福利厚生に充実を


 ◇



 黄昏色の足元から、夜の闇がひたりと這いよる。ゆったりと空の散策を謳歌した夏の太陽も、西の果てに眠りに落ちた。置き捨てられた赤金色の残照が、高い空を泳ぐ雲の切れ端を、かすか朱色に染めている。大地を焦がした陽射しの名残で、あたりはまだ熱の籠った空気が満ちていた。が、ふわりと吹き寄せる宵風には、一筋の涼やかさが薫っている。


 人気のない公園の片隅で、ひとり所在なく鉄棒に腰かけていた少年は、緩慢にぐるりと一回転すると、つまらなさそうに飛び降りた。茂る樹々の落とす影もか黒く伸び、じわじわと夕色の深い紫が侵食してきている。園内にひとつだけある街灯がぼんやりと朧に灯るのが、余計夕暮れ時の心もとなさを掻き立てるようだった。陽が落ちてなお鼓膜を震わす蝉時雨も、どこか寂寞と響く。


 切れ長に釣り上がった猫のような瞳で、少年はなんとはなしに夜にのまれた空を眺めやると、風雨にしなびたベンチへ向かった。そこに放り出していた肩掛けの虫かごを雑に引っ掴み、小さな敷地の入り口脇に追いやられたブランコへ腰かける。


 そのまま家路につく様子も、遊びに興じる様子もなく、少年は退屈げに虫かごの中をのぞきこんだ。中では、近場で捕まえたわけではなさそうなクワガタが、大顎を掲げながらもぞもぞと動いていた。


 漫然とクワガタを眺める横顔で、肩口まで伸びた金糸の髪が夜風にゆれる。どこか冷めた風合いがのる透きとおった線の細い面立ちは儚く、年の頃も相まって中性的で少女のようにも見えた。

 夕陽の残照はいつの間にか消え果て、闇の蠢く公園に、たったひとり、少年は取り残されでもしているようだった。そこへふと、人の気配がして、声がかかる。


「またこんな時間までここにいるのか、坊主」


 少年が虫かごから顔をあげれば、公園の入り口で、蛍光に光る首輪をつけた煤けた毛色の老犬が、のったりと彼の方に鼻先を向けた。そのリードの先を二十代後半ほどの黒髪の青年が握っている。二重の垂れた目元と小さな瞳、鋭い眉が相反する性質を調和させながら人好きする形で収まっている。背が高く、一見細身に見えるが、シャツからのぞく腕にはがっしりと筋肉がついていて、意外と体躯がいいことがうかがえた。


「・・・・・・別にいいじゃん」

 ぼそりと返して、少年はまた虫かごに目を落とした。整った横顔は表情がなく、だからこそ寂しげで切ない。つれない態度に苦笑して、園内には踏み込まないまま青年は言う。

「ここ、よくない奴らの溜まり場にもなったりして危ないから、家に帰りたくないなら、せめて別の場所に行けよ?」

「考えとく・・・・・・」

 一応は返ってきたまだ声変わり前の返答に、心配げな空気を残しながら、彼は犬を引いて散歩に戻っていった。


 再び静寂が、不穏に忍び寄る。しばらくその暗がりの中、足先で地を押しながらブランコをゆらしていた少年は、おもむろに立ち上がった。虫かごの紐を肩に、公園を後にする。


 大人の目を嫌うように、人の少ない裏道ばかりを選んで、ふらふらと気だるげに歩いていく。街灯もまばらで、時には暗がりの方が深い私道の抜け道すら通っていくのが、実に危うげだった。


 ぬるい湿度が纏わりつく夜の中、彼の背後に足音が聞こえだしたのは、どれほど行ったころだったろうか。距離を詰めもせず、かといって離れもせず、ずっと後ろを一定の速度でついてくる。

 虫かごの紐を手持無沙汰にいじりながら進む少年は、気づいていないのか顔色を変えず、走り出しもしない。たまに行き過ぎる街灯の下で、その金糸が目を引く輝きできらきらと眩しく靡いていた。


 裏路地から少し広い通りへ、そしてまた狭い私道へ。彼の行く先には、行き止まりとなる代わりに、狭い駐車場を備えた二階建ての小ぢんまりとしたアパートが現れた。だが入居者が少ないのか、帰宅していない者が多いのか、人の気配は薄く、窓から漏れる明かりもまばらだ。

