誘拐事件


 ◇



 からからと、回し車の音がする。非違検察課捜査四係の佐倉の机の上。そこにあるハツカネズミのケージからだ。係で飼育されているもので、強面たちが無駄に世話を焼きたがるため、『佐倉に無断で餌をやらないこと』と、丁寧に張り紙がされている。

その愛されネズミが、朝も早くから運動に勤しんでいるのだが、その乾いた音が響くほど、捜査四係のデスク周りは妙な静寂に包まれていた。それが伝播し、同オフィスの捜査三係まで、なぜか密やかに仕事をしている。


 椚下、佐倉、早乙女、そして那世。彼ら四人と向き合うように、南方、長洲野、藤間、アレクサンドリア。その真ん中に、いささか居心地が悪そうに椅子に座らされている少年――北瀬がいた。身体に合っているが顔にはそっていない原色の強い赤の服は、現役小学生の椚下の息子から拝借したものである。

 大捕物から一夜明け、昨夜のうちに連絡だけは入れられていた捜査一係の面々が、現実と向き合いに来たのだ。


「――というわけで、夜のうちに病院で検査はひととおり済ませてもらって、異常はない・・・・・・ということになってはいる」

「いや、まあ、でも・・・・・・異常よね」

「まあ、そうではあるんだが」

 粛々と昨日の出来事と病院での検査結果概要を伝えた椚下を、同期のよしみの気安さからか、南方はバッサリと切って捨てた。


「たいていのことは驚かなくなってきたと思ってたけど、これはちょっと驚いたわ。世界にはまだまだ不思議が残ってるのねぇ」

「班長、人の身の上をざっくり世界の不思議扱いしないでもらえません?」

「え・・・・・・北瀬先輩、驚きのエンジェルボイスじゃないですか。ここまでくると外見詐欺も甚だしいというか・・・・・・」

「藤間ちゃん、容赦」

「でも、思ってたよりは大きくてよかったよ。班長から子どもになったとだけ聞いたから、僕なんか取り乱しちゃって・・・・・・思わず持ってきちゃった」

 飾らない藤間の正直さを補うように、長洲野の優しい声が流れる。が、その手にあるのは赤ん坊用のガラガラだ。娘さんが昔使っていた思い出の品を引っ張り出してきてくれたのだろうか。


「思えば子どもであって、赤ちゃんじゃなかったなぁって。さすがにいらない年齢だったね・・・・・・」

「私、長洲野のそういう仕事以外で抜け落ちるところ、わりと高く評価してるわよ」

「いや、班長そうじゃないんで、ちょっと黙っててください。長洲野さん、なんか、その・・・・・・一応いただいときます」

 居たたまれなさそうな長洲野に、プリンの負い目などから、北瀬はそっとガラガラを受け取った。回し車のカラカラとなる音に、なんとはなしに振られるガラガラの音が重なる。


 そんな混沌となった背景の音は一切気に留めず、南方は椚下へ尋ねた。

「原因はやっぱり、城田の異能?」

「断定はできないが、おそらくは。城田が打たれた薬だが、精製過程で異能が使われているものでな。詳しく調べてみる必要はあるが、そのせいで〈あやかし〉に対して、想定外の作用を及ぼした可能性がある」

「それで、異能の効力範囲が、本来なら効くはずのない北瀬にまで及んだってことね?」

「いまのところは、そう考えるのが一番筋が通る」


「実際、変な感じはあったんですよ。城田さんがちょっと落ち着いたな、って思った時。ちょうど車がふっ飛んできて、しっかりと把握は出来なかったんですけど、那世に異能切られた時と似た感覚があって、そしたらこうなってました」

「異能への影響力はまだ調査段階だが、流通の多かったタブレット型と違って、効力の強い注入型のものが、〈あやかし〉にはさらに危険な薬であることは間違いないようだ。人よりも効きがいいせいで、致死量も人より少量になる。城田がまだ微量の段階で摂取を阻めたのは、本当になによりだ」

「念のため入院措置はとってますが、ゆうべの検査でも、重篤な症状は認められなかったんで、意識が戻って話も出来ましたよ」

 心底安堵した様の椚下の最後の言葉を引き取って、早乙女が南方へ続ける。


「んで、その時に北瀬のことも相談したんですがね。もう異能については通常に戻っちまっていて、城田に元に戻してもらうことは出来なかったんですよ。まあ、薬が早期に抜けたってことなんでそこは良かったんですが・・・・・・問題は北瀬で。確認したところ、通常、放っておいてもひと月ほどで城田の異能は切れるそうなんですよ。万一薬の影響で異能の効力が長くなったとしても、まあ、来年ぐらいには戻ってんじゃないですかね」

