空白の章
草森ゆき
自傷を見るのは構わないが、リアルタイムでの首吊りはかなり困る。視聴者は俺だけで、薄暗い部屋の真ん中、梁にくぐらせた長いストールは輪をゆらりゆらりと揺らしていた。煙草に火を着ける。ストールを見上げる
榊。俺とお前は、いや俺は、お前よりも駄目みたいだ。声にならない声の上を、パトカーが踏み鳴らして走り去っていった。
ある日気まぐれを起こし、一心不乱に絵を描く榊に近付いた。抽象画と呼ばれる絵だったらしく、俺は高校時代も今も何が描かれてあるのかまったくわからなかったが、凄みだけは伝わった。描き続ける榊の横顔も、鬼気迫るものがあった。
「凄いな」
俺がかけたのは、そのたった一言だった。弾かれたように顔を上げた榊は腕だけでなく顔にも絵の具を飛ばしていた。俺には打ち込めるものが何もなかったし、ただ単純に、本気で凄いと思っただけに過ぎなかった。でも榊にはそうじゃなかった。
「あ、あの!」
がたん、と音を立たせながら立ち上がった榊は、目を輝かせているように見えた。
「美術部、ですか?」
「え? ああ、うん、でも籍入れてるだけというか。今も、誰もいないならバイトまで寝ようかって思ってきただけ」
「うっ、あ、静かに、してるので、寝ていってください……!」
お言葉に甘えないほうが良かったのだが、美術室は角にあって非常に静かだったから、俺は了承して教室の後ろに転がった。視界の中、横向きになった榊の背中は相変わらず一心不乱で、なにかの賞とか、展覧会とか、そういうのに出すのだろうかと考えながら眠った。
スマホがアラームを鳴らして起きたときにも榊はまだ描いていた。バイトの時間が迫っていたので声をかけずに出て行こうとしたが、また来て下さい叶野さん、と後ろ姿に投げられた。また時間が余ったら。俺の返答に榊がどんな顔をしたのか知りたくもないし、名乗っていないのに名前を呼ばれたとこのときに気付いていたのなら、首を吊る場面なんて見なくても良かったのかもしれない。
バイトまでの時間潰しがしたくなったとき、俺は美術室で寝るようになった。榊はいつもいて、たまにする会話で学年がひとつ下であることとフルネームを知った。連絡先を教えて欲しいと言われ、特に断る理由もなくてチャットツールのIDを教えた。メッセージは週に一回程度、俺が美術室で寝た日にバイトお疲れ様ですとだけ入っていたが、大体はスタンプのみで対応した。
俺と榊はそう仲良くなったわけでもない。と、俺はずっと思っている。後輩の一人、絵を異様な気迫で描き続ける生徒、そのくらいの認識だった。廊下で偶々会った時、立ち止まって数分話したが、なにか特別な会話をしたわけでもなかった。でもこの辺りからじわじわ狂ってきた。
「ごめん、別れたい」
付き合っていた
どうして急に、俺は別れたくない、何かあったのか。そんなメッセージを送ったが、返事はなかった。翌日直接奈央の教室に行こうとしたが、数人の女子に止められた。奈央の友達、ではなかった。教室の後ろ、半分開いた扉の奥に、背中を丸めながら座っている奈央の姿を見つけたが、男子生徒に話し掛けられて顔を上げ、笑った顔が見えたところで扉がぱしりと閉められた。
俺のスマホは奈央からのメッセージが来なくなった。でも通知音は増えて、受信するのはほとんど榊のメッセージになった。奈央に振られた話をどこからか聞いたらしく、慰めるような言葉が並んでいた。また美術室にきてくださいと書かれていたがそんな気分ではなく、返事もろくにせず、奈央ともう一度、振られたままで構わないからもう一度だけでも話ができないかと考えていた矢先に異変が、気付かない間に忍び寄っていた善意という悪意が、俺の肩にそっと手を置いていた。
学校が終わり、帰ろうとした俺は下駄箱で数人の女に囲まれた。叶野先輩ですよね、榊くんのことなんですけど。そう前に出ながら話し掛けてきた後輩に、榊がどうかしたのかと、聞きそうになって直前で噤んだ。妙だったからだ。榊の話を俺は誰にもしていない、じゃあ榊がこの後輩たちに俺の話をしたということになり、数回しか話をしていない先輩の話をする理由はなんだと考える前に答えは得られた。
