第四章 色あせた紋章

 ロシア帝国臨時首都、トウキョウ州アザブ市――亡命政府の庁舎に、夜のとばりが落ちる。俺と校長は柚月野原から帰ったひそかから一部始終を聞き、校長経由で情報を公安と共有することにした。

 食事を終えた俺とひそかは、ナーシャから呼び出しを受けていた。行き先はバーニャ室……。ミストサウナの激しいやつだと思ってくれればいい。ナーシャが俺達をそこに呼ぶときは、たいてい『重要な話がある』ときである。

 ひそかと一緒に先に中で待っていろとのことだったので、別々に服を脱いでタオルを身にまとうと、まだ湿度が低い状態のバーニャに入る。程なくして、脱衣所に誰かがやってくる気配がした。

「忠彦、ひそか。温度の具合はどうか?」

 外から大声で、ナーシャの声が聞こえてくる。俺は階段状になっている椅子の、一番低いところ――つまり、温度が一番低いところに陣取った。

「暑いが、本気のバーニャとは比べ物にならない。さっさと入ってきてくれ」

 色々な意味で覚悟を決めて、そう返す。木のきしる音とともに、栓の抜けた瓶ビールと白樺の束を持ったナーシャが入ってきた。毎度驚くべきことに全裸なので、目のやり場に困る。バスタオルを全身に巻いて、一応は恥じらっているひそかとは対照的だ。

「ナーシャ。頼むからタオルを巻いてくれ」

「己を隠すというのは、やましいことがある証である。されど、余にそのようなものはない。よって、余はタオルなど使わぬ! ……では、始めるぞ」

 問答無用と言い捨てて、ナーシャはビールをサウナの熱源……熱く焼けたサウナストーンに思い切りかけた。激しい音を立てて、蒸気がもうもうと立ち上る。この蒸気こそが、日本の乾式サウナとの最大の違いである。

 アルコールを僅かに含んだ蒸気が、肺の中に入ってくる。慣れそうにもない香りだ。体感温度は温度と湿度を足した数値に比例すると言われるが、バーニャはこの蒸気ゆえに日本のサウナより遥かにキツい。みるみるうちに、全身に滝のような汗が流れ出す。

「こら。僕の彼女をガン見しちゃダメだからな、忠彦」

 隣に座るひそかがバスタオル越しにささやかなバストを押し付け、俺の目を隠しながら耳元でささやいてくる。こっちはこっちで、宿舎では同室なのに『女』を感じてしまって困惑する。はっきり言うが、二人とも『自覚なき逆セクハラ』をかましている。

「分かった、分かった。うつ伏せになるから、それで許してくれ」

 俺は目をつぶってひそかの手を振りほどくと、階段の上にうつ伏せに寝そべる。

「手間が省けてよいわ。……どれ、忠彦。余が日頃の労苦をねぎらい、おのずからウィスキングをしてくれよう」

 ナーシャの声が聞こえる。そしてバーニャに置いてあったであろう瓶の蓋を開ける気配と、ドボドボと液体を何かにかける音がした。

「ウィスキング……って、あの葉っぱで体を叩くロシアのマッサージか?」

「うむ。北海道から取り寄せた白樺の枝に、水を含ませたものを使う。不慣れゆえ、痛いかもしれんがな。そこは我慢せい」

 ナーシャはそう断りを入れると俺の側に寄り、持ってきた白樺で俺を軽く叩き始めた。

「う……全然痛くないぞ。むしろ気持ちいい。血行がよくなる気がする。それにこれは……森の香りだ……」

 『北国』感がすごいぞ、これ。関東には生えていない白樺の香りが、俺を優しく包む。的確に気持ちいいところを刺激するマッサージに、うとうとと眠くなってしまう。

 ……と。いかんいかん。大事なことを忘れていた。寝ている場合じゃないし、寝たら脱水症状で死んでしまう。

「ナーシャ。俺達をバーニャに誘ったってことは、用事があるんだろ? 言ってみてくれ」

 俺の言葉に、ナーシャはウィスキングの手を休める。意を決したような感じで、ナーシャは語り始めた。

「スメフ・ベズ・プリチーヌィ・プリーズナク・ドゥラチーヌィ。由無き笑いは間抜けの証拠、というロシアのことわざである。ロシア人は、心を許した相手にしか笑みを見せぬ。……忠彦。ロシア帝国ツァーリ、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ五世の名によって命ずる。腰を上げ、目を開けよ」

