第10章 バグダラートへの道 2

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 隊商はゆっくりと進みはじめた。先頭からカイマルズの荷を積んだラクダが60頭ほど並んで列を成し、その後方に随行する商人や旅人が続く。大隊商である。


 与一らの一行は、用心棒の役割を負うケイヴァーンを除いて、後方の列の中ほどを馬6頭を引き連れて歩んでいた。与一、ファルシール、イグナティオ、1人2頭で、馬が疲れたら荷物と鞍を載せ代えながら長距離を行く。シャリム伝統の移動方法である。


 イグナティオが持っていた200頭ほどの馬は、半数をカイマルズに前金として渡して、残りは食いぶちを減らすために売ってかねにした。もっともカイマルズの方も、見たところ貰った馬は昨日のうちに現金にして懐を重たく潤していたようである。


 城壁が後方へ遠ざかり、辺りの雪化粧をした小麦畑を抜けると、辺りは雪が覆う岩と砂の砂漠になる。


 砂漠の奇妙な天気に"霧"がある。


 冬の朝方、地表と空気の寒暖の差で、砂漠ではしばしば霧が出る事があるのだ。大概、5アリフ(メートル)先が見えないほどの濃霧になり、不馴れな者は進めないか、道を外れて極寒の砂漠の中で倒れ、大地の養分となる。


 しかし対処の方法を知っているならば別である。


 この日、カイマルズの隊商は幸先の悪いことに、この白い闇に行き当たった。


 隊商の先頭から順次、霧の中に入っていき、与一らがもうすぐ突っ込む頃に、前を進むラクダ乗りがイグナティオに縄を渡してきた。


「これを後ろに」


 イグナティオは、与一とファルシールに縄を渡し、後ろの者へと伝わせていった。


「霧の中にいる間、その縄から離れないで下さい」


 縄は隊商の頭から最後尾を通して伸ばされ、隊商をひとつの帯として繋ぐ役目を果たす。


(なるほど。この縄に触れていれば、ラクダや人がばらばらに散ってしまうことはないって感じか。面白いな)


 考えは単純だが、最も有効な手立てであろう。縄は隊商の頭から最後尾を通して伸ばされ、隊商をひとつの帯として繋ぐ役目を果たす。


 先頭に立つラクダ使いたちは長年同じ道を行き来してきた手練れたちで、視界が無くとも真っ直ぐに歩き続けることができる。


 そうして進み続けていると、やがて濃い霧の隙間から日が差しはじめて、辺りは元の砂の広野に戻った。


「ヤバいくらい濃い霧だったな」

 与一は緊張が解けて、小さくあくびをした。


「ああ。嫌な霧だ」


 ファルシールは、ふっと一息いて手綱を緩めた。霧はファルシールにとって思い出したくない記憶を呼び起こしたようだった。自身が何も出来ず惨めに敗走した事は、記憶に新しい。


「どう、どう」


 ファルシールの緊張は馬にも伝わっていたらしく、栗毛の馬が身震いしたので、ファルシールは手綱を緩めた。


「今回私たちは運が良い」


 しかし与一の前を進むイグナティオには別の価値があった。


「何でですか?」


 イグナティオは隊商を見回して言った。


「この隊商がまともな人の集まりのようだからです。これだけ大きな寄せ集めの隊商なら、普通は人数や頭数を把握しないで1人や何頭かは、はぐれるものです。ですが今回はきっちり揃っていますね」


 イグナティオは隊商の構成員を朝の短時間で全て覚えていたらしかった。実際、どこからも問題が起きたような声はしなかったので、イグナティオの観察力は確かなものである。


 ところがそのあとすぐに、ちょっとした出来事があった。


「頼みますよぉ! 後生だから隊商に加えて下さい。このまままじゃ砂漠の真ん中で干からびてしまう」


「こっちも助けてやりたいが、便乗料が払えず、食料も無いってのはどうしようもないんだ。これは俺の隊商じゃねえんだ。わかってくれ」 


「そんなぁ!」


 列の先頭の方で何やら男が1人、隊商の商人と揉めているようなのである。


 男は小太りな小男で、放浪楽士ジプシーのような格好で、背中に大きな荷物と弦楽器を下げている。


 隊商の商人たちは、皆、男の嘆願を聞き入れられずに立ち去るだけである。


 そうして隊商が進み、与一たちの横に男が来ると、男はイグナティオの馬の前に立ちはだかった。


「そこのお若い旦那ぁ! 俺を隊商に入れてくれ! 俺は見ての通り吟遊詩人だが、荷物持ちも小間使いも、何だってできる! 手綱持ちだって任せてくれて良い! 水も食料も逃げた馬が全部持って行っちまった、それからもう3日だ、次の町までの食料がもう無いんだ!」


