第五章 大喪(たいも)の服が似合うとき

「……報告を聞こう」

 フィンランド大使館電計処理室。ホットラインを使い、アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ三等書記官はモスクワのクレムリンと回線を繋いでいた。

同志タヴァーリシチミナリンスカヤ大統領閣下。この度は敵を取り逃がす失態を犯し、慙悔ざんかいに耐えません」

 回線の向こうで余裕の表情を浮かべるは、ソ連大統領・ミナリンスカヤ。まだ三十四歳の若年でありながら、大帝国であるソビエトを統治するKGB出身の女傑である。

「同志ベリンスカヤ少尉補。ソ日国交正常化までに、この件は必ず処理せよ。ヴォルコフ駐在武官、三枝ひそか、そして甘粕忠彦……その全てが、アナスタシア五世拉致の障害となる存在である。全員の排除を、改めて命ずる」

「弁えておりますわ」

「アナスタシア五世を暗殺するのが最も手っ取り早いが、発覚すれば『国家主権の侵害』として対日外交の汚点となる。日本の民警は優秀だ。リスクが大きすぎる。極めて面倒だが、生け捕りは絶対である。そして我がソヴィエトは、国内に不満分子を多く抱えている。彼女を野放しにしておくと、それを旗印として政治的策謀を起こされる可能性がある。八月クーデターで失脚したゴルバチョフと同様、ルビヤンカ監獄に収監するしか手はない」

「王政復古は絶対回避。ロマノフ王朝の断絶をもって、我らソヴィエトの『第三革命』が成立するのですわね?」

「その通りである。今は対日国交正常化が至上課題であるが、同時にロマノフ王朝にもとどめを刺さねばならない。少なくとも我がソヴィエトの不倶戴天の敵、ヴァチカン市国はソ日国交正常化、つまり日露国交断絶後も露帝との関係を継続すると思われる。ロマノフ問題については、実力行使しか手はない」

「閣下。少尉補の身で差し出がましいことを伺いますが、日本側が『北方領土』と呼称する南クリルはいかがされるおつもりですかしら?」

「実にしゃくなことだが、南クリルはくれてやるつもりだ。南クリルを渡さなければ基本条約止まり、南クリルを渡せば平和条約というのが日本側の条件だ。あのような小島で、外交上のキャリアに傷をつけることはできぬ」

 ……ミナリンスカヤは、功を焦っている。渡してはならないものを、渡そうとしている。国際法上も歴史上もソ連の領土である南クリルを、その面積だけで日本に渡そうとしている。――これだからKGBは、曲げてはならないものを『政治』で曲げてしまうというのだ。

「質問がないのなら、用件は以上だ。まずはアナスタシア五世の側近から叩き、本人の身柄をモスクワに護送せよ」

 無言でソ連式の敬礼を示すと、答礼ののちに通信は切れた。

 ソ連領内への拉致……となると、飛行機は無理だ。別人としてのパスポートはフィンランド大使館で発行できたとしても、有名人である彼女を日本の入管や航空会社のスタッフが見知っていたら計画は破綻する。

 日本は島国なので、もちろん陸路は使えない。現実的なのは……日本海を行き来する貨物船に紛れ込ませるか、または小型船を使って、南クリルかサハリンまで北海道本島から護送することだろう。

 暗殺のほうが、遥かに簡単な任務だ。日本国内では一切彼女に傷をつけず、彼女の身柄をルビヤンカに入れる。それも、できるだけ誰の目にも触れずに。

 対象者を警護する三名。それらを『無力化』し、ソ日国交正常化までになんとしても対象を確保する……それが、我が小隊に課せられた任務だった。

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