「見てくださいよ、班長。この心配のなさ」

 最終的に投げやりな結論に着地した早乙女の発言に、憤慨を見せつけるように北瀬は腕組みしてふんぞり返る。その小さい背中を軽くばんばんと叩きながら、「そんなことないぞ~」と早乙女は笑った。


「心配だから、ちゃんと官舎まで送り届けて、那世の部屋に泊まるように言っただろ」

「那世、あんた北瀬泊めて世話焼いてやったの?」

「職業柄、未成年をひとりにするのも憚られ・・・・・・」

「欲しいのそういう心配じゃないし!」

 えらいわね、とでも言いたげな南方の語調に噛みついて、少年の声は不貞腐れる。


「大丈夫っていうのに那世と佐倉がしつこいんで、ふたりの良心のために泊まってやったんですよ。それなのに、寝る場所はベッドを譲らず、俺にソファ! 普通逆じゃない?」

「お前ならソファでも納まって寝られるだろ。俺の場合、どれだけ足が余ると思ってる」

「大人を振りかざす~」

 ガラガラと、那世の耳元に手を伸ばして、聞こえよがしに北瀬は手にしたおもちゃをかき鳴らした。鬱陶しいと言わずとも語って、那世の顔がしかめられる。


「けど、戻らないわけでもなく、最低でもひと月は小さい見込みがあるならちょうどいいわ」

「班長、いま、ちょうどいいって言いました?」

 ぴたりと調子づいていたガラガラの音が止まる。聞かなかったことにするにははっきりとし過ぎた言葉に、恐る恐る北瀬が見上げれば、南方は不敵に微笑んだ。


「四日前に入った事件は忘れてないわよね。〈あやかし〉の子どもの死体遺棄事件」

「ええ、もちろんですよ。進展、ありました?」

「あったわ。結果、思っていた以上に厄介そうよ」先ほどまで不平を垂れながら気だるげにガラガラを振り回していたとは思えない引き締まった高い声音に、意を得たりとばかりに南方は続けた。「被害者が〈あやかし〉だったってことと、不審死だったのが重なって、念のためうちに一報が入ったから着手しだしたわけなんだけど、それが幸いしたわ。椚下にもちょっと話は通したけど、今回の瀬津川組と絡む可能性もあるの。長洲野、資料お願い」


 南方の一言で一同に回された資料には、事件概要とその後の捜査内容が簡易にまとめられていた。

 四日前、神奈川県の林道で身元不明の少年の遺体が発見されたのだ。が、まず、その死因が問題だった。


「・・・・・・なるほどな。外傷は唯一、首の後ろの注射痕のみ、か・・・・・・子どもっつうことも勘案すると、ここなら自分でってことはまずねぇだろうな」

「ああ、それで薬物検査を一通りしたんだが、一致物質はなし。ただ、MDMAと似た成分が検出されたことから、まだデータベース上にない、新しい麻薬の類の疑いが強まってな。今回の物と一致しないか調べてもらっていたんだが・・・・・・合致、ということか」

 佐倉が唸り、難しい顔で那世が重ねる。


 製造、販売を瀬津川組が専有していた薬だ。広く出回り出していたタブレット型と違い、注入する方は地方まで流れるには早過ぎる。どこで入手したのか、と、それだけでとたんにきな臭い香りが強くなってきたことは否めない。


「検出量から見て、おそらく使用に殺害の意図はなかった。身体を支配下に置くために利用したんだと思うわ。ただ、相手は〈あやかし〉だった、ということね」

「通常量よりも少ない量で致死量に達した、というわけか。どちらにせよ、惨いな・・・・・・。まだ十代の少年だ」

 椚下が眉間の皺をぐっと深める。真摯な色を宿した青い瞳が、南方を見つめて問うた。

「それで班長、子どもに薬使うようなくそ野郎と、俺が小さいのが都合がいいことがどう繋がるんですか?」


「資料の次の頁を見てちょうだい。今回の件、本質は殺人ではなくて、誘拐よ。被害者の捜索願いが出てなかったことが引っかかってね。過去の類似案件を藤間に拾い出してもらったのよ」

