線の元が、晴れ渡る青空のような色を湛えていたのだと、そこで的場は気づいた。身も心も惹かれて吸いこまれそうな、眩く澄んだ、綺麗な透明の青だ。引き止めるための方便の澱みも、正義を繕う建前の濁りもない。


 鮮やかすぎて、なんて気にいらない目つきなのだろう。


「――そんな夢物語を口に出来るのなんて、なんにも知らない馬鹿だけよ・・・・・・」

 憧れをぞんざいに吐き捨てる。怒りの衝動の割に、頭がいやに冷静に的確に働くのを的場は感じた。


 彼は強い。警察だから当然訓練も受けているだろうし、並みの〈あやかし〉以上に力があるようだった。

 けれども、聞いたことがある。警察の〈あやかし〉たちは、必ず人間とバディを組まされるのだ。そして、常にその見張りの相棒とともに行動することを強制される、と。彼も契約者のことに触れた際、相棒だのとごたくを述べていた。


(だから間違いなくこの刑事の相棒は、こいつの契約者。そしてこの場にいる。それなら――)


 駆ける足音とともに、人の気配が近づいてきた。すぐそばのマンションのかど。そこをいまにも曲がってくる。


(化け物を野放しにしないように、必ずここにやってくる・・・・・・!)


 的場は踏み込むと同時に、手近に止められたままになっていた自転車のハンドルを引っ掴んだ。これに手が届くところまで、ゆっくり移動していたのだ。

 北瀬がすぐさま話し合いの姿勢を解いたのも目に入ったが、油断をつけたらしい。北瀬に向けて振りかぶった自転車を、的場はそのまま途中で見えなくした。よけるにしろ防ぐにしろ、途中で対象の形が曖昧に、掴みがたくなれば、反応も鈍る。


 音を切って振り抜かれ、投げ飛ばされた自転車の車体は、そのまま北瀬の頭部を側面から勢いよく殴打した。たいした傷は負わせられないだろう。しかし、足止めは出来る。


 契約者さえなくしてしまえば、どれほど強い力を持つ〈あやかし〉だろうと、瞬時に並の人間以下に逆戻りだ。的場はマンションの角へと走り寄り、狙い通り出くわした相手へ向けて、顔を見るより先に包丁を振り上げた。


 切れた手ごたえ。けれど、赤い血飛沫は舞わない。切りつける動きを頼りに、寸前でよけられたのだ。刃先はシャツを切り裂いただけで、届かなかった。


 仕損じたと睨み見上げれば、驚きを混ぜた黒く鋭い瞳と目が合った。透きとおった冬の夜の色だ。厳かな静謐の奥底に、柔らかい優しさが溶け込んでいる。

 直感的に、契約者は彼で間違いないと思った。と同時に、なぜか苛立ちに襲われた。妬ましいと思った。だから――


 沸き立つ嫉妬心に駆られるように、包丁を横に薙いだ。人形に変えた、魅力的な彼女たちに刃をたてた時と似た衝動。


 真紅が吹き上がった。人の身体は脆い。心臓を貫かなくても、首を切り離さなくても、頸動脈を断たれれば、もうそれでおしまいだ。 

 赤く染まる視界に、的場は満足げに口端を引き上げた。その時。


(えっ?)


 伸びてきた血濡れのシャツの腕が、彼女の首を掴んだ。そのまま力任せに背面から地面へと叩きつけられる。


(どうして・・・・・・?)

 瞳を見開き、的場は己を地へと伏せた相手を見上げた。その視界に、見る間に治っていく首筋の傷と、切り裂かれたシャツからのぞく胸元が飛び込んできた。右側に胸紋が――〈あやかし〉の痣がある。


(こっちが、〈あやかし〉?)

 信じられないと茫然としているうちに、駆け寄ってきた足音が的場の緩んだ手から落ちた包丁を、見えずとも的確に遠くへ蹴り飛ばした。併せて、彼女を押さえ込んでいた手が、そのまますみやかに手錠をかける。


「十七時二十四分、確保」

 低い声が事務的に告げて立ち上がる。その姿は、白いシャツが無惨にも血染めになっていたが、首筋には傷痕の形跡がうっすらとも残ってはいなかった。〈あやかし〉にしても、驚くべき回復の速さだ。


「うっわ、血まみれ。那世、力は人並みなんだからさ~。治るとはいえ気をつけてよね」

「お前が突っ込んでいかなければ、もう少し安全に確保できたかもしれないな。お前こそ十分気をつけろ。どれだけ馬鹿力で頑丈になっていても、回復能力は普通の人間だろうが。なんだ、その鼻血は」