 皇帝陛下の『命令』なら、流石にやむを得ない。俺はバーニャの階段に座り直すと、おずおずと目を開けた。


 ――驚くほどの、柔らかい笑み。視界を占めたのは、今まで見たことのないナーシャの表情だった。


「両名とも、日頃の働きあっぱれである。我が大ロシアに来ぬか。余の臣下にならぬか。政府職員として、そして帝国臣民として、手厚く遇するぞ」

 真面目な話をしているのに、たわわに実ったナーシャの胸に視線が行ってしまう。劣情を催して大変なことになる前に、慌てて視線をそらす。

「……その話を呑んだら、どうなるんだ? 俺はロシア語なんてできないぞ」

「ロシア帝国としては、二重国籍を認めておる。日本は建前上、二重国籍を認めておらぬが実務上は問題ない。公用語は、満州時代にロシア語、日本語、中国語、モンゴル語の四ヶ国語が定められておる。よって、日本語ができれば支障はない。それに……我が臣民で日本語を解さぬ者など、既におらぬ。『亡命政府』とは、そういう宿命を背負っておるのである」

「政府職員……って、具体的に何をするんだ?」

「今の仕事を続けてくれれば構わぬ。卒業して大学に進学したら、政府奨学生のような形もよかろう。……とにかく、余の側にあってくれればそれでよい」

 側近が欲しい……というのが本音なんだろうな。『皇帝』とは常に孤独を強いられるものだ。

「いいぞ」

「――よいのか? 言っておいてなんだが、さよう簡単に決めてしまって」

「ああ。打算じゃなくて人として、ナーシャは俺を必要としてくれている。それが分かるからな。日本では『義を見てせざるは勇なきなり』って言うんだよ」

「……ありがとう、忠彦。ひそかはどうだ?」

 めったに漏らさない感謝の言葉を静かに口にして、ナーシャは俺の横に座るひそかに向き直った。

「僕も構わない。今日、敵と接触して痛感したことがある。ナーシャを護りきるためには、こちらにも外交特権があったほうがいい。四号警備と兼任で、外交官のポストをもらえるのなら……是非」

「すまぬ。それは合理的であるな。外交特権があるならば、大手を振って日本国の裁判権や警察権から免れることができる。……仮に争いの中で敵を討たざるを得ない事態になったとしても、処罰は受けぬ。そういうことなら明日付けで二人を書記官に補し、日本国外務省に外交官リストを提出しておこう。二重国籍の問題が生じるが、そこも根回しをしておく」

「……二等? 三等の間違いじゃないのか? 俺らみたいな下っ端だぞ」

「いや、二等である。……敵がフィンランドの三等書記官を名乗っておるのだから、せめてもの意趣返しにと思うてな。それはそうとひそか、撃たれたところは大事ないか」

「問題ないよ。骨にヒビが入ったかと思ったけど、ただの打撲で済んだみたいだ。防弾チョッキがなかったら危なかったけれど」

「……そうか。それはよかった。立場ゆえ詮無きこととは言え、おのがせいでひそかが傷ついたとなれば、余は自責の念に駆られたであろう」

「ナーシャ。僕たちは盾だ。君を護る盾だ。だからそういうことは、一切気にしなくていい。……僕たちが絶対、君のことは守りきるから」

「ありがとう。余はこれにおいて、人生における最良の臣下に恵まれた」

 ナーシャは頬を緩めながら、一筋の涙を流す。――おそらく、他の『臣下』には決して見せたことのない涙を。

 俺は気恥ずかしくなり、ナーシャの裸体から顔を背けながら立ち上がった。

「……のぼせちまった。先にあがるぞ」

 バーニャを速歩きで出ると、出口のそばにある水風呂にザバリと入り汗を流す。

「ふう……」

 生き返るような快感が、頭の芯を駆け抜ける。

「人生における最良の臣下、か……」

 ナーシャの期待に応えられる漢に――そうなりたいと、ただただ純粋に思う。

 そうなるためにはどうしたらいいか……相談するなら、相手は『あの人』だな。己の信念に従いチェチェン紛争を戦い抜き、亡命政府ではナーシャに絶対の忠誠を誓った、あの漢に――。

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