「調べてみたところ、今回の被害者のように、失踪後すぐに捜索願いが出されないような少年少女の行方不明者が、関東圏内の県をまたがって、ここ数年だけで複数人いることが分かりました」

「とはいえ、行方不明者って年間八万人から九万人はいるでしょ。そのうち、十代までの子が四分の一は占めるから、あえて冷たく言えば、警察としては珍しいことではないよね」

「たいていは家庭環境の問題からくる家出だからな。すぐに見つかることも多い。全体の行方不明者数に対して犯罪絡みとなると、一割ほどだ」

「そのうちに二パーセントの二百人弱が、毎年発見されずにいます。おそらく、今回の件は、その二パーセントです。この失踪にはルーティンがあります」


 北瀬と那世の冷静な精査のための反証に、自信を持って藤間は答えた。それに微笑んで資料へ再び目をやり、北瀬は頷く。


「なるほど。毎年、六月から八月にかけて、十代の少年少女が県をまたいで二、三人消えてる。それが全員未発見の上、五年間、継続してるわけか」

「県は固定されているが、県内の失踪地区は毎年違うな。各地域の警察署の所管が例年重ならないようになっている。隣り合う所管すらも丁寧に避けてるな。計画的で結構なことだ」

 冷淡に、那世は感心を言い捨てた。その横で、失踪者の一覧に早乙女が顔を曇らせる。


「失踪してるのも、家出常習者だったり、家庭環境に難があったりで、振り返られにくい子どもたちだな。届けが出されるにしても遅い上、家出の疑いが先に立っちまって、誘拐の可能性が低く見積もられやすい」

「あまり言いたくはないが、埋もれていきやすい事案だ」深いもどかしさを滲ませながら、椚下が溜息とともにこぼす。「そのうえ、所管も県も跨いでいるとなると、こうして横に見ることがなければ、関連にも気づかれにくいな」


「しかし、所管の重なりを避けちゃいますが、治安のいい居住地区も避けてるせいで、この五年でパターンが出てきてますね」そう己の班長に話かけつつ、佐倉は資料の向こうに犯人を見るように、それを鋭くねめつけた。「確かに、こんな規則的で継続的な失踪はねぇよなぁ・・・・・・」


「それで、今回発見された子は、単発の一件ではなく、一連の誘拐事案において、初めて発見された被害者で、偶然の死亡者――と推測されるわけですね」

 あどけない声音と顔立ちをかき消すほど凛然とした響きが南方を見れば、彼女はその通りだと頷いた。

「そのうえ、この犯行には瀬津川組絡みの薬が使われてる。組織的な犯罪も視野に、捜四にも協力してもらう必要があるわ。それに可能な限り、早期の解決が必要。攫った目的は不明だけれど、今回の被害者の死亡理由や、計画性と比して遺棄が稚拙な点から見ても、殺害のための略取ではないはず。だから現時点で、誘拐本来の目的は未達成だろうから、きっと次があるわ」


「例年、誘拐はひとりだけではなく、複数人行われてもいるしね。今回の失敗から行動パターンが変わる可能性もあるけれど、五年間、きっちりルーティンを守ってる犯人だ。逆に、いつも通りに進めることに急いて、次を早く狙うことも考えられる。イレギュラーが起きた際、こうした犯行はボロが出やすいから、次の誘拐を画策してるなら、いまが狙い目ともいえるわけだ」

「だから急ぐ、と。でも関東圏内ってだけじゃ広すぎて、やみくもに犯人探せませんよ?」

 微笑む長洲野にそう返しながら、北瀬は藤間へ視線を流した。答えがそこから来ると分かっているのだ。


「五年間の関連が疑われる失踪事案から、次に犯行が行われる可能性が高い街は割り出しています。茨城県の亀篠かめざさ市です」

「もちろん、遺体発見現場の神奈川県警との連携を引き続き行うことはもちろん、各県警には話を通して、過去に失踪があった地域の警戒を強めてもらうわ。ただ、うちも人員に限りがあるからね。藤間は各県警から上がってくる情報精査のためにこっちにいて欲しいし、長洲野は例の組織員殺しの件も含めて、昨日逮捕した連中にばんばんぶつけていきたいから、現地捜査に割けるのは北瀬と那世だけになる。だから、非違検察課として赴くのは、一番可能性が高い亀篠市に絞ろうと思うの」