「言い訳していいなら、徹夜明けゆえ、ちょっと鼠に噛まれましたよね」

 苦言をていせばその倍の冷たさと威力で返されて、北瀬は視線をそらしつつ乱雑に袖で鼻からの出血を拭った。


「これ内緒にしといてくんない? 報告にあがると、自己管理不足に油断を重ねて負傷するなって、またマミーに怒られちゃう」

「隠匿は拒否する。それと、確かにお前のお母様であるのは間違いないが、職務中はふざけてないで次長じちょうと呼べ」


 気を置かず投げ合われる軽口に、倒れ伏した的場は混乱を深めた。あの痣は、見間違いではない。だがそうなると、人間の方の力の説明がつかないではないか。彼は間違いなく、〈あやかし〉を凌ぐ力を見せていた。それに――


「・・・・・・どうして?」

 疑問が、涙声混じりにアスファルトの上にこぼれ落ちた。

「どうして、あんたが人間なの・・・・・・?」


 ふたりが、顔を見合わせた気配がした。じっと地面を睨みつけたままの的場の耳に、〈あやかし〉の男の声がする。


「俺の異能は、本来〈あやかし〉の俺が得るはずの力の一部を、契約者に受け渡す。こいつが人間のくせに、〈あやかし〉並みの力を持っているのは、そのせいだ」


 詳しくは彼女に語る必要もないが、だから那世の力は、『出来損ない』と呼ばれることがあった。自分では使えない、そのうえ、譲るにしても中途半端だからだ。


 契約者を得た〈あやかし〉の特徴たる、高い身体能力や、頑強さ、体力の向上、異常な回復能力――それらすべての力を、那世は並みの〈あやかし〉以上の質で発揮させることができた。しかし、身体能力と身体の強さは、自分では恩恵を得られず、異能によって契約者にその力を使わせることしか出来なかった。片や、その底なしの体力や瞬時の回復能力は、自身のものでしかなく、契約者へ譲ることは一切不可能であった。


 だから、普通に考える者たちとっては、那世の力は『出来損ない』なのだ。欲しいところに、手が届かない。


 那世は、回復能力や体力では〈あやかし〉としても頭ひとつ分抜けている。だが、そのほかはただの人間と同じだ。〈あやかし〉並の力が必要な場面では使えない。一方、契約者の方も、どれだけ力が強く頑丈になろうと、体力が続かない場合もあるし、その丈夫さをもってしても負傷してしまえば、取り返しがつかなくなることもある。だから力はあれど、他の〈あやかし〉の捜査官のように、危険を冒しきりは出来ないと考えられていた。それに、そもそも――


「あんたがちょっとでも気まぐれにその異能を切れば、力を使えなくなるくせに、その人間、あんな躊躇いなく私を追って飛び降りてきたっていうの・・・・・・?」


 手錠をはめた手のひらが、ぐっと悔しげに握りしめられていた。地面に擦りつけた顔はうかがえない。だが、問いかけながら答えを求めない声音には、嗚咽が滲んでいた。

 駆けつけてくる他の刑事たちの足音がする。的場にとっては幕引きの音だ。


 喧騒が広がる。無抵抗を見て取られ、女性の刑事に的場はそっと引き起こされた。慌ただしいやり取りが飛び交う中、誰かに呼びつけられた北瀬が渋々走り去っていく。

 その背を見やりながら、警察車両に連れていかれる間際、的場は那世を振り返った。


「ねぇ・・・・・・ひとつ、聞かせて。あんた、彼に会った時、どんな匂いがした?」


 不可解そうに、応じる義理はないとばかりに那世の顔が顰められる。けれど、あまりにも彼女の表情が、縋るようだったのかもしれない。


「・・・・・・騒々しい香りだ」

 低い音色が、諦めかけた彼女の耳に静かに届いた。


 ちょうどいま時分の空気に似ている。清々しく爽やかで、肌をざわつかせる激しさを持っているくせに、どことなくやわらかく甘い。静謐と寂寞を溶かして壊す――

「躍動の春の香だ」


 昔日の香りを辿る那世へ、ただ、「そう」とだけ、なにかを押し殺した声が呟いて消えた。


 連れられていった車の後部座席に腰掛けながら、的場は唇を噛み締める。どうりで、あの〈あやかし〉と目があった瞬間、苛立たしく思ったわけだ。

『だから、誰より信じてる』

 偽りも含みもなく告げる、鮮やかな春の青空の瞳。


「・・・・・・そんな優しい夢みたいな出会い、あるわけなかったらよかったのに」

 滲む涙とともに、小さく彼女は吐き捨てた。


 ただ、それが欲しかったのだ。血の匂いではなく、彼と同じ香りに惹かれることが出来ていたのなら、望んだものは手の中にあったのだろうかと――・・・・・・。

 手錠のかかった彼女のうなだれた両手の上には、なにも残りはしていなかった。




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