 少年の背後の足音は、まだ消えない。


 アパートの敷地内を突っ切り、二階へと延びる鉄製の簡素な外階段に足を一歩踏み上げたところで、少年はくるりと背後を振り返った。


「そんなストーカーみたいに跡つけて来ないで、声かけてくれたらいいのに。ちょっとドキドキしちゃったよ? 那世」

「別にお前を楽しませるつもりは微塵もなかったんだがな」


 色の抜け落ちた顔つきでいた時は凍てついて見えた秀麗さが、笑みをひくと同時に華やぐ。その冬が春にほどけるような変化に今さら驚くこともなく、買い物袋を手にした那世は彼を追い越し、階段を上っていった。


「もし犯人が後をつけていたら、俺は邪魔だろ」

「いやぁ、そういう意味では今日も収穫なしだね。追跡の気配ゼロ。無事に帰ってこれちゃったよ」

 那世のあとに続いて階段を駆けながら、公園での鬱屈とした翳りはどこへやら、軽やかに少年の声は言う。


「尾行があるかも、とか、不審者が引っかかってこないかな、とか、この姿だと結構それとなく気を張ってるんだけどねぇ。基礎的な筋力が落ちてるからさ。なんかあっても屈強な成人男性ぐらいの力しか出ないし」

「その容貌で屈強な成人男性の力が出れば十分だろ」

 見目に加え、成長期直前の少年独特の細く長く伸びた手足に、平淡に那世は言い捨てた。外廊下を一番端まで渡り切り、鍵を取り出し、最奥の部屋のドアを開ける。


「よぉ、んだよ。ふたりで帰ったのか」

 玄関を開ければすぐ脇に台所、という間取りのせいで、帰宅と同時に夕飯のいい香りと、中華鍋を片手にした、視界にかさばる赤い髪の大男が出迎えてくれた。


「そこで会った。頼まれた豆腐、木綿で良かったか?」

「あ、わりぃ、そこ伝え損ねてた。問題ねぇよ」

「今日の夕飯なに~?」

「時間なかったからゴーヤチャンプルな。あ、おいこら、北瀬。手ぇ洗う前に冷蔵庫開けんなよ」

「あ、すいかがあるじゃん。夏~」

 注意を流して小ぶりの冷蔵庫から麦茶を取り出し、中を覗き込んだ北瀬が声を躍らせる。


「飯食って風呂入ったら切ってやるよ」

「ここに来てからの福利厚生の充実がやばい」

「主にひとりで質の向上に貢献している男がいるからな」

「佐倉ってさ、尽くし過ぎて振られない? 『龍聖りゅうせいといると、私、駄目になりそう』って」

「おう、てめぇで切るか? ガキ。あとぞわっときたから、二度と名前呼び捨てんなよ?」

「否定はなしか・・・・・・」

「うるせぇよ、那世」

「もったいないよねぇ。都合のいい男としてはちょうどいい性能なのに」

「てめぇは本当にまっすぐな瞳と恵まれきった顔面で、最低品質の発言を躊躇いなく吐いてくんな」


 青筋を立てる強面のエプロン姿にも、少年は軽薄な笑みをたたえるばかりだ。「ちゃんとありがたいとは思ってるって~」と、一応の誠意をおざなりに投げつつ、虫かごを肩から下ろし、台所脇にある飼育箱の蓋を開ける。


「ほ~ら、クワ、おうちだぞ~」

「そいつ、ノコだろ」

「あれ? そうだっけ?」

「自分で育てておいて名前まで付けときながら、なんでそうなんだよ、てめぇは・・・・・・」

 那世の一言に素で首をひねる北瀬に、佐倉の呆れた声音がこぼれた。


 北瀬の手で蠢く一匹と、別の飼育箱に入れられているもう一匹。どちらも雄のノコギリクワガタたちは、ホワイトデー直前に那世の破局の決定打を生み出した例の幼虫が、立派な成虫へと変態したものだ。今回、飼い主におとり捜査に同行させられた彼らは、台所脇で飼育されているのである。