「あ~、なんか話が読めてきたぞぅ」

 細い手でまた振り回されだしたガラガラの音を纏いながら、少年の声は軽妙に踊った。

「これ、俺におとりで誘拐されて来いってことですよね?」

「まあ、そこまでは言わないけど、那世と佐倉と一緒に現地で情報を集めつつ、怪しい場所をうろついて、あばよくば犯人に接触して一発で決められる証拠を押さえて欲しいわ」


「大海で針を探せみたいな課題出された」あっけらかんと提示された無理難題に、ガラガラの音がとたんに勢いを失っていく。「うちの班長、かぐや姫かな」

「冷静に考えろ。かぐや姫の方がまだ良心的だ。蓬莱の玉の枝を思い出せ。再現可能なほどの情報提供をしてくれている」

「月の羽衣着る前から人の心が・・・・・・」

「あんたたちの聞こえよがしに上司に文句言うところ、好きよ」

 雰囲気だけはひそひそと、大声で話し合う北瀬と那世に南方は爽快に笑った。そこに、控えめに声をかけながら佐倉が手を挙げる。


「あの~、南方さん。オレの聞き間違えじゃなけりゃ、なんかさらっとオレも現地捜査の面子に組み込まれてませんでしたか?」

「組み込まれてるわよ?」

「なんでっすか?」

 何を聞くのかという顔を返されても納得がいかない。すると隣で、椚下が小さく咳払いして、南方と困惑に振り回されている佐倉をちらりと見上げた。


「今回の件、薬が流れたルートの調査はもちろん、実際に瀬津川組と関わりがある事案なのかなど、うちとしても捜査を行いたいんだが・・・・・・いかんせん、いまは新宿署関連の突き上げ捜査もあって、人手に限りがある。そこで適任を考えた結果、北瀬たちと気心も知れていて、万一、北瀬が誘拐されるのに成功した場合、状況確認を行える佐倉がいいだろうということになってな。それで昨日、南方と電話で相談した際――よろしくこき使ってやってくれということに・・・・・・」

 つい最近聞いた覚えのあるフレーズがどこか面目なさそうに椚下からこぼれる。それに、佐倉は無言でうなずき、すっと南方へ頭を下げた。


「よろしくこき使ってやってください」

「ようこそ、捜一へ」

 腕を伸ばしてもなおまだ高い位置にある佐倉の肩をぽんっと華麗に叩いて、南方がいい顔で笑った。


「佐倉パイセン、ちょろい・・・・・・」

「従順と言ってやれ」

「言っとくけど、てめぇらにはこき使われねぇからな」

 後ろで囁くバディたちに噛みつきつつ、ふっと佐倉は物言いたげに北瀬を振り返った。


「つか、なんだ・・・・・・。てめぇはこれ、いいのか?」

 歯切れの悪い問いかけに、眼つきの悪さにさえ滲む心配げな眼差し。それに彼の憂いの種に思い当たって、ははん、と北瀬はふてぶてしい笑みを子どもながらに整った唇に引いた。

「別に全然問題ない。悪党追い詰めるのに使えるもんなら、あらゆることを利用してやる」


「まあ、北瀬がそう言うってのは想定の範囲内なんだけど、佐倉の懸念通り、こういうことで自己判断の大丈夫を信じきっちゃいけないのも確かよ。危険があるのに加えて、過去のことがある。それはもちろん、私も承知の上」

 自信に満ちきった北瀬の答えに冷静に南方が重ねた。本当に幼かった過去に誘拐を味わった北瀬が、自身さえ気づかない傷を抱えていないとは限らないのだ。北瀬は南方の言葉に、平気ですとでも言いたげな不満な表情だが、それを受け流して南方は、「だから」と意味ありげに微笑んだ。


「今回の誘拐おとり捜査を考えた時点で、上と遂行の是非を協議しといたわ」

「上?」

「あ・・・・・・なんか嫌な予感がしてきた・・・・・・」

 言いようが直属の上司である非違検察課長ではなそうで、首を傾ぐ那世に、珍しくか細い北瀬の声が呻いた。そこへ――


「あら、ちょうどいいタイミングだったようね?」

 オフィスの入り口で、人を惹きつける女性の声がした。凛と涼やかで、張り上げてもいないのに通っていく。その場にいた北瀬を除く一同も、同室の捜査三係の面々も思わず声の方を振り返った。と、同時に、密やかなざわめきが、主に捜査三係の方からさざ波のように押し寄せてくる。