「どうして美術室に行かないんですか? 榊くんの彼氏なんじゃないんですか?」
俺は随分な表情で固まっただろう。固まっている間、後輩達は口々に話し始め、中には理解できない単語も多かったが榊がどうやら俺を好きらしい、とは、わかった。
「いやちょっと、悪いんだけど、男には興味がないっていうか、好きになられても嫌っていうか困るっていうか……」
同性愛自体は何の問題もなかったか、俺は今まで女子しか好きになって来なかったし、男と付き合えるかと言われればかなり無理な相談だった。加えて榊自体はこの場にいないのだから、信憑性自体もあまりなくて濁した返事になってしまった。
俺の返答を受けた後輩達はざわついた。明らかに眉を寄せている、リーダーらしい女子は俺を軽蔑するような目で見つめてきた。唐突に思えてつい黙ると、後輩は憤りを抑えきれないように話し始めた。
「先輩! それって同性愛差別ですよね? 男だから受け入れられないっておかしいですよ、同性愛のどこがいけないんですか? だからいつまでも差別がなくならないんです! 榊くんは叶野先輩に勇気を出して話し掛けて、毎日メッセージだって送っているのに、気持ち悪いから困るから避けるなんて有り得ないですよ! 榊くんはなにも悪いことしてないじゃないですか、ただ先輩のことが好きなだけで差別されるなんておかしいです!!」
唖然として、上手く二の句が出せなかった。黙っている間に他の後輩も差別だ、蔑視表現だ、同性愛は普通のことなのに、と一気にまくし立ててきてたじろいだ。
同性愛に関しては何も思ってないけど、榊に関しても何も思ってないだけだと、説明する暇は与えられなかった。俺は後輩達に詰め寄られて段々気味が悪くなり、そもそも本人に聞けば早いと美術室へ慌てて向かった。榊はいた。前のように熱心に絵を描いていて、俺が扉を開けると驚いたように振り返った。
「榊、お前、誰かに何か、言ってるのか?」
「えっ?」
扉を後ろ手で閉め、先ほどの後輩達が来てもややこしくなると判断し、内側の鍵もかける。ぽかんとしている榊に歩み寄り、下駄箱での会話をすべて話して聞かせ、反応をうかがった。榊は徐々に目を見開いていき、何も知らないのか、と思った直後手に持っていた筆を勢いよく絵に叩き付けた。何が描かれているのかは相変わらずわからなかったが、時間をかけて描いた作品を、一瞬で駄目にしてしまったとはわかった。
榊は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、違うんです、と唸るように呟いた。
「おれは、確かに叶野さんが好きです。それで、その、相談は、美術部のほかの部員に、してました。武嶋奈央先輩と付き合ってることも知ってて、おれは武嶋先輩に直接、話をしにいかなきゃだめだって、部員に言われて付き添われて、行きました。違うんですなにもしてないんです、武嶋先輩はおれが叶野さんを好きだって聞いて、応援したいって言ってくれたんですけどそのときにおかしいなって思わなきゃ駄目だったからおれが悪いんです、おれが悪いけどでも叶野さん、ゲイになのはおれが悪いわけじゃないんですよ、前から廊下で見るたびにかっこいいなって思ってたけど話せる日が来るとは思ってなくて、でも、叶野さんが絵を凄いって褒めてくれたからこんなに好きになったのに、全然返事もしてくれないし美術室にも来てくれないし、武嶋先輩がせっかく別れてくれたのに、どうしてなんですか!?」
俺はしばらく黙っていた。奈央の笑った顔を思い出し、下駄箱での話を思い出し、目の前の榊を見つめ、気持ちが悪い、とまず思って、そのまま口に出した。
「その、陰湿なところ、マジで気持ち悪いよ、榊」