 男は暗い金髪で眉が太く、赤いスカーフを首に巻いた出で立ちが妙に板についている30そこそこの齢に見える。先程からさんざん喚いてきたので、そろそろ喉も限界のようだった。


 イグナティオは男を一瞥だけすると、男を避けて通り過ぎようとした。

「旦那ぁ!!」


 後ろ髪を引いてみても、イグナティオには取り付く島もない。そうしてファルシールの番がやってきた。


「坊っちゃん! な? 頼むよ! 喉が乾いて死にそうなんだ! 腹だってもう3日も何も食べてない。馬の世話だってするから! 頼むよ!」


 ファルシールは困った顔をして馬を止めたが、イグナティオは振り返ることなくファルシールに言った。


「構ってはなりませんアルメス。商人は、自分に抱えられる荷物しか持ち合わせられないのです。私たちがその男を隊商に加えれば彼の面倒は私たちが見なければなりません。食料も1人分減ります。もし盗みを働いたなら、私たちがその責を負う羽目になります」


「……しかし」


 ファルシールに光明を見た男は、さらにファルシールに詰め寄った。

「頼みますよ!! 何としても次の町まで行かないといけないんだ!! 今は払えなくても、次の町で何とか稼いで払いますから!!」


「アルメス」


 イグナティオは厳しい声音で再度嗜めた。


 そばで見ていた与一にはどうすることも出来ないでいた。


(確かにイグナティオが言うように、食料は次の町まで持つギリギリで出発したし、便乗料だって何とか払えた感じだしな……でも放っておくのは、なんか嫌だな……)


「なあアルメス。俺たちの食料を少しずつ分けたら、2日分はその人の分に当てられるんじゃないか?」


「ほ、本当かい若旦那ぁ!!」


 男は猛烈な勢いで与一に飛び付いた。


「お、俺1人じゃちょっと決められないよ、おじさん!」


 ファルシールは与一に飛び付いた男を見て、イグナティオに言った。


「師匠、私と与一の分の食料を半日分減らして構わないから、この者を隊に加えられないか」


 イグナティオはやれやれと言う風にため息を吐いて馬首を返しファルシールに向いた。


「彼の素性については、私たちも各々よく知らないのでともかくとして、便乗料はどうするのです。貴方には持ち合わせがないではないですか」


 イグナティオに馬を全て渡し、身を担保にしてから、ファルシールには差し出せるものが何もなかった。


「なら、この短剣アキナカを預かってもらえないか」


「……」


 イグナティオは、ファルシールが懐から出した黒獅子の柄の短剣を見て、一瞬顔をしかめた。


「早く仕舞いなさい。分かりました。私が払います。今からカイマルズ殿のところに向かい事情を話します。金を払えば、特に反対はされないでしょう」


 男はイグナティオとファルシールの両方を交互に見合わせて、にわかに屈託のない満面の笑みをほころばせた。


「ありがとうございます! ありがとうございます! これからは白い旦那のことは若旦那、師匠のことは大旦那、ヨイチさん...は兄貴って呼ばせてもらいます!!」


 男はしきりに頭を方々に下げて嬉しがった。


「兄貴はちょっと……」


 見るからに年上の相手に懐かれて与一はこそばゆさを感じたが、男はたいそうな喜びようで止めようもなく、次第に恥ずかしさだけが残り、にやけが止まらなかった。だが、横にいるファルシールの方は、迷惑そうに苦笑いをしているが、実に毅然として落ち着いて見えた。


(さすが……ペコペコされるのには慣れてるな)


 こうして、与一たち一行は少しの間、騒がしい仲間を迎えたのであった。


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 男は名をシグルディと言った。ただのシグルディである。元は西の遥か彼方、イグナティオの故郷ネルウィオスと海を挟んで西方にあるのロマニ帝国の高貴な家の跡取り息子だったらしい。しかし醜い政治闘争に嫌気が差して、美と詩吟に目覚めて出奔したとのたまっている。


 ただ、イグナティオは「ロマニ帝国は帝政ではありますが、100年ほど前に貴族の地位を廃して、官吏が貴族に代わって政を行っています」というので、シグルディは甚だ夢想的な人物であることは間違いない。そういう意味では実に詩人であると言えた。


 夜、陽が暮れて、空から押し下げるように垂れ籠めた寒気が荒野を痛く凍えさせた。隊商はそんな中で、岩場の影に寄って、野に腰をおろした。各々が雪の下に埋もれた枝や薪を集めて火を焚き、炊事の煙が寒空の下に立ち昇った。


 与一たちも火を起こして馬から荷を降ろしていると、ケイヴァーンが見回りの合間を縫って主君の安否を伺いに来た。


 ケイヴァーンは出発した時には見なかった顔ぶれをひと目見るだけ見てから、ファルシールと話してすぐに戻っていった。どうやらイグナティオからすでに聞いていたらしかった。