「次長だ」「え? 次長?」「ここに次長?」「次長来た、嘘でしょ」


 心地よい威圧感が空間を支配する。年齢を優美に重ねた凛々しい女性だった。少し癖のある茶色の髪を靡かせ、切れ長の明るい色の瞳で揺るぎなく前を見定めて、颯爽と靴音高く捜査四係のデスクの方へ歩み寄ってくる。

 北瀬が、顔を覆って天を仰いだ。


「誰ですか、こんな些末なことであんな偉い人呼んじゃったの・・・・・・」

「はい」

「知ってます! 分かってるけど言いたかっただけ! 班長は律義に手を挙げないで!」

 すっと美しくのびやかな挙手へ、悲愴に少年は咆える。それを南方は爽快に笑い飛ばした。

「一応、未成年だから保護者に連絡も兼ねてね~」

「その配慮、まったくいりませんよ・・・・・・」

 そう頭を抱える北瀬の上に、彼の憂鬱な気持ちを表すかのように影が差した。


「久しぶりね、ゆう。というか、その姿が久しぶりね。今日うちに来なさい、お父さん喜ぶから」

「いや、もう、いきなり次長のような偉い方がいらっしゃると末端の俺たちとしては緊張して仕事にならないんで、お帰りください。もっと大事なお仕事もおありでしょうし、とっととご帰還を。早く。帰って。いいから! あのさ、携帯しまってもらえる?」

 ブリーフィングの輪に近寄った淡い微笑みは涼やかに告げるも、その右手に構えられた携帯電話から連写するシャッター音が遠慮なく響いている。それを諫められる立場の者は、ここにはいない。完全に見守りの姿勢だ。


「あとうちには帰らないから。父さんにはその写真で我慢してもらって」

「声も聞かせてあげなさいよ。仕方ないわね。じゃあ・・・・・・動画にするわ」

「この偉い人何しに来たのかな」

 いらいらと文句を垂れながら、北瀬は録音を阻害しようと、手のガラガラを派手に振り回した。だが、彼の母は意にも介さず淡々とカメラを向けている。


「・・・・・・北瀬、諦めろ。あとやかましい」

 見かねて彼の頭上から降った低い声に、北瀬は悔しげにガラガラを握りしめた。

「那世くんも久しぶりね。愚息がいつも迷惑かけてるわ」

「はい、まあ、それなりに」

「そこは社交辞令使おうか~、那世」

 憚りない受け答えに、少年の冷めた声が差し挟まれたが、那世にも母にも気にした様子は見られなかった。


「私的な挨拶が先になって失礼したわ。南方から今朝がた連絡を受けて、ちょっと好奇心が抑えきれなくてね。予定をこじ開けてきたの。状況と今後の方針は聞いてるわ」

 そこは抑えとこうよ、と、ぼやく息子の声を完全に聞き流しながら、威風堂々、玲瓏な声は一同へ告げた。

「私にまで決裁を上げなくてもいい事案だけど、内々に承知はしているわ。ひとつ伝えることがあるとすれば、そこのごねそうな刑事に」

 いまだ不服げな色を引っさげない幼い面差しを、彼とよく似た双眸がひたと見据えた。


「捜査に入る前後はもちろん、捜査期間中も定期的にカウンセリングを受けなさい。こうした件に関しては、自分の大丈夫を過信しないように」

「・・・・・・一応聞いておきますけど、それ、次長としての指示ですか?」

「捜査官が職務を遂行できるようケアを行うことは上の責務よ。私が権力を過保護に行使する親じゃないことを感謝なさい」

 試すように射抜いてきた少年の視線に、赤い唇は平淡な声音ながらも不敵に笑んだ。個人的な憂慮を組織の意志にして、この件を阻むことも出来る相手なのだ。けれど決して、彼女がその一線を越えることはないのだろう。その点において、北瀬は肉親の情を判断の外に置いても、母を信頼していた。


「――分かりました。ちゃんと受けます」

 柔らかに、素直に表せない敬意をため息に潜めて北瀬は微笑んだ。それを丁寧に次長は受け止め、頷く。が、ふっと北瀬の性質をよく知る親の顔で、彼女は那世を振り向いた。

「那世くん、こんだけ聞き分けのいい顔しておいても後でごねるだろうから、その時は面倒だろうけど引きずっていってくれる?」

「引き受けます」

「ちゃんと部下としてまっとうに応えたんだから少しは息子の言うこと信じようか?」

 頭上で交わされる身の蓋もない会話に、北瀬は苛立ちをのせた笑みで棘を刺した。しかしそれには一切返さずに、彼の母はもう大事な用は済んだとばかりに椚下のネクタイに興味を示して、見向きすらしない。「よく見るとなんかいるわね。それなに? 団子? 猫?」「ねこ団子ブラザーズです」という、椚下がお気に入りをプレゼンテーションする会話を聞きながら、北瀬は虚無の顔だ。


