第10章 バグダラートへの道 1

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 隊商宿の2階には下男や商人たちが寝泊まりできるぼうがある。ファルシールたちの一行は残り少ない路銀を惜しみつつ、一宿いっしゅくの寝床を宿やどの房で取った。


 翌朝、鳥の忙しく鳴く声がして、与一は目を覚ました。底冷えするレンガ造りの手狭な室内には、ポツンと中央に石炭ゼカールをくべた火鉢が置いてあって、パチパチと音が響いている。与一は起き上がると肌寒さに身震いした。


(よく寝た……)


 コイルスプリングの入ったマットレスのベッドで寝て育ってきた与一にとっては藁を敷いた寝台の上に布を被せただけの寝台は粗末であったが、野ざらしの冷たい土の上より幾分もマシな寝心地であった。いつぶりのまともな寝床だろうか。この世界に飛ばされてから数えて9日、一時として休まる思いをしたことはない。


(このままここでずっと寝ときたい……)


 本音を言えば、野宿と移動はもう懲り懲りである。しかし、ファルシールについていくと決めたのだから、文句は言うまい。


「起きたかヨイチ」


 ケイヴァーンが呼んだ。すでに起きて身支度はほぼ整え終わった様子で、剣を腰に下げ、暖炉に掛けた鍋でスープを作っていた。


「おはようございます。……って俺もしかして寝過ぎてましたか……?!」


 与一は焦って辺りを見回したが、他の2人がまだ眠っているのを見つけて安堵した。


 与一は立ち上がってケイヴァーンの横に移動した。暖炉のそばは暖かい。


「宿の主に食材を分けてもらった。残り物だが、味は悪くない」


「やった」


 ケイヴァーンは鍋の中身をひと混ぜすると、鍋を火から遠い端の方に寄せた。彼の主が起きるまでスープを冷まさないためであろう。


 陽はまだ昇っておらず、暗い水色の光が組子細工の窓から室内を半の少し明るくしているだけである。


 ケイヴァーンは黙々と荷をまとめる作業を始めた。話すことも特にないので2人は自然と無言になった。


 それからしばらく経って作業が一段落したケイヴァーンは与一に向いて座り直した。


「ヨイチ。今日からの事だが」


「はい?」


「今日から次の町まで俺は隊商の用心棒として行動することになる。勿論、殿下のお側を離れる事はしないが、万が一、すぐにお助けできる場所に居なかった時、お前を頼ることになるかもしれん。だからこれを渡しておこうと思う」


 ケイヴァーンは言うと、おもむろに自身の荷物の入った袋から短めの直剣を取り出した。革製の茶色い鞘にベルト、革紐を巻いた抦だけの簡素なものである。


「えっ、俺、剣なんか使った事ないですよ!?」


「抜いてみろ」


 ケイヴァーンはおどおどする与一に直剣を渡して抜かせた。ほの暗い室内の光を刃が反射してギラついた。


「これはもしもの時のために預けておく」


「俺、こんなの使えないです……!」


 与一は慌てたが、ケイヴァーンは真剣な眼差しで重く与一を見据えた。


「剣は、扱いを誤ればお前や周りを傷つけることもある。だから、慣れないなら無理に使う必要はない」


 鉄の重さも、切先の鋭さも、包丁ではなく全て本物である。与一は慣れない重さに手が少し震えた。


「じゃあなおさら俺には要らないと思うんですけど……」


 ケイヴァーンは首を振って否定した。


「剣がそばにあるだけで、人は心を澄ます事ができる。剣は力だが、自身の心を支える道具ともなる。いざというときはその落ち着きが必ず助けになるだろう」


 ケイヴァーンはそれから口角を微かに上げて「これは父上からの受け売りだが」と言った。


「だが私は正しいと思っている。幾多の戦いを経て、そう感じた。使わなくても良い。持っていれば助けとなる」


 与一は渡された剣を見つめた。手の内にずっしりと掛かる重量と、先ほど見た刃先の鋭さが、妙に頭に緊張を与えて、逆に涼しさを感じる。


「……使わないで済むように頑張ります」

 与一は剣を受け取り、鞘に付いたベルトを腰に回して剣を下げた。


 ケイヴァーンは無言で頷くと、再び荷造りの作業に戻った。


   。。。


 その後、遅れて起きてきたファルシールとイグナティオも各々身支度を済ませて朝食をとると、一行は宿をあとにして集合場所である西門へと向かった。


 日が昇りはじめて間もないためにまだ薄暗いが、早々に雲が空を覆って今にも雪が降りだしそうな様子である。


 西門前の広場には、シーラーズから出る最後の隊商に同道したい商人や旅人が大勢集まっていた。互いに付かず離れずの距離を保って、知り合い同士で固まり、ひっそりと出発の時を待っている。人だかりの様子は空模様と相まって暗く感じられたが、隊商カールワーンのラクダたちは、いそいそと干し草をんでいた。


「私たちはカイマルズ殿のところへ」


 昨日手に入れた毛皮の外套を着こんだイグナティオは早速隊商の主の元に挨拶に行く。


「アルメス様。何卒お気をつけ下さい」


 ケイヴァーンも長剣に弓矢などの武具一色を帯びて用心棒の役目を果たすべくファルシールに頭を下げて、この場を後にする。


 2人が隊商の先頭へと消えて、与一とファルシールはちんまりと人混みに残された。


 井戸を覆う小屋の軒下で2人並んで立っていると、ファルシールが俯き加減に与一を呼んだ。


「ヨイチ」


「何?」


「そなた、私と共に来た事を後悔しているか」


 与一は唐突な問いに返す言葉を迷った。


「……どうしたんだよ急に」


「今までの9日間、私は皆を頼ってばかりで、何もしていない。此度の隊商カールワーンの事でも、シャイードには申し訳ない事をしたと思う。そなたは延々と書物を書き写す事になっておるし、国を取り戻すなどと大言壮語を吐いておきながら、自分が情けない」


 ファルシールが顔を伏せてすらりと長い銀の髪が微かに揺れた。髪で隠れた横顔からは表情が見えないが、口を結んでいる。


 与一は内心ぎくりとした。確かに今朝まともな寝床から起きて、旅をやめてこのまま寝ていたいと思った。だが、それは与一自身が怠惰なのであって、ファルシールが気を落とすことではない。そもそも与一がファルシールについてきたのは、放っておけなくて手助けしたいと思ったからで、今のところ手助けするような事態が起きていないので喜ばしいとも言えた。


「焦りすぎだぜアルメス。国を取り戻すなんて、1日、2日で出来ることじゃないし、何でも1人で出来る訳じゃないと思う。俺ら、いま4人だぜ? 今は頼りっぱなしでも、後々、必ずお前を頼る場面も出てくるだろうから、その時に今まで頼ってきた分を返せば良いんじゃない?」


「そういうものか?」


「そういうもん。気楽にとは言わないけど、力抜こうぜ」


 与一はどこかで聞いたような台詞をファルシールに投げておいた。しかし、実際その通りであるし、それ以上のことは思いつかなかった。


「出発だ! 行くぞ」


 隊商の先頭の方から号令が飛んで、馭者ぎょしゃの男たちが地べたに膝を折って座っていたラクダたちを一斉に立たせた。


「やべ。もう出るみたいだぜ」


「ああ」


 ファルシールは先ほどの与一の言葉に納得したというより、そう信じることにしたように静かな返事を返した。与一とファルシールは荷物を馬の背に載せてから、くらに飛び乗った。

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