「つか、いまさらだけどネーミングもっとなんとかならなかったのかよ。ノコとクワって、まんまが過ぎんぞ・・・・・・」

正倉院宝物しょうそういんほうもつ螺鈿紫檀五弦琵琶らでんしたんのごげんびわだって、そのまんまのネーミングで堂々と国宝面して教科書載ってるんだから、別によくない?」


「どこと張りあってんだよ。それに螺鈿紫檀五弦琵琶らでんしたんのごげんびわはいいだろ。螺鈿と紫檀のあたりがかっけぇし」

「その響きと字面でかっこいいっていう感性は高校で卒業するべきでは?」

「うるせぇ! かっこいいと思うもんは自由だろ! というか、てめぇもかっこいいと思ってたから、するっとその名前が出てきたんじゃねぇのかよ」

「だって螺鈿と紫檀に琵琶まで組み合わせるの卑怯じゃない?」

「知るかよ! やっぱそうじゃねぇか!」

「なあ、先にシャワー浴びてきていいか?」


 今日日一きょうびいち、最高に不毛で無意味な言い合いに、仕事帰りで汗ばむ首筋のネクタイを外しながら、那世は冷たく水を差した。


 そして宣言通り那世がシャワーを済ませて出てきたころには、夕飯の支度は整っており、三人仲良く、狭い部屋でちゃぶ台を囲んでの晩餐となった。この生活もそろそろひと月。だいぶ暮らしぶりも馴染んできてしまっている。


「すっごいビール欲しくなる、これ」

「未成年の飲酒は法律で禁止されている」

「ガキはレッドアイのビール抜きでも飲んでろ」

「都合よく子ども扱いするよね。この融通の利かない警察官たちは・・・・・・!」

 大人ふたりが憚りなく喉越しを楽しんでいるよく冷えた魅惑のアルコールを、悔しげに横目で睨みながら、北瀬はトマトジュースをごくごくと飲んでやった。


「それで、あっちの捜査の進展はどんななの?」

「組織員殺しは関連が疑われる奴が浮上してきたんで、長洲野さんが対応することになった。薬の方は、基本、流通が多いのはタブレット型だったからな。おかげで、東京府外への注射型の流通ルートは追いやすかったんだが、組織絡みのルートで誘拐と関わりがありそうなところがなくてな・・・・・・。攫われている人数を考えると売買の線も強い。そこは藤間がネット上のあやしいところに潜って調べてる。あと、被害者の身元が割れた」


「埼玉の子か」那世に渡された携帯画面を真摯な面持ちで眺めながら、北瀬がぼやく。「家出常習者でひと月、ふた月家に帰らないこともザラ。まだ十四か・・・・・・」

「学校は休学中。親も無関心。だから、最後まで届けが出なかった。過去に万引きを繰り返していて、それで埼玉の警察に顔を覚えている者がいてな。おかげで、身元が割れた」

「・・・・・・たまらねぇよな。こういう案件は、毎回よ・・・・・・」


 行き場所も分からず息苦しさから抜け出そうともがいて、逃げてはいけないところにまで辿り着いてしまう。少年時代、同じ憤りと虚しさを抱えていた佐倉には、家を出て彷徨った少年の心情が遠からず理解できるのだろう。だからこそ、その終着点がやるせない。


「やっぱり、遺棄場所は県をまたいでたね。となると、移動は間違いなく車」

「すでに省の近くの薬局では目薬が飛ぶように売れてる」

「お疲れ様で~す」

 道路の監視カメラは、北瀬が言うまでもなく精査されだしているらしい。絞るにしてもあまたある埼玉から神奈川への道のりに、北瀬は省の担当者たちへ深く同情と敬意を込めて頭を下げた。


「にしても、そこにあの男が映ってたら、一気に進展はするんだけどな」

「お前から聞いて作成した似顔絵は、一応共有してある。引っかかれば儲けものだな」

「例の犬の散歩の男か? 〈あやかし〉だってつってたっけか?」

「そう。匂いがね、〈あやかし〉。でも大事な情報はそこじゃなくて、今日も心配して声かけてきたってとこ」

 佐倉の問いかけに、少年のかんばせには不釣り合いな大人びた笑みを浮かべて北瀬は頷いた。

「暗い時間に危ない場所でひとりでいる子どもを気にかけてくれる親切な大人――だと思いたいんだけどね。必ず声はかけてくるけど、踏み込んでき過ぎない。説教臭くもなく、人のいい感じで心配してくれる。そのあたりが・・・・・・ああいうところで腐ってる子への距離をわきまえ過ぎててね。いい人で終わってくれれば、それはそれでいいんだけどさ」