「うちの母親、ああいうところある」

「実にお前の親御さんだと思うがな、俺は」

 なにひとつ気休めにならない言葉を、那世が北瀬へ無情に投げかける。その二人の眼前に、すっと藤間がアレクサンドリアとともに小脇にかかえていたタブレットの画面を差し出した。


「では、話も纏まったところで、潜入捜査中の家を選んでください。佐倉さんもご一緒に」

「家?」

「え? いつもみたいにホテルとか空いてる官舎の部屋とか借りないの?」

 疑問と驚きの声をあげる那世と北瀬に続いて、聞いてないぞとばかりに、次長と談笑する班長を見守っていた佐倉が慌てて藤間の方を振り返る。それに、藤間の代わりに南方が口を開いた。


「今回の犯人は、誘拐相手の素性をしっかり調べてるみたいだからね。ただ、どうやって確認を行っているのかは不明だから、もし標的をつけて家を下調べするタイプだったら、ホテルや官舎に出入りしてるのはよくないでしょ? だから、保護者らしき相手が同居してないうえ、そっちの筋な感じ男の家で暮らしてる子っていう、いかにも訳アリそうな設定でいってもらおうかと」

「え、やだ、俺、可哀想な子」

「その場合、俺の設定はどうなるんですか?」

「てめぇもその気になりゃ、その筋のインテリでいけんだろ。オレだけがその筋とは限んねぇだろ。自分は違う前提でいくんじゃねぇよ。その眼つきの鋭さは飾りか?」

「ちなみに、家賃には上限があるので、部屋はおおむね1DKだと思っておいてください」

 どうでもいい設定面でやいのやいの言い出しかけた三人に、藤間が静かに告げた現実が爆弾となった。おもむろに三人で顔を見合わせ、そして北瀬が口火を切る。


「待って! 俺たち三人いるんだけど。大の男が三人いるんだけど!」

「てめぇはいまは小人扱いだよ」

「そうだとしてもまだ平均より大きいのが二人いる」

「俺、バストイレ別、築五年以内の3LDK以上じゃないと嫌だ」

「そんな高額物件は残念ながら候補にありませんね」

「自腹、自腹切るから!」

 慈悲のない藤間の単調な返しに北瀬が縋りつけば、脇から明るくも容赦ない南方の声がした。


「最近厳しいから、職員に自腹切らせる訳にはいかないのよね~」

「そんなもん、こっそりやれば上にはばれませんよ!」

「どこがこっそりだよ、声がでけぇよ! てめぇいま、一番偉い人が来てんだぞ」

 佐倉の指摘に、はっと北瀬は背後の偉い人を振り返った。ねこ団子ブラザーズの話に花が咲いたのか、切れ長の瞳は椚下のデスクのグッズを手に取り、見つめ合っている。しかしあの母が都合よく聞き逃しているはずがないと、北瀬は即座に迦陵頻伽もかくやの音色に猫なで声を溶かしこんだ。


「お母ぁさ~ん、ボク、いまの聞かなかったことにしてほしいな~!」

「出来ない相談はしないように、北瀬」

「くそっ! 恥を忍んで在りし日にすらなかった可愛い息子モード全開で挑んだのに、容赦なく次長で返してきた。自分も北瀬のくせに!」

「在りし日になかったからじゃないか?」

「てめぇ、マジで使えるもんは遠慮なく使ってくな・・・・・・」


 一瞥もない事務的な返しに歯噛みする北瀬に、呆れを越えた冷ややかさで那世が言い放ち、佐倉はその潔さにいっそぞわりと肌を粟立たせた。

 南方の「雑魚寝なんて慣れてるでしょ」と取り合わない姿勢と、「諦めて早くこのリスト内から決めてください」との藤間の要請に従うしかなく、男たちはタブレット前で額をつき合わせる。

 困ったものだとばかりに、タブレットを掲げてくれている藤間の腕の中で、アレクサンドリアのぎょろ目がゆるりと揺れた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る