 シグルディはよく動いた。薪集めに、馬の世話、食事の準備も買って出て、与一やファルシールから殆んどの仕事を掠め取って、それでいて卒なく完璧にこなした。


「うまい……」


 このかた料理に対する感想など発したこともなかったファルシールが、珍しくそう溢した事は、与一にとって新鮮な驚きである。


 そして、焚き火を囲んで談笑したのも、この旅が始まって以来、初めてのことであった。


「そしたら、べらぼうに酔った客が言うわけです。客に酒を注がせるなんて何事か! って。そんなもんだから私ゃ言ってやったんだ。これはあんたの酒じゃないって」


「ははは! それは災難ですね!」


「全くですよ兄貴」


「うむ確かに」


 ずっと重い面持ちだったファルシールも耳を傾けて小気味よく笑っていた。


(まあまあ元気じゃん。良かった)


 与一は旅の最中、あの手この手でファルシールを元気つけようと試みてみたが、失敗続きだった。16歳の少年が背負うには大きすぎる試練は、最近までただの高校生だった与一には、どうやっても軽くしてやれない。加えて、4人の道連れも互いにぎすぎすしたり距離を保っていたり、気を緩められるような雰囲気ではなかった。


 この詩人の登場はその中にあって歓迎すべ出来事と言えた。


「飯も頂きましたし、楽しい時間も過ごさせてもらいやしたんで、ここはひとつ、私の十八番をご披露させてもらいやしょう」


 食事の後片付けが終わり、話も出尽くしたところで、シグルディはおもむろに自身の荷物から三弦琴セタールを取り出した。


「兄貴は詩吟を聴くのは初めてで?」


 与一が興味深そうに三弦琴を見ているのに気づいてシグルディは聞いた。


「一度もないです」


「なんだ知らぬのか?」


 ファルシールは珍妙な物を見る目で与一を見た。


「ああ゛? 馬鹿にしてるな!? そうだよ一度も見たことないよ!」


 シグルディは弦を弾いて巻きながら「では、そんな兄貴のために、建国王アル=シャースフ叙事詩の15章を一曲」と言って、ひときわ低い弦をはじいた。その瞬間、辺りの音がその一音に吸い込まれて、消えた。



 ──野は満たすべき令月の光に照らされ、地を埋め尽くすアリーシャの軍勢は止まることを知らぬ。わたしに聞け、友よ。勇敢なる子供たちよ。かの王は大地を蹂みにじる者。子を、親を、兄弟を 妻を奪う者。かの王に、なにゆえこうべを垂れるのか。聞けよ同胞はらから、勇む者よ。我にこそ義あり──



 シグルディの詩吟に興味の無さそうだったイグナティオも、眉をひと動きさせて、脚を組み直して耳を傾けた。



 ──吾が妻ミーナよ。かの者たちの辱しめに屈することなかれ。そなたは地上に留まる吾れの望み、息子たちの偉大なる母。天地の理を知らぬ者たちの狂言に耳を貸すを許さじ──



 シグルディが弦を弾き、音律に乗せて言葉を発する度に、焚き火の炎も合わせるように揺れ、聞く者の琴線を揺るがした。


 やがて、シグルディの周りを聴衆が囲み始めた。昼間にシグルディの帯同を断った商人も、見て見ぬふりをして去った商人も、シグルディの弾き語る唄に、多くが感銘したようだった。奏でる三弦琴セタールの流麗で強い響きには春の雪解けの大河のような激しさと雄大さがあり、語り唄う声は時に雷鳴のようであり、時にか細い乙女のような響きがあった。


 商人たちの間で、古い昔話である叙事詩は不人気であったが、シグルディの唄には聞く者を彼の虜にする魅惑があった。そして一夜にしてシグルディは隊商の有名人となった。


 シグルディが語り終わると、辺りからはまばらに自然と拍手が湧いた。


 ただ、その詩は悲しむべき現実とを対比させ、悲嘆を覚える者も少なからず居た。シャリムの商人たちは自らの国の有り様を嘆き、頬に涙した。


 与一はそれを見ながら、古典の授業で習った漢詩を思い出した。


「国破れて山河あり城春にして草木深し……か」


「それはそなたの国の詩か」


 与一がこぼした独り言にファルシールが返した。


「俺の国、ていうか違う国の古典かな」


「言い得て妙な詩だ」


 ファルシールは白い息を吐きながら焚き火を見つめていた。


「だが、良い詩だ」


「そうかな。俺にはよくわからない……」


 ファルシールの目は遠かった。しかし、悲嘆というよりは得心をしたような落ち着きがあった。


「国を失うことを憂う心は今も昔も、国を越えても、変わらぬのだろう」


 与一はファルシールが見ている風景を少し垣間見た気がした。


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聖典のファルザーン ──荒野西行 編── 佐々城 鎌乃 @20010207

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