背を向けて、足早に美術室から立ち去った。何を考えればいいかわからなくて真っ直ぐ帰宅し、夕飯も食べずに眠り、翌朝笑顔の母親に起こされた。迎えが来てると言われすぐに窓から玄関を見た。俺の部屋を見上げる榊は微笑んでいて、その近くには俺を下駄箱で詰った後輩と、奈央の姿もあった。
美術室で俺が榊に事情を聞いた日、他の美術部員だという後輩たちは俺と榊が美術室で仲良く過ごした、と曲解したらしかった。俺は榊とは付き合えない、異性愛者だと説明したがそのたびに同性愛蔑視だと反論された。カノサカはもう公認なんですよと言われて、カノサカってなんだと問い返したところ、叶野と榊の略称のようなものだと返された。その意味自体ははかりかねたが俺と榊が公認、は、事実だった。同性愛は蔑視を受けるべき立場ではないし榊を受け入れた俺は素晴らしいことをしたと誰かに言われた。もう誰が言っていたのか思い出せない。
俺は榊との時間を余儀なくされた。榊は嬉しそうだったが、俺の反応が悪いと癇癪を起こして絵や自分の肉体に当たった。ペン先を腕に突き刺し始めるのでぎょっとしてやめさせれば叶野さんは優しい、おれには叶野さんしかいない、好きになってくれて嬉しいと本当に幸せそうに言われて、そうか榊には俺しかいないのか、じゃあどうにかしてやらなきゃいけないのか、というか榊といなければいけないんだから俺は榊を好きでいるべきなのか、同性愛差別はいけないしな、嫌がっちゃ駄目だったのか、と、考えも変化していった。親は理解を示していた。同性愛者でも俺を大事な息子だと思うと言って、榊を家に呼んだ時には歓迎してくれた。
榊は都会に出て絵に関する学校に入りたいといい、俺も一緒に行くという話になって、大学に行きたかったが榊を支えるために働く方向で就職先を決め、実際にその通りの未来がやってきた今、同棲を始めて半年足らずで榊は梁にストールを引っ掛け吊るして煙草を咥える俺の目の前で自殺をはかろうとしていた。
「榊、やらないのか」
やる、と榊は呟いて、ずりずりと椅子を引き摺ってきた。本当は座るところに足を乗せて立ち上がり、輪になった部分に首を入れてから俺を見下ろした。観光名所の記念撮影みたいだった。顔が少し前に出ているから、窓から入り込む街燈や月の明かりに照らされて、首だけ薄い暗闇に浮かんでいるようだった。
榊は恨み言を話した。叶野さんの帰りが遅い、休みの日に先輩の誘いだってどこかに行く、おれの絵を褒めてくれない、おれは叶野さんのために描いたのに、仕事に疲れたってすぐ寝てしまう、ひどい、仕事の話はおれはわからないのに聞かせてくるし、お金が少ないのに煙草なんて吸い始めるし、おれは料理ができないのに叶野さんは作ってくれないし、絵画展に行きたいって言ってもいってくれないし全然話もしてくれないし昔はあんなに優しかったのに今はなんにもしてくれない。
ぎしりと椅子が鳴る。俺は黙って煙草を吸って、煙を吐きながら手元のスマートフォンを見る。着信がある。職場の同僚、俺の先輩にあたる人からだ。榊が叫ぶ。またあいつでしょ、とほとんど金切り声で言う。先輩は男だし浮気も何もない、と俺は言わない。男だろうが女だろうが同性愛者だろうが異性愛者だろうが、今の俺にはすべて同じに見えているし榊が死んでも死ななくてどっちでも良かった。榊はなにかを叫び、椅子を蹴った。梁がみしみしと音を立て、榊は足をじたばたと動かし首に食い込むストールを両手で必死に掴んでいた。
そのうちにストールが解けた。榊は床に落ちて、激しく咳き込んでから泣き始めた。うずくまり、首を振り、叶野さん、どこにいるの、とうわごとのように呻いた。
ここにいる。榊、俺はここにいるけど、お前の恋人としてずっと過ごしていくけど、もうほとんど全部がどうでもいいから、今はただいるだけだ。あいた穴のように、置かれているだけなんだ。
空白の章 草森ゆき @kusakuitai
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