「だが、悪意は善意の皮を被るからな。出会ってから二週間ばかりだったか? 着実に、知らない大人から、気にかけてくれる顔見知りの大人になっていってるのは気にかかるな」

「子どもは馬鹿じゃねぇからな。知らない奴や怖い奴はちゃんと警戒する。『知らない大人にはついていかない』ってな。けどだからこそ、子どもの『知ってる』の枠組みに入り込んじまえば、とたんにやりやすくなる」

「親切な相手だと初手で思い込ませられればなおさらね。悪い奴ほど、相手の信頼や好意につけ込むことを躊躇わない」


 身の上を案ずるふりで、困って助けを求める様で――そうやって近づいて、相手が己に向けてくれる情を意にせず、平気な顔で踏み躙り、悪事を働ける者は反吐が出るほど多い。


「人の善意をまず疑ってかかれちゃう、この職業もいやになるけどねぇ。もっと綺麗なものだけ見てたいよ」

「その綺麗なもののために、お前、この仕事をやってるんだろ」

「まぁね」当然のように那世の淡々とした声に返されて、くすぐったげに北瀬は口元をほころばせた。「子どもが大人やその優しさを、疑わなくてよくなればいいと思ってるよ」

「んとにな。手を差し伸べてくれる大人を疑わなきゃいけねぇのも辛ぇし、信じて裏切られるのもしんどいからな」

 ビールを傾け、まだ遠い酔いを転がしながら佐倉が言う。


「オレはほんと出会いには恵まれたから、いまこっち側にいられてるけどよ。族からそのまんま組織員、とか、山ほど見てるからな」


 荒れている子どもの未成熟な心を引きずり落すのは、当人が思い込んでいるよりも簡単で、悪い大人は上手いのだ。誰も見向きもしないのだと、自分を諦めきっている心の隙間に、親しみで寄り添ってくれる。気にかけている、心を許している、一個人として認めている――そういう、求めていた特別を甘く優しく、惜しみなく差し出してくれる。そして気づけば、罪を犯して引き返せないところに立たされているのだ。


「そこが救いだと思って手を伸ばしたら、どん詰まり、みたいな。しかもそういう奴は、自分じゃ気づけてなかったりもすんだよ。自分の意志でなりたくて、兄貴分のあとについてったんだ、みたいなのが結構いる。分かりもすんだよな。オレも班長に会ってさ、絶対この人の力になりたいって思って警察目指したんだよ。家呼ばれて、優しくしてもらって、ここにいていいって居場所がもらえてさ。そのあったけぇ感覚が――別の場所の紛いものだったら、どうなってたかってのは・・・・・・よく思うぜ」


 もしもの自分を、捕まえた相手に覗いてしまう。

 そんな気の置けなさからぽろりと吐露された言葉に、幼い音色がゆっくりと口を開いた。


「――佐倉は捜四だから、そう思う機会も多いのかもしれないけどさ」

 まだあどけないのに、不思議と底の部分に落ち着きをはらんだ、心地よい響き。それが、佐倉の耳朶を柔らかくくすぐっていく。


「運があったのも確かだけど、佐倉はこっちに来られる男でもあったんだよ。前に、更生した奴が褒められるの羨ましいって言ったけどさ、分かってるよ。同じところまで来るのに、乗り越えなきゃいけない障害の数が、整えられている舞台の質が、違うんだ。そりゃ、同じ偉いにはならないさ。だから、ちゃんとそれを踏み越えてきたわけなんだし、恵まれてたんだとしてもさ、いまここにいる自分に、もっと自信持ってもいいんじゃない?」

 青く澄んだ、常よりいとけない瞳は柔らかに佐倉を映し――直後、ふわりと戯れにおどけた。


「俺はそういう意味ではあらゆる点で佐倉以上に恵まれてるけど、ここに至る己の努力を誇らなかったことはないね。むしろもっと褒めてほしい」

「お前は辞書に謙遜という言葉を採用しておけ」

 不遜なほど得意げな相棒に冷たく切り込んで、那世は、ごちそうさまでしたと手を合わせた。不服げに寄せられた形のいい眉を構いもせず、片付いた皿を手に立ち上がる。


「すいか、俺が切っておく」

 そう言い置いて、台所へと消えていく。その背に、佐倉は声をたてて笑った。

「んとに、ここは福利厚生が充実してらぁ」





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